1.魔女、降臨す

 夜である。

 世界を闇が覆い隠し、静寂が支配する時間帯。

 聴こえてくるのは、虫の音とかすかな生活音だけだ。

 曇天のため、月明かりはない。ただ、夜の帳だけがその街を包み込んでいる。

 

 場所は東京二十三区の片隅――武蔵野は比丘尼橋びくにばしと呼ばれる交差点の近隣。

 のどかな田園風景を色濃く残すこの地域一帯において、比較的活発に車両の行き交うエリアだ。

 大通りに沿ってはしる高速道路のジャンクションは、数年後に控えた東京オリンピックに向けて大規模な拡張工事の真っ最中でもある。付近には工事車両や重機の姿も見られるが、今はそのすべてが静まり返っていた。


 季節は初秋。そろそろ落ち葉が舞い散り、吹く風も冷たさを増す時節だ。

 比丘尼橋びくにばし近隣を流れる河川もまた、かすかなせせらぎの音を立てている。

 普段は水量の少ないこの川も、豪雨の際は氾濫の危機に見舞われる。

 その決壊を防ぐための調整池が二か所に設けられている。うち一つは二層構造になっており、地上は公園、地下にはあふれた水が流れ込む巨大なプールが併設されていた。

 対岸から見渡せば一望できる地下基盤には、公園を支える円柱が林立し、さしずめエンタシスを備える古代の神殿を思わせた。

 見る人が見れば荘厳なたたずまいに息をのむことだろう。都市の機構が生み出した、不可思議な光景でもある。


 かたや上層の公園は手つかずの土地だ。あちこちで雑草が繁茂し、プンと青臭い、むせかえるような植物特有の匂いが立ち込めている。

 そんな草むらの中を一匹の黒猫が駆け抜けていった。すぐに闇にまぎれて見えなくなる。それはこれから起こる不吉の予兆のようでもあった。



 静寂のなか、調整池の水面に波紋が広がる。

 吹きつける寒風に逆らうかのように、波紋が生まれ、次々と水面に同心円を作り出してゆく。


 異様な光景だった。

 オカルトマニアがその光景を目の当たりにしたとしたらば、この比丘尼橋びくにばしという地名の元となったとされる、悲恋の末に自殺を遂げた「比丘尼」の怨念が化けて出たのかとおののいたかもしれない。


 だが――。

 波紋は見る見るうちに激しくなってゆく。

 何かの意思を体現するかのように波打ち、やがてそこを足場にするかのようにして、は虚空から現れた。何かが水面に「降り立った」と形容するのが正確かもしれない。

 同時に強い風が吹いた。

 雲の切れ間から青い月がのぞく。

 まるで舞台演劇において、主演俳優に当たるスポットライトの如く、煌々とした月明かりがを照らし出した。


 人だ。

 水面から少し離れた虚空につま先をたて、宙に浮いている。

 何であろうか……長い得物を傍らにたずさえ、宙に浮かび上がるその様は、一言で表すならば、子供向けの絵本に登場する魔女――。


 しかし、いわゆる中世の魔女といったいでたちではない。

 月明かりを受けて浮かび上がったのは、可憐な少女の姿だった。

 細くしなやかな肢体が躍る。深い藍色の外套に身を包み、亜麻色の髪の毛を夜風になびかせている。唯一露出している頭部――その顔立ちは整っており、十代の色香を存分に放っている。男ならば誰もが釘付けになるであろう容貌だ。

 特異なのは、その片手にたずさえる、対戦車ライフルを思わせる形状の――しかし身の丈ほどもある長大な砲身の存在だ。

 少女が魔女だとすれば、さしずめ使い魔の箒だろうか。

 そんな箒の代わりに身を預ける砲身――〈瞬牙しゅんが〉と彼女が呼ぶそれは純然たる兵器にほかならない。鈍色の輝きは禍々しくも、ある種の神々しさすら感じる。

 少女の面持ちは固く、遠くを見つめるまなざしは、何かを探しているかのようでもある。


「――空間座標確認。やはり、予定していた航路からはかなり外れている。だいぶようだな……」


 硬質の声だった。感情の色を感じさせない。

 一人呟くと、少女は〈瞬牙しゅんが〉を軽々と持ち上げ、そこに腰かけた。

 次の瞬間には空高く舞い上がる。びゅうと風が裂けた。



 上空から見下ろす東京の街は一面の闇の中にあった。

 ところどころで赤く点滅する小さな斑点は信号機のそれだろう。まるで闇に潜む魔物のまなざしのようだ――少女は思った。

 本来ならば二十四時間眠らぬ大都市がそこに広がっているはずだった。

 繁華街のネオンや街灯、住宅地の照明、自動車のライトなどなど……。すべてが沈黙している。林立するビル群は、まるで墓石のようだ。今の東京は、都市であると同時に巨大な墓地でもあるのだった。


「ここも侵攻を受けているのか――」


 誰かがこのつぶやきを耳にしていたとしたら、今度は失望の色を含んでいるようにも聞こえたかもしれない。少女の顔に影が差した。

 都市はいま、非常事態宣言による厳戒態勢の只中にあった。

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