2-49 PM18:50/反撃と裏切り②

「ロウウェル……」

 信頼していた身内の、突然の裏切り行為。ギュスターヴは怒りと驚きがない交ぜになったような声で、部下の名を呟くしかなかった。

「自分が何をしているのか、分かっているのか」

「ご心配なく。気は確かですよ」

「貴様……!」

 ただならぬ予感を孕ませて相対する両者。一方、いきなり蚊帳の外へ弾き出される格好となったパンクは、銃口の先をどちらに向けるべきか、この男には珍しく右往左往するばかりだった。

「この際です。五年間ひた隠しにしていた秘密を、お教えいたしましょう」

「秘密?」

「ロウウェル・フェザーハットは偽名です。本名はジョシュア・ブレンドと申します」

「ぎ、偽名だと?」

「ええ、そうですよ。どうも初めまして・・・・・・・・。ギュスターヴ・ナイル」

 口元だけに微笑みのかたちを作りながら、ロウウェル、否、ジョシュア・ブレンドは、その場の誰もが予想だにしていなかったカードを掲示してきた。

 これには、さすがのギュスターヴも困惑を隠しきれなかった。男の突拍子もない言葉を素直に受け取れきれず、信じあぐねているように下唇を噛み締める。

 膨大な交友関係を記憶の引き出しから引っ張り出すも、手掛かりはなし。立場上、恨みを買うことが多い人間だと自負しているギュスターヴだったが、ジョシュア・ブレンドなる人物は、個人的に作り上げた『敵対者のリスト』には記載されていなかった。

「聞いたことのない名前だ」

 そう素直に感想を口にすると、当然だと言う代わりに、ジョシュアが頷いてみせた。

「諜報局に所属する職員たちは、業務上、徹底したプライベート管理を義務付けられますからね。役所の棚に保管されている戸籍謄本にすら、私という個人を保証する力はありません」

「諜報局だと?」

 思わずギュスターヴは鼻白んだ。意外な告白ではあったが、思い当たる節がある。ここ最近の委員会と企業連合体の水面下での不穏な対立を思い起こせばこそだ。

「委員会の犬が、ついに企業連合体の人間に噛み付きにきたか。私ひとりを抹殺すれば、レーヴァトール社の威勢を削ぐことに繋がると妄想しているのか? それともまさか、脱税の嫌疑が掛かっているとか、馬鹿げた話をしにきたんじゃあるまいな」

「貴方に疑わしいところがあるから身辺調査をしていたんじゃありません。いえ、そもそも身辺調査すらしていません。私はただ、貴方に接近していただけです。ネズミは潜り込めれば潜り込めるほど良い、というのが組織の方針でしてね。万が一に対する備えという意味も込めて、都市の支配者層へ上手く入り込んでいる諜報局職員は、この都市にごまんといます」

 万が一に対する備えとして潜り込む。その一語が、焦燥と混乱に揉まれていたギュスターヴの思考の方向性を、一点に定めた。

「なるほど……読めたぞ。そこの薄汚いハンターと同様、貴様ら委員会の狙いもまた、願望授受体フォークロアか」

 確信を得たように言うと、視線をロウウェルの傍に立つニコラへ向け、それからもう一度ロウウェルを睨みつけて、ギュスターヴは奥歯を噛み締めるように続けた。

「委員会の連中が彼女の存在を捕捉している可能性を……考えなかったわけじゃない。だが、こうして先を越されるとは……くそ、なんてことだ。都市の支配者層の低俗な安い快楽を満たすためだけに奇跡が消費されるなんて、そんな馬鹿げた話があってたまるか……!」

「上級都民なのは、貴方も同じなのでは?」

「一緒にするなよ小童ッ!」

 血に塗れた老人が、渾身の怒りを込めて吠えた。

「私は学んだのだ。あのお方・・・・と出会い、私は精神的な脱皮を果たした。この都市で真に価値あるものはなにか。金を稼ぐのはいい。問題は、その金をどう使うかだ。あのお方と出会う以前の私も、忌み嫌う俗物の一人だった。他者への優越感を味わいたくて中層へ下りてきたことや、見栄や世間体のためにこんな豪邸を建ててしまったことを、今では心の底から恥じている。なぜか? 私の心が、精神的豊饒性を欲しているがためだ! 全ては偉大なるあのお方の計画実現を願ってのことだ。そのためだけに金を搔き集め、ひたすらひたすら寄進してきたというのに――」

「見上げた信者根性ですね。まぁ、信者という点では私も同様ですが」

「……なんだと、するとまさか……」

 追い詰められていたギュスターヴの表情が、明らかな変化を見せた。疑惑が確信へ遷移するにつれ、驚きと怒りは消え去り、やがて安心感が芽生え、滑稽な芝居を観た時のように、声を上げて破顔したのだ。

「なんと、なんということだ。なるほど、そうか。そういうことか。私はいま、完璧に理解したぞ。つまり貴様は、あのお方の命令で願望授受体フォークロアを奪おうというのだな? はははっ! なんという茶番だ! それはまさに、私がやろうとしていたことじゃないか!」

 意外な場所で旧友に再会した時のような喜びに肩を震わせながら、ギュスターヴはひとしきり笑った。その声には、気が触れてしまったかのような勢いがあった。

 パンクは気圧される気持ちを抑えて銃口をロウウェルからギュスターヴへ向けたが、そんなのは眼中にも入っていない様子で、喜々として敬虔な信者としての一面を解放したまま、意気揚々と老人は続けた。

「安心したまえ、ロウウェル……いや、ジョシュア・ブレンドよ。階層が違えども、私の魂のベクトルは常に、あのお方が唱えるプロメテウスの未来予想図へ向いているのだから。願望授受体フォークロアは、最初からあのお方へ捧げるつもりだったのだ。あのお方の野望の炎へ捧げる生贄として、これ以上うってつけな物もない。そのためにハンターどもを利用し、我が娘を二重スパイに仕立て上げたのだが……いやぁ、まさかこんなことになるとは」

「…………」

「警戒する必要は全くない。共に、あのお方に心奪われた者同士。捧げ物を手に、一緒に上層へ向かおうとしようか。さぁ、分かったなら、その物騒な代物を早くしまいたまえ」

「……盲目というのも考えものですね」

「ん? なんだ、いまなん――」

 聞き逃したロウウェルの呟きをもう一度耳にしようとしたギュスターヴだったが、鼓膜をひどく揺らしたのは、容赦のない一発の銃声だった。

 ギュスターヴの汗で濡れた額に、真っ赤な孔が穿たれ、そのまま、力無く横へ倒れた。

 一瞬、パンクは自分が緊張に耐え切れなくなって、あるいは完全に復調していない体の具合のせいで、うっかり己の銃を暴発させてしまったのかと驚いたが、そうではなかった。

「あのお方は……ディエゴ様・・・・・は、あなたのような『独り善がりな信者』を、心底迷惑がっているのですよ」

 血の床へ沈み、ただの肉人形と化したかつての主人へ軽蔑の眼差しを向けると、ジョシュア・ブレンドは銃口からたなびく硝煙を息で払い飛ばし、拳銃を懐へしまった。

「勝手に導師の意志を汲んで行動するなど、信者にしては傲慢に過ぎる。あのお方はそう仰っていました。他者を省みない献身さには、いつしか傲慢さが宿り、身を滅ぼす。あの世でよくよく噛み締めることですね」

「……おい、どういうことだよ」

 パンクは、理解の追いつかないやり取りの果てに息絶えた老人へ、なおも怒りの籠った眼差しを向けつつも、意識だけは目の前に立つ人物にのみ集中させた。もちろん銃は向けたままだ。それなのに、

「んああ、ちょっとお待ちを。報告を入れなくてはいけないので」

 手練れのハンターに銃口を突き付けられている状況にも関わらず、五年間も一緒に暮らした大企業の重鎮を平然と殺した諜報局の若き職員は、落ち着き払った様子を崩さない。やおらにズボンのポケットから携帯電話を取り出し、どこかへ連絡をかけ始めた。

 どたどたと、階段を駆け上がる音が聞こえてきた。

「パンク! 無事か!?」

「ごめん! 敵の策に嵌っちゃって……!」

 相当の返り血で衣服を汚したヴォイドとアンジーが、肩で息を吐きながら、ようやくパンクの下へ駆けつけてきた。

 二人はパンクの安否を確認すると、すぐさま部屋の異常さに気が付いたようで、押し黙った。ベッドがあるはずの部屋が、コンクリート打ちっぱなしの殺風景な様相を呈していたこと以上に、壁に背を預けてぴくりとも動かない血塗れのギュスターヴに気づくと、ますます何と口にしていいか分からないでいるようだった。

「何があったの」

 アンジーが生唾を飲み込みながら、ようやく尋ねた。

「死んだよ。見りゃ分かるだろ」

 ひどく面倒くさそうにパンクが答えた。

「あなたがやったの?」

 もっともな問いにパンクが応じようとした時、ジョシュアがわざとらしく大声で、電話先の相手に声をかけた。

「あーもしもし、局長ですか? どーも、ジョシュアです。お疲れ様です」

「……なに、あの人?」

 恐る恐る尋ねるアンジーに対し、振り向かずにパンクは答えた。

「ギュスターヴのお付きのモンだが、その正体は諜報局の職員ときた。ヤツを殺したのもアイツだ」

「諜報局? なんでそんな奴が」

 意表を突かれたヴォイドが、食い気味に尋ねた。パンクはすぐには答えず、敏腕営業マンよろしく、にこやかな笑みを浮かべて喋り続けるジョシュアを、訝し気に睨みつけた。

「さきほど仕事を完了しました。ギュスターヴの死亡を確認。少女はここにいますが……ええ、ええ……」

「けっ……俺が知るかよ。それとな……耳の穴かっぽじってよく聞けよ。オーウェルが死んだ」

 アンジーが目を見開いて絶句した。ヴォイドは低く呻き声を漏らすと、額に手を当てて考え込んだ。

「……アンジー、パンクの言っていることは本当かもしれない。オーウェルのチャンネルにアクセスしているが、応答がない」

「かもしれない、じゃねぇ。俺はこの目で、オーウェルの死に顔を観た。そこに転がってるタブレットでな」

「……なんてことだ」

「そんな……あぁ、どうして……」

 悲嘆に暮れる両名に対し、パンクが憎らしさを隠そうともせず言った。

「ギュスターヴの野郎、クリムゾンを利用してやがったんだよ。精神病院に収容されているあの化物どもを、わざわざ脱走させて場を混乱させやがった」

「クリムゾンとは、まさか、あの《緋色の十字軍クリムゾン・バタリアン》か。鬼血人ヴァンパイア殺しの部隊として知られている……」

「鉄橋で喧嘩を吹っ掛けてきたのは奴らだ。ついでに、オーウェルを電子的手段で殺しやがったのは奴らのメンバーの一人で、そいつは驚くことに、ギュスターヴの実の娘ときた。あのクソジジイ、娘を使って鬼血人ヴァンパイア殺しの部隊を操って、俺達をここへ来るように誘導していやがったんだよ。初めから何もかも、アイツの掌の上で踊っていたんだ、俺達は」

 どす黒い感情が湧き上がるのを我慢することなく、熱っぽい口調でパンクが一息に言い切った。

 ヴォイドとアンジーは互いに目を合わせると、すぐに視線を逸らして、口惜しさを隠すように閉口した。それしか出来なかった。いつの間にか、底なしの沼へ首から下が浸かっている。そんな不気味な感覚に支配されているようだった。

「承知しました。少女はここに置いて、撤退します」

 沈黙が下りてきたタイミングを見計らうようにして、ジョシュアの口から放たれた予想外の一言。それを確かに聞き届けたヴォイドたち一行はもちろん、この一連の大騒動の元凶たるニコラでさえ、『あたし、聞き間違えちゃったかしら?』と口にしたそうな様子でジョシュアを見上げた。

「それで導師は……? え、もう出て行かれた……はぁ、なるほど……ああ、以前話していた人形・・を持ち出して……はい、はい……え? 本当ですか? マズいなぁ」

 途中で言葉を切ると、ちらりと意味ありげな視線をパンクたちへ向け、それからやたらと大袈裟に頭を掻き毟った。

「それって、私まで巻き添え喰らっちゃうパターンじゃないですか。まだ彼女たち・・・・の武器を解析・・できていないんですよ? うっかり当たったら死んじゃいますよ……そうなる前に退避しろですか……はぁ、分かりました。それでは、はい、はい。失礼します。あ、すみません。今回の仕事ですけど、きっかり時間外手当、請求しますからね。はい……はい、お願いします。それでは」

 ふぅ、と軽く溜息をついて携帯電話をしまったジョシュアは、いつの間にかハンターの数が一人から三人へ増えていることに、さして驚くわけでもなく、淡々と業務を片付けるような態度で話を振った。

「今の話、聞いてましたよね? そういうことですから……」

 とん、とニコラの背中を突っつく。それが『所有権放棄』の表明であると受け取ったニコラは、床に散らばった潤滑剤を平気な顔で踏みしめながら、とてとてと、パンクの傍に近づいていった。

「その少女はお好きにどうぞ。あ、そうそう。それとこれもお渡ししますよ」

 軽い口調で、今度は反対側のズボンのポケットへ手を入れる。瞬間、身構えるヴォイドとアンジーだったが、ジョシュアがぶらぶらと見せつけるように手にしたそれは、銃やナイフの類ではなかった。

「自家用ヘリのイグニッション・キーです。あなたたち、これが目当てだったんですよね?」

 ジョシュアが投げてよこしてきたそれを、アンジーがすかさず両手で掬い上げるようにキャッチした。見ると、ワンタッチ式のオート・スライド・ドアスイッチ機構が搭載されたタイプの鍵だった。

「エンジンを起動後、目的地を設定すれば、あとはコンピュータが自動的にやってくれます。ヘリは屋敷の裏手のヘリポートに停まっています。壊さないように慎重に扱ってくださいね」

「鍵をくれたことには感謝するわ。でも、言うだけ言って、こっちが納得すると思う? ちゃんとした説明をしてもらおうかしら」

 ダウンジャケットのポケットに鍵を突っ込みながら、アンジーが食ってかかった。

 ジョシュア・ブレンド。突然、表舞台にしゃしゃり出てきたこの男の行動が、まるで理解できなかった。アンジーだけではない。この場にいる《凍える脊椎バック・ボーン》全員の意識に、それはあった。

 身分を偽って企業連合体の重鎮へ接近し、このタイミングで殺した理由。その不可解さ。だがもっと不可解なのは、ニコラがいかなる存在であるかを熟知していながら、あっさりとその身柄を引き渡したことだ。

 三対一という数的な不利ゆえに、ニコラを手放したのか。そうは思えなかった。というのも、パンクに銃を突き付けられ、彼の後ろに立つヴォイドも戦闘の構えを見せている状況下で、余裕綽々な態度を崩さずにいるからだ。

「説明って、もう全部説明したつもりなんですけど」

 両手の平を上に向けて、わざとらしく肩をすくめるジョシュアを、アンジーのシビアな声色が問い詰める。

「なぜその子を手放したの? 貴方の本当の雇い主・・・・・・だって奇跡を必要としているんじゃ? それとも、何か裏があるのかしら」

「私が諜報局の命令で動いているわけではないと、そう仰るのですか?」

「委員会の命令下で動いているのであれば、ニコラを手放すなんて馬鹿な真似はしないはず。その子は……存在しているだけで世界の特異点になり得る女の子よ。普通だったら、是が非でも確保しようとするはず。違うかしら」

 力強い意見を前に、さしものジョシュアもどう返すべきか、考え込んだ。

 仲間を立て続けに二人失っても、アンジーは必要以上に取り乱すことなく、的確な指摘をするに務めている。情を欠いているだとか、冷淡であるとか、そういう事ではない。残された仲間のために、チームのために、やれるべきことをやる。その意志が人一倍強いのだ。

「なるほど。見た目によらず・・・・・・、頭の切れるお方だ」

 口元にだけ笑みを浮かべてジョシュアが言った。得体の知れない態度はともかくとして、それはジョシュアの本心から出た感想だったのだが、上から目線な言い方が気に食わなかったのだろう。アンジーの眉間に、皺が寄った。

「四十過ぎのおばさんに対する皮肉かしら?」

「とんでもない。貴方がたを相手に、下手に嘘をつくと大変な目に遭うなと感じただけです。いいでしょう。たしかに仰る通り、私は諜報局の人間としてこの場に立っていますが、当局が独自に下した指令に従っているのではありません。さるお方の御依頼を諜報局が受諾し、その実行役に私が選ばれたのです」

「ディエゴ、とかさっき言ってたな。さるお方ってのはそいつの事か」

 どんな些細な会話ひとつとして聞き逃してはいないのだと暗に含んだ調子で、パンクが訊いた。

「ええ、ディエゴ・ホセ・フランシスコ様です」

 ジョシュアははぐらかすことなく、厳かな声音で、それこそ荘厳な神の名を口にするかのごとく答えた。

「委員会を構成する部局の一つ、学究局のトップに就くお方にして、諜報局々長のルドルフ・ミュラーとは義理の兄弟関係にある、偉大なる政治家ですよ」

「学究局と諜報局が手を組んで、ギュスターヴを消そうと暗躍していたってことか。よほど気に入らなかったんだな」

「んー……正確にはちょっと違いますね。ディエゴ様は、なにも最初から彼を消そうとしていたのではありません。ギュスターヴの動き次第では見過ごすことも考えました。ですが、彼は明らかにやり過ぎた。ディエゴ様の本心を理解しようとせず、相手の望んでいるものを勝手に決めつけて、勝手に押し付けようとした。信者にしては、慎ましさが足りません。そんな信者を野放しにしておいて良い事なんて、万に一つもありませんよ」

 ジョシュアの喋り口調に、不自然に言い淀んだりする箇所はなかった。偽りなく、ありのままを喋ることで、貴方がたと対立する気はないのだと主張しているのだ。

「ニコラを差し出すことがそんなに悪い事か? そのディエゴって奴にも、野望の一つや二つあるんだろうが。ショートカットで夢を実現できるのなら、それを利用するに越したことはねぇ」

「パンクさん、あなたは一つ、勘違いをしていらっしゃいますね。誰も彼もが、奇跡に縋りたいと思っているわけではないのです。己の力のみで夢を叶えることにこそ価値がある……あのお方の信条はそれです。精神的なタフネスさと、緻密な計画立案能力に、迅速な対応力。この三つを兼ね備えたディエゴ様にとって、奇跡という存在は、朝のテレビ番組が流す星座占いと同じ。取るに足らない戯言であり、ただの『まやかし』に過ぎないのです」

 自分達のような凡人とは、その思想形態がまるで違うのだとでも言いたげなジョシュアの言葉に、パンクもアンジーも、そして何よりヴォイドも、どう言い返して良いか分からず、黙ってジョシュアの声に耳を傾けるしかなかった。

「ですから私にとっても、その娘はどうでもいい存在。誰がどこへ連れていこうが、私にとっては一向に構わないのです」

「仮に聞くけど」

 ニコラの肩をぐいと引き寄せながら、アンジーが問い質す。

「もし私たちの願いが、貴方の敬愛するディエゴ様の願いを邪魔するものだとしたら、その時は全力で私たちを止めるのかしら?」

お嬢さん・・・・

 ジョシュアの口元から笑みが消えた。一瞬、アンジーは目の前にいる人物が、さっきまでとはまるで別人に見えたような気がして、ぎょっとなった。

「思いつきとはいえ、迂闊な言葉を口にするもんじゃありません。このプロメテウスそのものを敵に回して、良いことなんて何一つないですよ」

 ジョシュアの目が笑っていた。青い瞳の奥で、愉快さが踊っていた。弱った小動物を目の前に置かれて、どんな感じでいたぶろうか考えている、残忍な猛禽類にも通じた目の光りだった。

 そんな獰猛な一面を覗かせたかと思いきや、アンジーがそれ以上黙っているのを見ると、すぐに元の調子の、あの口元だけに笑みを浮かべた独特の表情へ戻って、こう付け加えた。

「貴方がたのように、己の境遇に不満を覚えている方々は、身の丈に合った願いを叶えるのが一番かと思います」

 それから腕時計を見ると、難しそうな表情になり、頭を少し掻いて、こう続けた。

「ウチの部局、なかなか融通が利かなくてですね。定時を過ぎて九十分以内に業務を終了すると、時間外手当がつかないんですよ。ケチですよねぇ。はー仕事辞めたい。五分だけ時間が空いちゃいましたから、あの床に転がっている老人が、いかに無様な男だったか、話しても良いですか?」

「そんな時間こっちには――」

「聞いて損なはことはありませんよ。パンクさん、先ほど、ギュスターヴはあなたにこう言いましたよね。実の娘をそそのかして、クリムゾンを動かしたと。しかし、それは愚かしさ極まる、盛大な勘違い・・・なのです」

「勘違い?」

「彼らを精神病院から解き放ったのは、ギュスターヴではなく、ディエゴ様です」

「なんだって?」

「んああ、誤解しないで。クリムゾンとディエゴ様は協力関係を結んでるわけじゃないですから。あのお方は怪物の手綱を握ることなく、ただ都市に解き放っただけです。あのお方にはあのお方の目的がありましてね。委員会の目を鬼血人ヴァンパイア騒動に釘付けにさせる必要があったんですよ」

「サトゥルヌス精神病院だろ? ヤベー患者ばかり収容している、都市随一の警備体制を誇るメディカル・センターだと聞いたことがあるが……」

「病院内部から手引きした者がいるんですよ。あのお方の信者は都市の色々なところに潜り込んでいましてね。正直、諜報局でも正確な数は把握できていないんです。最下層にも潜り込んでいるとかいないとか」

「おい……おい、ちょっとまて」

 会話の途中、パンクは何か重大な思案に思い立ったようで、銃を下ろすと壁に両手をつき、よろよろと立ち上がった。血色が悪いのは、体の調子が戻っていないからではない。『まさか』という危機感がじわじわと募ってきたせいだ。

 ギュスターヴの告白を耳にしていないヴォイドとアンジーは、蒼白になりつつあるパンクの変調に戸惑うばかりで、これから巻き起こる最大規模の騒乱の予兆に気づくのに、やや遅れがあった。

「すると、マーガレット・ナイルを二重スパイに仕立て上げたという奴の話は……」

 うわごとに近いパンクの問い。

 ジョシュアは頭を振ると、わざとらしいほど眉尻を下げ、嘆息した。

「愚かなことですよ。私はマーガレットの世話係も兼ねていたから分かりますが、ギュスターヴは信者としても、父親としても最低の部類です。先天的に知的障害を患っていると知った途端にそっぽを向いた父親と、辛く苦しい戦場で同じ釜の飯を食ってきた仲間と、どちらを選ぶかなんて、自明の理でしょうにねぇ」

「奴は……マーガレットは、仲間たちをここに……」

「ええ、誘導させていますよ。彼女は表向きには父親に従いつつ、クリムゾン側にも情報を流していたんです。暴走一辺倒の部隊に、どうギュスターヴが落とし前をつけるつもりだったのかは私も聞いていないので分かりませんが、分かっているのは一つ」

 右手の人差し指を立てて口の前へ持っていくと、ジョシュアは囁くように言った。

「クリムゾンはここへ来ます。その娘の全てを奪い尽すために」

 直後、その場にいる全員の肚の奥底を重低音の衝撃が突き抜けた。屋敷全体が轟音と共に振動し、コンクリートの外壁がパラパラと剥がれ、床にわずかな亀裂が入る。

 この広大な屋敷のどこかに、榴弾でも撃ち込まれたのか。そうとしか考えられない地響きの到来だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る