第一章 いい日、旅立ち

7.邂逅

 どこか彼方から声が聞こえる。あれは誰だったか――。

 朦朧とする意識、引き裂かれるような激しい痛みが全身を包み込み、ありとあらゆる感覚を麻痺させてゆく。

 これは遠い日の記憶だ。きっかけが何だったかは今となってはもう分からない。

 ただ、目を覚ました時には「交通事故に遭った」とだけ聞かされていた。

 本当にそうだったのだろうか。今も時折、幻痛となって蘇るこの全身を襲う苦痛は……。


 一真いっしん、一真……。


 誰かが自分の名を呼んでいる。それは父でも母でもなく、ましてや祖父母でもない。

 そも、自分に実の両親がいたのだろうか?

 親元を離れ、高校の寮で暮らしてはいるが、両親のことは日に日に記憶の中から薄れてゆくばかりだ。親と自分との間に、なにか希薄なものを感じてはいたが、今思えばそれはもっと別の何かであったのかもしれない――。

 

 今はあがこう、と思った。

 だが、思うように身体も心も動かない。ただ、深淵へと沈んでゆく。

 呼気が泡沫となって水面へ浮上してゆくのが見て取れた。

 ここは深い海の底なのか。

 透き通った群青色の世界に、深く、深く沈んでゆく。

 それは巨竜が跋扈ばっこしていた太古の様相にも似て、彼の肉体・神経の隅々にまで浸透し、細胞ひいては遺伝子レベルでそれと置き換えてゆく。

 このまま身を委ねていれば、いつしか大いなる自然の流れに還ることができるだろう。

 だが、いま自分を呼ぶこの声の主はとても暖かく、どこか懐かしい――そんな思いがした。


 戻らなくては、と思う。

 戻るのだ。強く思う。

 自分はあの場所へ戻る必要があるのだ、禊儀みそぎ一真いっしん



「……先生、彼が目を覚ましたようです」


 頭上の声で、はっと我にかえる。

 目に飛び込んできたのは白い天井と蛍光灯の光。眩しさに顔をしかめる。

 白いカーテンで仕切られたそこは、どうやら医務室のようだ。空調機の音もする。

 気を失っていたのだろうか。今はベッドに横たわり、毛布がかけられている。枕元には制服のブレザーとネクタイが丁寧にたたまれておかれていた。

 どうやら蘇った過去の記憶の中に沈んでいたらしい。

 あの記憶は何だったのか……今となってはもう判然としない。

 ベッドの脇に座る一人の少女が心配そうにこちらを覗きこんでいた。


「君は……」


 彼女の顔には覚えがある。瞑目し、黒と白の侍女服を慎ましく着こなした、小柄な少女。

 確かあの時、巨人騎士と化した自分の脳裏に現れた、あの娘だ。


「お目覚めですね、禊儀一真。気分はどうですか。身体で、どこかおかしいところはありませんか……」


 瞑目したまま、少女は質問した。ひょっとすると盲目なのだろうか。

 答えに困っていると、医師と思しき中年男性が割って入った。


「別にどこも怪我しとらんよ。心理的な疲労がたまっていただけだ。ずいぶん長いこと寝てたからな、もう起き上がっても大丈夫だ」


 ぶっきらぼうな物言いだったが、禊儀は素直にその言葉に従うことにする。

 起き上がって制服を羽織る。確かに身体のどこにも異常はないようだった。あれほど苦しんだ全身の痛みもすっきりと消え失せている。


「君は誰だ。ここはどこなんだ? 俺は、あれからどうなったんだ? いや、そもそも俺はあのとき魔女に撃たれて……」


 起き上がると同時に疑問が噴出した。

 口調は不思議と落ち着いていたが、記憶は今もなお混濁している。

 あの夜の戦闘からどれくらい経過したのだろう。この医務室には窓も時計もなく、今が一体いつなのか、どこにいるのかもわからなかった。


「……表面上取り乱さないところは気に入ったぞ。取り乱すやつは好かん。面倒くさいからな。だが、質問が多い。一つ一つ答えてやってくれないか――津那美つなみ


 少女は医師の言葉を受け、小さくうなづく。

 津那美つなみ――それが彼女の名前であるらしかった。


「質問には順番にお答えします。ではまず自己紹介から参りましょうか。私は最早もはや津那美つなみ――変わった名前でしょう? 年齢は十九歳……私の方がお姉さんですね。ちなみに、彼は主治医のりゅう先生」

「劉=ヴェーデキントだ」


 医師――劉は椅子に座ったまま、振り向きもせずに手短に自己紹介した。パソコンに向かって何事か、一心不乱に入力を続けている。散らかった机に、くたびれた白衣の状態から察するに、身の回りには無頓着な性格なのかもしれない。


「二つ目の質問の答え――ここは私たちが属する組織の地下本部施設。場所は明かせませんが、武蔵野地域にある地下のどこか、とだけお伝えしておきます」


 津那美がそう言った時、医務室の自動ドアが開き、一人の男が入ってきた。

 かなりの長身、痩躯そうくである。全身黒づくめの服装に、よく手入れのされた白髪頭がまぶしい。足が悪いのか金属杖を片手に持ち、そのいでたちはまるで古典的有名医療漫画の主人公を思わせるものだった。


「あ、禊儀君起きた?」


 その厳格そうな外見とは裏腹に、男の口調はいたって砕けたものだった。

 年齢的にはもう壮年期といったところだろうか。声はしゃがれていたが、陽気な物言いだった。


「彼は真山まやま矜持きょうじ――。わが主にして、組織のCEOです」


 津那美の紹介を受けて、男――真山はニヤッと白い前歯を見せ、おどけたように会釈した。

 一見するとふざけているように見えなくもない。年齢のわりに頭が固いと周囲から揶揄される禊儀にとっては、あまり好ましくなタイプのように思えた。


「ま、こんなところじゃなんだしね。一息入れにカフェにでも行こうか」

「こんなところとは何だ、こんなところとは」


 文句を言う劉を無視して、真山はヘラヘラと笑いながら二人を連れだした。

 片足が不自由そうに見た真山だが、さすがに歩きなれているのか、杖をつきながらも二人を先導して闊歩する。その背中には確かに指導者の威厳が感じられた。

 一方の津那美も、瞑目した状態のまま、そつなくついてゆく。実は見えているのか、それとも……。

 医務室を一歩出ると、そこは何かの合金製と思しき、白い廊下が広がっていた。

 天井には通気ダクトが血管のようにはしっている。窓の類は一切なく、どこか閉鎖された空間のようでもある。これではまるで――。


「まるで潜水艦の通路ですね」


 禊儀みそぎの率直な言葉を受け、真山は嬉しそうに笑う。


「好きだぞ、察しのいい子は。そう、何を隠そうここは……」

「真山さん」


 津那美が口止めする。何か機密事項に触れてしまうところだったのだろうか。CEOとかいっていたが、組織の責任者がこんなにも口が軽くていいのか。


「なぜ俺はここへ連れてこられたのですか」

「事務的だねぇ、禊儀君は。簡潔だね、無駄がないね、ついでに味気ないねぇ。もっとこうさぁ、世間話とかさ、身近な話題から互いの距離を詰めていくもんじゃあないの、最初は」

「真山さん!」


 慣れ慣れしい口調でぺらぺら話す真山を、津那美が強めの口調で諫める。まるで漫才コンビだなと禊儀は思った。


「あの夜、俺たちの街に出現した〈虚獣〉と陸自が戦うのを見ました。その時、魔女のような女が現れて、俺はそいつに撃たれたはずだった……」


 少しずつ混濁していた記憶が整理されつつあった。

 だが、そのあとのことはよく覚えていない。ただ、何か自分が巨大な騎士と一体化したような。そしてその肉体でもって〈虚獣〉と戦ったことだけは、おぼろげながらも記憶の片隅にある。そして、その時おのれの脳裏に語り掛けてきた少女――津那美がいま目の前にいる……。

 これは偶然なのだろうか。

 そんな少年の思いを読み取ったのか、真山はつとめて穏やかな口調で言った。


「――すべては実際にあったことだよ。君は〈裏界ブリガドゥーン〉への門を開き、召喚した機導騎きどうきと一体化した。そしてその力でもって〈虚獣〉を倒した。何を隠そう、私たちもあの場所でそれを見ていたのだから」

「……」

「ブリガドゥーン――元は、スコットランドの伝説にある村の名前。一〇〇年に一度だけ現れるという幻のこと。そこから名づけられた異世界の名前……」


 津那美が静かに付け加えた。 

 真山が何を言っているのか禊儀にはよくわからない。にわかには信じがたい話だった。ただの夢まぼろしで終わっていればどれほどよかっただろうか。


「我々は国の非公開組織、Re:Markリマーク。禊儀一真君、キミを保護し、そしてその能力を借りるために、ここへやって来てもらった。唐突なようだが……この世界はいま、滅びに瀕している――」


 そういう真山の表情は、先ほどとはうって変わって真剣そのものだった。

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