邂逅―V
――時間にして一分かその程度だったはずだが、もっともっと長い時間を知覚していた。彼女が静かに唇を離すと、噛まれた跡はすぐさま周りのAx2によって塗り固められていく。いくら水面に石を投げたとて、すぐさまその穴が塞がれていくように、Ax2は柔らかくそして離れ難い。
「終わったよ」
二の腕で額の血痕を拭い取りながら、彼女は一歩後ろに退いた。
「さて、次はあんたに協力しないと」
立ち上がり、ぐぐっと身体をほぐしている姿を見て、私は言葉を失った。
ついさっきまで、体内のAx2は簡易的な
それがものの一分でほぼ正常稼働をしている。もしかしたら私のように適応率が百パーセントを超えるような不具合は起きているかもしれないが、もう殆ど元通りと言ってもいい。まるで魔法だ。
「どうしたのさ、行くよ」
「行くって、どこへ」
「ここらは危険だからな。ひとまず私の隠れ家に移ろう」
ポケットに手を突っ込みながら、てくてくと歩き出す。慌ててその後ろを追いかける。
辛うじて白線の残る車道を歩きながら、ぺんぺん草に覆われたアスファルトを見下ろす。その全てが非日常かつ非現実的だ。
聞きたいことは山程あるけれど、それよりも危険だという一言に私は怯えていた。
誰かの気配を察知するような事は出来ないけれど、これほどまでに瓦礫や草木で覆われた街ではあまりに死角が多すぎる。
朽ちたコンビニのひび割れたガラスの向こう。倒れ込むアーケードの下。斜め四十五度に傾いたビルの頂上。そこいらに何かが潜んでいるかもしれないと思うと、この名前も知らない女に頼らざるを得ない。
そうだ、名前。彼女の名前をまだ訊いていなかった。
「ねえ、名前を教えて」
声をかけると、彼女はふう、と息を吐いて天を仰いだ。
「知らない」
「知らない?」
「記憶領域が破損したんだ。目覚める前のことは何も思い出せない。あんたはどうだ?」
言われて気付く。記憶領域へとアクセスしても、そこには――。
――ありふれた朝。半透明から黄金色へと進化する卵。ニュースを眺めるオーナーの横顔。リントという単語。彼の笑顔。レプリカント・センターの外観。そして、
「また会おう、●●●●」
彼に付けてもらった名前が、思い出せない。
表情で察したのだろう、彼女はやっぱりな、と呟いてこちらを振り返った。
「それじゃあお互いに名前を付けよう。不便で仕方ねえからな」
「そんな、急に言われても」
「何でもいいよ、こういうのは直感で選ぶもんさ」
つくづく私には無いさっぱりした感性を持っている。パンキッシュな見た目もそうだけれど、物の考え方があまりにもはっきりしている。
鏡のように、氷のように対象的だ。
「……ミラ」
頭に浮かんだのがその二文字だった。
彼女はにっと笑い、
「良いなそれ、気に入った」
笑うと愛嬌があるんだな、と感じた。普通の人間みたいだ。そんな顔を見ていると、少し恥ずかしくなる。何故だろう。
「それじゃあ、あんたは……うーん、そうだなぁ……」
一歩、二歩、三歩。腕を組みながら彼女は歩みを止めない。
四歩、五歩、六歩……実に十数歩もの長考の末、ようやく答えを出した。
「ファイ! 格好良くないか?」
「うん、良いと思う」
「ははっ! これからよろしくな、ファイ」
屈託のない笑顔が再び現れ、ああ、落ち着く表情だな、と実感する。
安堵したからか、私もまた不意に笑みを浮かべた。ごく自然に、人格レシピによる計算されたものではなく、笑うべくして笑った。
「こちらこそ、ミラ」
それから私達は、肩を並べてひび割れたアスファルトの上を歩いていった。
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