犠牲―V

「やめて! ミラ!」


 彼女は何も言わず背を向けた。十六時まであと一分。


「なあファイ、どうしても見捨てられないんなら、一つだけ我儘を聞いてくれないか」


 背中越しに、彼女の声は少しだけ震えていた。


「本当は言っちゃいけない事なんだ。言ってしまえば、ファイはにかかる。けど、けどな」


 振り向いた彼女は泣いていた。アセンションまであと一時間ほどだから、涙は何度でも流れるだろう。しかしこれは、これだけは本物の涙であってほしかった。


「私の事、忘れてほしくないんだ」


 デルタが何か言おうとしたのか、一歩踏み出した。しかしそこで思いとどまり、ゆっくりと脚を戻した。


「ファイ、あんたは海岸で目覚めた。そこには自販機と赤子の群れがあった」


 うん、と答える。あの景色は頭から離れてはくれない。


「私は傷だらけで近くの公園にいた」


 うん、と答える。それも忘れてはいない。私の首筋を噛んだ感触だってはっきり覚えている。


「私はずっと、んだよ」


「えっ……?」


 言葉の意味が分からなかった。私を護っていた? 誰から? いつから? どうして? 何よりも、何故それを隠していた?

 目を丸くして呆然とする私に、彼女は唇を噛んで目を伏せた。後悔しているのだろうか。私を護っていた。それがどうして呪いになるというのか。何故私はあそこで眠っていて、彼女は私のために傍に居続けたのか。

 けれど多分、その理由を教えてはくれないだろうし、もう時間もない――あと十秒。


「それじゃあ、本当にお別れだ」


 ミラがデルタに視線を向ける。彼は真顔のまま、


「元気でな」


 と別れの言葉を告げた。ともすれば皮肉とも取られかねないが、彼にそんな意図は無いとミラもよく理解しているようだった。お元気で。その一言に、どれほどの意味を込めているだろう。

 次に私に視線を向け、目を細めた。涙がまた頬を伝う。意を決したように背を向け、歩き出そうと左脚を上げたが、地面につく前に身体が反転した。

 私へと駆け寄り、きつく抱きしめられた。そして――。


 唇に何かが触れた。眼の前に彼女の顔がある。それは柔らかく、暖かった。

 唇と唇が触れ合った時間はほんの三秒ほどだったが、きっとこれこそが永遠に最も近い瞬間なのだろう、と確信した。


「ごめんな」


 私の頭をぽんと撫で、彼女は哀しい笑みを作った。瞼の裏に刻み込もうとするかのように、固く目を閉じ、そして見開いたと同時に私のもとを離れ、走り出した――十六時、丁度。

 彼女の背中はどんどん遠ざかっていく。一緒に三日間の思い出も連れ去っていくようだった。さよなら、ありがとう、忘れない。いくつも言葉は喉まで出かかってはくれるものの、その姿に何も投げかける事ができなかった。

 だからせめて、とネックレスと指輪をぎゅっと包み込んだ。

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