大千世界のアノマリー The ley line sagaⅡ

あしゅら男色

プロローグ

0.聖母の本懐

 ざわ……と木々の葉が揺れた。

 躍り出てきたのは魚だ。銀鱗をきらめかせ、宙を泳いでいる。

 浮揚魚フライフィッシュと呼ばれる生物の一種であり、大気中を泳ぐことのできる品種であった。

 続いて、ダイミョウヤナギと呼ばれる木々が群生する木立の中から、奇妙な人影が現れる。さっと片手を伸ばすと浮揚魚を数匹、瞬く間に捕らえてしまった。何者なのか。


 まず、身長が驚くほど高い。二メートルは越えているだろう。

 鼻に当たる部分が異様に長く、前下方へと突き出している。

 口吻はその先端にあり、両耳はとがっていて上方に突き出している。

 どこからどう見てもバクと呼ばれる奇蹄目種のそれなのであるが、その人影はあくまでも二足で歩行していた。そういう形態の生き物なのである。


 彼の名はトート。

 古き時代に存在した神話の神々から名づけられた。肌の色は黒く、その上に濃い目の化粧を施している。なので、その顔は何かの舞台役者のそれを思わせる。

 全体的に凹凸の少ないつるんとした肢体は貫頭衣でもって着飾られており、慎ましいながらも清潔な身なりだった。


 トートは今しがた捕まえた魚を右手に、書籍の束を左手にまとめて持つと、とある小部屋の中へと入ってゆく。

 そこは、空調設備によって摂氏二十四度に室温の保たれた、きわめて近代的な設備の場所であった。エジニウム合金製の床の上には、大小さまざまな機械が立ち並び、ある種の研究室のようでもある。


「聖母様、ご命令通りに書庫から文献を集めてまいりました」

「ありがとう、トート。では、そこへ置いておいて頂戴」


 そう言って振り返ったのは四十代半ばぐらいと思われる、白衣を着た小柄な女性だった。

 彼女の眼は優し気で、慈愛に満ちている。それでいて凛とした威厳もまた全身から漂わせている。それが聖母と呼ばれるゆえんなのだろうか。


「かしこまりました――ところで聖母様、今夜の夕食のことですが……揚げ物などはいかがでしょう。ちょうどいましがた、浮揚魚フライフィッシュを数匹とらえましたもので……。浮揚魚だけにフライにすると脂がのっていておいしいですよ……」


 トートは冗談を交えて流暢に話す。だが、聖母は首を横に振った。


「悪いけれど今夜は何もいらないわ」

「どこかお身体の具合でもすぐれないので……?」

「そうではないけれど、ちょっと気がかりなことがあってね――」


 そう言うと聖母は目の前の卓上にある液晶モニターを指し示した。そこには六角形の集合体――ハニカム構造と呼ばれる図形のそれが大きく映し出され、それぞれには何事かの状態を示す数値が表示されていた。


「これは……すみません、無学な私にはわからないのです」

「実はね、〈セントラルピラー〉がもう限界を迎えそうなの」

「なんですって」

「あれが崩壊すれば、この世界も終わる。それは貴方もわかるわよね」


 聖母は大きくため息をついた。


「〈裏界ブリガドゥーン〉――ですか。十数年前にも辺境世界の崩壊がありましたね。覚えております。あそこの住人たちは今でもあの頃と同じような争乱を繰り広げているのでしょうか……」

「それが彼らに課せられた運命なのよ。だけれど、出来る事ならば私はどの住人にも死んでほしくはないの。可能な限り助けてあげたいと思う」

「しかし私たちには手を出すことは……」

「そう――だから打開策となるべき〈種子〉を蒔くことにしたの。今頃はもう到着しているはずよ。上手くすれば適合者に接触できるかもしれない。でも代わりに――」


 そう言って聖母は寂しげに笑った。


「お嬢様のことですか」

「ええ、でもこれはあの子が自ら望んだ使命ですもの、止めることは私にはできなかった。残酷な母親だと思うでしょう? でも、私には聖母としてやらねばならないことがある。この世界が最期の時を迎えるその瞬間まで、私は〈母〉でい続けなくてはならないのだから」

「その時は私もお供させていただきます」


 恭しく頭を下げるトートを、聖母は止めた。


「やめてちょうだい。それにね、〈セントラルピラー〉が崩壊するといっても、今日明日の話ではないの。だから……今しばらくはまだ……」

「どれほどもつのでしょうか」

「そうね――今の状態から計算すればあと十一か月ちょっとといったところかしら」


 それを聞いてトートは目を見開いた。その表情には嘆きの色が色濃く表れている。


「おお、それでは間もなくではありませんか……」


 聖母は黙って椅子に座ると、先ほどトートが持ってきた書物に目を走らせた。

 そこに何が書いてあるのかトートにはわからないが、これ以上あるじの仕事を邪魔するわけにもいかない。一礼すると彼は部屋を退出した。

 聖母はひたすら書類に目を走らせ続け、その指先はコンピューターのキーボードをせわしなくたたき始める。そして、心の中でこうつぶやいた。


 神よ……。

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