分岐点

 彼女の右腕から青黒い筋が浮かんで見えた。それはデルタがどれ程の強さで制しているのか、またレプリカントが如何に人間的な構造を施されているかの証明となる。

 恐る恐る、ミラの顔を見た。どんな表情をしているかを考えたくはなかったし、怒りや悲しみといったどんな色をしていたとしても、私は傷つくだろう。しかし見なければならない。彼女の真意を受け止めなければ、サンはまた独りになってしまう。


「ミラ、やめて」


 彼女は何の表情も込めていなかった。これまで幾度も見せてきた、楽観的で陽気な笑みは無かった。


「ねえお願い、理由を聞かせてよ」


 それでも尚、彼女の指先はきりきりとうごめき、一層筋が際立つ。

 その視線はサンただ一点に集中していた。私の事なんて露程も気にしていないように見えて、恐怖よりも苛立ちがこみ上げてきた。


「こっちを見て!」


 彼女の頬をばちんと挟んで、無理やり頭を動かした。全く考えていなかっただろう、それは呆気なくぐりんとこちらへ回り、ようやく目と目が合った。私の左目に浮かぶ歯車が回る。それに合わせて、彼女の右目にある歯車も回る。

 くるり。くるり。その回転には何の意味も込められていないけれど、しかし心臓の鼓動を共有するように、感情の吐露バイパスが感じられた。

 彼女の腕から力が抜けた。だらりと萎れた指を見て、デルタも掌を解く。いまミラは、頬を挟む私の力だけで体制を保っているのだと思う。手足には何の気力も見えなかった。


「ファイ、一番最初に約束したよな」


「……うん」


の元へ送り届けようってさ」


「……うん」


「だから私は、そうしようとしただけだ」


「得体の知れない連中には渡せない」


「けど、デルタの話が本当なら奴らは人間だ」


「その人間が妊婦を拷問して、無理やり子を産ませ見殺しにした」


「物的証拠は無い。ただのテキストログだ」


 平行線を辿るばかりだ。彼女はもうサンを手放すのだと答えを決めてしまっているし、私はサイカ宗派を信用していない。

 そこで私は意地の悪い質問をする事にした。


「ミラはさ、サンが邪魔なの?」


「いいや、違う」


「でも手放したくてしょうがないって言い草だよ」


「そうじゃないんだ」


「人間は私達と異なる。簡単に壊れるし、簡単に死ぬ。肉体も精神も」


「私は!」


 どん、と彼女の拳が地面を叩いた。サンがびくりと身を跳ねさせ、ミラは一瞬申し訳無さそうな顔をしたけれど、すぐにこちらを睨んだ。


「私はファイを守りたいんだ……大切な人だから……」


「復元された記憶がそう言っているの?」


「ああそうさ、忘れていたのが不思議なくらいに現実味を帯びてやがる」


「そう、それなら」


 それなら。続く言葉を言おうか、ひどく悩んだ。ほんの一秒の間に何行のコードが記述されただろう。イエス、ノー。零か一か。たった二つの選択肢を前にして、果てしない演算が繰り広げられた。


「その記憶は――」


「信じたいんだ」


 私の決意を遮り、彼女は再び叫んだ。もうお互いに分かっている。この先にどんなやり取りが待っているか、何を為すべきか、何が起きて何が失われるのか。


「信じさせてくれ……」


 弱々しく零れた一言が胸を突き刺す。私はミラを傷つけたいわけじゃない。ミラの記憶を信じないわけでもない。ただ現状で最悪とも思える解決策に甘えてほしくなかっただけだ。


「ごめんなさい、ミラ。言い過ぎた」


「いや、あんたはただ確認したかっただけだろ。うだうだしている私が悪いんだ」


 彼女はメッシュ混じりの髪を払いながら、ぴょんと立ち上がった。窓枠まで歩き、煙草に火を点け、ふうと息を吐く。その四秒間を、私達は見守った。

 その四秒が彼女の中でどんな思考プロセスを築き上げたかは分からない。ただ――。


「なあ、二人とも」


 外を眺めながら、背中越しに彼女は呟いた。


「さっきの女、ラウラだっけか」


 きっとミラは、焦っていたのだと思う。次々と降りかかる災難に、自らに起きた変化に、すれ違う私達の関係に。しかし想像の域を超えない。

 ただ一つだけ確かなことは。


「あいつ、ぶっ殺そうぜ」


 あの四秒間が、私達の未来を変えることとなる。

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