第25話
たんたんと、一歩一歩階段を下りるたびにカイリの心臓が不安定に跳ねる。
一階に辿り着き、入口とは反対方向へと向かった。裏口が、ハリエットがいた場所のすぐ近くだからだ。
ドアノブを
〝……、か、い、……――――――〟
「――っ、……ミーナ」
自分の名前を呼びながら踏み潰されたあの横顔を、カイリは生涯忘れないだろう。
二度と、同じ悲劇を繰り返させはしない。
ぐっと、左手で右手首を一度握り締める。
そのまま左手を離した後は、もう右手の震えは止まっていた。
「……、……待たせたな! 約束通り、来たぞ!」
ハッタリが肝心だ。
ラインが口にしていたのを思い出し、カイリは先手必勝とばかりに扉を叩き開けた。ばあんっと思いのほか大きな音が、物騒な夜空に響き渡る。
そうして、一歩踏み出した先では、窓から見た光景がそのまま広がっていた。
ハリエットは野盗二人に拘束され、不安そうに――けれど何か期待をこめてカイリを見つめてくる。取り敢えず無事だったことに、一瞬だけ安堵した。
武器を構えた野盗達の中心に、変わらずヴォードと名乗った男は佇んでいる。一人だけ闇に溶け込む様な真っ黒な姿に、カイリは底の見えぬ穴を覗き込んだ心地がした。
「本当に二人を連れて来たのですね。感心ですよ、カイリ君」
「って、本気ですの! ……冗談じゃありませんわっ」
「あー、……カイリが、邪魔をしたらすぐ自害するとか言うのでな。あー、……聖歌を歌える者を失うのは、教会としても痛恨事だ。……いや、お前達に渡すのも痛手だから、どうだ。ここは痛み分けにしないか?」
「おやおや。往生際が悪いですねえ。くく、そこのカイリ君は、見た目の割には随分と肝が据わった人物のようで」
面白そうに喉を鳴らす男に、シュリアが「きーっ!」と
一方で、フランツの棒読みはとても酷いものだ。何故この二人は、ここまで対照的なのだろうと頭が痛い。
「さあ。こちらへ、カイリ君」
「……、ああ」
くるんと、カイリは男の方――ではなく、ハリエットの方へと向き直る。
目が合った途端、ぴっと彼女が背筋を伸ばした。やはり気味悪がられているだろうかと不安になったが、ここで立ち止まるわけにはいかない。
「ハリエット……」
「カイリお兄さん……」
「……、……頼む。彼女を、抱き締めさせてくれないか?」
――どうしよう。俺、マジで変態だ。
内心でだらだらと汗を掻きながら、カイリは男を
男は何だか口元を引くつかせていた。やはり、彼も引いているのだろうか。この極悪非道に引かれるのは、地味に傷付く。
「……まあ、いいでしょう。どうぞ、彼女の元へ」
「……っ」
促され、カイリは一歩、また一歩とふらりと歩き出し。
最後は、小走りになってしまった。一刻も早くと彼女の元へと駆けていく。
「……ハリエットっ!」
「お兄さん!」
そうして、手と手が触れ合った瞬間。
「――おっと。余計な真似はしてはいけませんからね」
「――っ」
野盗達が、一斉にカイリ達へと武器を突き付けてきた。じゃっと、物騒な金属音が周囲を取り巻く。
カイリの方は刃との距離があるものの、ハリエットの方の刃は顔のすぐ近くや首筋の裏すれすれだ。
知らず、彼女を抱き締める腕に力がこもった。少しでも刃から遠ざける様に、カイリは体を
「……、約束は」
「守りますよ? ただ、あなたが約束を破れば、すぐさま彼女が物言わぬ塊になることもお忘れなく」
くくっと嘲る様に見下ろしてくる男に、カイリは睨み付ける様に視線を返す。
やはり、全てを信じたわけでは無い様だ。ロリコン疑惑が晴れるなら万々歳だが、それはこの窮地を脱してからにしたい。
「……ごめんなさい、お兄さん」
「え?」
きゅっと、ハリエットがカイリの服を掴む。その手が小刻みに震えていて、眉間が寄っていくのがカイリにも分かった。
「どうして謝るんだ?」
「だって、……だってっ。わたしが、つかまったせいで、お兄さんに迷惑が……」
ごめんなさい、とカイリの胸に顔を押し付けてハリエットが声を殺す。震えながらも気丈に振る舞う彼女に、胸が潰された様に苦しくなった。
彼女は、まだ十になるかならないかくらいの少女だ。こんなに野蛮な男達に囲まれただけでも心労は多大だっただろうに、よく頑張っている。
巻き込んでしまったことが、心の底から申し訳ない。少しでも不安が和らぐ様にと、カイリは彼女の頭を軽く撫でた。
「謝ることはないよ。むしろ、俺が謝らなきゃ。……巻き込んで、ごめんな」
本来なら、こんな危険な事件に巻き込まれるはずはなかった。とっくに故郷への帰路へ就いていただろう。
だからこそ、カイリは整った舞台に気合を入れる。どくっと、心臓が緊張で高鳴るのを無理矢理押し込んだ。
「……そんな、お兄さんは」
「それに」
彼女の言葉を、カイリはにっこり笑って遮った。
そろそろと見上げてくる彼女の瞳は、綺麗な夜空を落とした様に綺麗だ。その輝きを、彼女の未来を、ここで絶やすことは絶対にしない。
「それにな。……これは、夢だから」
「え、……夢?」
きょとんと目を瞬かせ、彼女が首を傾げる。
周りの野盗達も一緒に瞬いていて、隙だらけに見えた。確かにこれなら、カイリが動かなくてもフランツ達だけで何とかなりそうだなと思ってしまった。
そうだ。フランツ達が、背後で見守ってくれている。
背中を押される様な心強さに、カイリは更に笑顔を咲かせた。
「そう。これは、悪夢だけど、ただの夢。……目が覚めたら、ふかふかのベッドの上で、きっと眩しい朝を迎えられるよ」
「え、……え?」
「だから、大丈夫」
晴れ渡る様に笑って、戸惑う彼女の頭を抱き締める。
――さあ、始めよう。
一度目を伏せ、カイリは心を整える。
そのまま静かに深く息を吸い――夜空に、穏やかな音色を乗せた。
【――ゆりかごの歌を】
はらっと、張り詰めていた空気が優しく溶けるのが分かった。
【カナリヤが歌うよ】
声に合わせて風が、夜が、ゆったりと眠りながら沈んでいく。
たゆたう者達を抱き込みながら、全てがゆったり落ちていく。
【ねんねこ、ねんねこ
ねんねこよ】
「……、っ、あ? 何か、急、に、ねむ、……っ」
「……っ! きさ、ま……っ! まさか……っ!」
異変に気付いただろうが、もう遅い。
ぐらっと頭を押さえながら、先程まで嫌らしく笑っていた男が吼える。
それを聞き流しながら、カイリはひたすら歌い続けた。
【ゆりかごの上に】
ばたばたと倒れていく野盗達を尻目に、カイリは声を重ねる。
全てを優しく、全てを見守る様に、カイリは世界に声を渡す。
【びわの実が揺れるよ】
「……おにい、さん……」
名前を呼びながら、とろとろと
その感触が気持ち良かったのか、彼女の顔にもう怯えは無い。少しだけ笑って、眠りに落ちて行く。
そう。
彼女は、何も覚えていなくて良い。
【ねんねこ、ねんねこ
ねんねこよ】
この子守唄の様に、優しさに満ち溢れた世界でゆっくりと休んで欲しかった。
【ゆりかごの
「貴様……っ! ……くっ、や、……や、くそくを……!」
【木ねずみが揺するよ】
よろけながらも、男が地を蹴る。同時に、ひゅっと、刃が迫る音がした。
だが、寸前で防ぐ様に甲高い金属音が上がる。視界の端でシュリアに蹴り飛ばされ、フランツに捕えられる男を認めながら、カイリは更に紡いだ。
【ねんねこ、ねんねこ
ねんねこよ】
願いながら、一心に歌う。
どうか。
――どうか、ひとときだけでも。この歌の様に、優しい世界が広がっています様に。
【ゆりかごの夢に】
どうか、この優しい世界の中で、全ての者に安らかなる眠りが届きます様に。
そして、どうか。
【黄色い月がかかるよ】
どうか、次に目覚めた時には、みんなが幸せな気持ちになれます様に。
【ねんねこ、ねんねこ
ねんねこよ】
――ただ、それだけを願う。
静かに最後を紡ぎながら、カイリはいつの間にか閉じていた目を開ける。
そこに訪れていたのは、温かな静寂が舞い降りる世界だった。
あれほど不気味だった夜の顔は、すっかり安らかな寝顔で眠っている。木々の葉がこすれ合う音も滑らかで、まるで笑っている様だった。
野盗達も、あの男も、全員残らず眠っていた。ハリエットも、腕の中ですやすやと穏やかな寝息を立てている。
――終わった。
気が抜けた瞬間。
「……、はっ」
どっと、重力がカイリに全て集中した。頭から押し潰される様な疲労に、堪らず崩れ落ちる。
辛うじて腕に抱いたハリエットを取り落としはしなかったが、次から次へと襲い来る疲労が一気に押し寄せてきた。正直、もう立つことも出来ない。
「大丈夫か、カイリ」
フランツがいつの間にか近付いて肩を叩く。
その衝撃でふらついたカイリを、
「す、みません」
「いや、問題ない。しかし……抵抗はしたが、かなり俺たちもきた。こいつらでは太刀打ち出来なかったのは当然だろう。お前の聖歌は、本当に強力だ」
「え……」
思ってもみなかった言葉に、カイリが顔を上げるとぐしゃぐしゃと頭を撫でられら。
フランツさん、と掠れた声で呼ぶと、彼はとても眩しそうに、優しく笑みを落としてくれた。
「今の歌、本当に素晴らしかった。……とてもお前らしい、優しい音色だったぞ」
「――――」
満足そうな表情に、カイリは一瞬反応出来なかった。ずっと空きっぱなしだった穴に、少しだけ満ちる様な温かな熱が流れ込んでくる。
だが、笑うフランツの顔には、疲労の色が濃く出ていた。大の字で倒れていびきをかいている野盗を見て回っているシュリアも、心持ち足元が不安定だ。
二人には、かなりの負担を強いてしまった様だ。申し訳なくて、カイリは支えられたまま謝罪をしようと見上げる。
「あ、の」
「ハリエットを確実にカイリの手の中に収め、安全を確保する。そういう作戦だったということか?」
フランツが話題をずらしてくる。
カイリに謝罪をさせる気は無い様だ。その気遣いがありがたくて情けなくて、泣きたくなるほど心が温かくなった。
「はい。……ミーナの時は、姿を見せただけで殺されたので。それなら、俺の手元に何としても確保出来る様な状況を作りたかったんです」
「……ふむ」
「窓の上から歌うことも出来ましたけど、俺の歌が効かなかったり、抵抗されて殺される可能性もありましたし」
だから、歌うのは、確実にハリエットの安全が確保出来てからと決めていた。
フランツからカイリの聖歌は力が強いと聞いていたが、毎回そうとは限らない。不確実な場面でしくじって、彼女を危険に
何とか成功し、今、彼女はカイリの腕の中で眠っている。すやすやと聞こえてくる寝息はとても安らいでいて、安心してしまった。
――今度は、ちゃんと守れたのだと。
そう、胸を張って言える。
「全く、肝が冷えそうな作戦だ。実際、危なかったんだぞ」
「でも、お二人ならきっと助けてくれると信じていました。現に、シュリアが助けてくれた」
後半はシュリアに呼びかける様に声を大きくする。呼吸をするのも辛かったが、それでも彼女に言いたいことがあったのだ。
シュリアは忌々しげにこちらを向き、腰に手を当てて睨んでくる。どこまでも彼女らしい。
そんな彼女とカイリは、これからもずっと気が合わないかもしれない。
だが。
少なくともカイリは、彼女のことが嫌いではなかった。
「ありがとう、シュリア」
「……」
「おかげで、最後まで歌い切れた」
彼女が背中を押してくれなければ、カイリはいつまでも
今回だって、本当はフランツとシュリアだけで何とかなったのかもしれない。実際、二人はカイリが失敗しても何とかなると言葉の端々に匂わせていた。
それでもカイリの作戦に乗ってくれたのは、奮い立たせてくれるためだ。
自分の足で立ち上がるのを、見守ってくれていたからだ。
フランツはもちろん、シュリアも何だかんだで甘くて優しい。本当に突き放すだけならば、カイリの作戦に乗る必要は無かった。
「……ふんっ。味方を巻き込むなんて、まだまだですわ」
「……、うん」
「……はあ。……でも、おかげで死人はゼロですわ」
それだけを言って、シュリアはまた確認に戻る。
彼女の背中はそれ以上の言葉を拒絶していた。話しかけるなと全身で物語っている。
だが。
カイリには今の言葉が、何よりも嬉しい報酬だった。
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