カッパ製薬編纂室
笠井雅也は溜まっていくばかりの報告データを無視し、受話器を取り内線をかけた。
「はい。編纂室です」
「国内営業本部の笠井です。岸さんをお願いできますか」
「いいですよ、班長。わざわざそんな手間を踏まなくても」
電話の向こうの岸順一郎は沈んだ声で、笠井の二度手間を注意する。
笠井は現在、カッパ製薬国内営業本部長の肩書きを持っている。その笠井を「班長」と呼ぶ相手は、現在社内には一人しかいない。
岸順一郎。カッパ製薬編纂室長。二人はかつて、ともにカッパクリーンセンター防除班で死線をくぐり抜けた間柄だった。
もともとカッパ製薬の人間であり、防除班に出向していた笠井。カッパ製薬との協定によりノルマを上げることで本社への登用が提示されていた岸。互いに立場は違えど、防除班というチームでともに戦った時間は二人を大きく変え、また結びつけた。それはほかのメンバー全員にも同じことが言える。
出向を終えた笠井はそのまま国内営業本部長に昇格し、岸は新設されたポストである編纂室長という職を与えられた。
ただし、カッパ製薬編纂室の従業員数は一人のみである。室長である岸だけが本社の奥にある資料室に一人こもっている。
いわゆる閑職――などではない。編纂室はカッパ製薬の暗部を一身に引き受ける、表沙汰になることのない重要部署であった。
「特テのリエゾンからの報告はきているか」
笠井はすぐにかつての口調に戻り、岸に確認を取る。
「ええ。〈
さすがだと舌を巻く。笠井が自身の権限で集めようとして取りこぼした情報まで詳細に把握している。
笠井は無言で、そのさらに先を促した。
「中央研究所での解析の結果、当該〈
岸が言い淀むのも理解できる。
自己複製する〈
そして、一条の希望。
笠井はすぐに頭から雑念を振り払い、岸の言葉に集中する。
「兵頭アリス、菅原沙羅、トオノの記憶情報は確認できず。これは〈ケース〉によって挿入されたものではなく、自己複製機能のみを有した〈
一つ息を吐いて、岸は報告を終えたことを示した。
「ありがとう。助かった」
「ああ、それからこれは確度の低い情報ですが」
岸が手元のマウスをクリックする音までがこちらに聞こえてくる。それだけ編纂室内の静寂は深い。
「リエゾンによれば、C市内に出回っている『せこ』なるものの噂を確認。その実態を調査するために住居を出ようとしたところ、謎の――原文ママです――妖怪と接触。その直後に河童化した反社会的勢力が玄関前に出現したとのことです」
妖怪――特テの符牒かなにかか。河童もまた妖怪に分類されるということは理解しているが、河童という呼称とは別に用いているところから、河童に連なる存在ではないと判断すべきだろう。
河童を相手に平然と立ち回る鹿村キボウを見れば、彼女が妖怪とやらを常日頃から相手取っていてもおかしくはないと理解できるが、しかし妖怪とは――。
ひとまず横に置いておくべきだろう。より注意しなければならない情報が岸の話の中に出てきている。
「『せこ』とはなんだ?」
「リエゾンからの報告によると、危険ドラッグとして噂が広まっていると。それと、せこは――河童のことです」
岸はもとは文化人類学を専攻していた学者だ。河童の別名であることは、鹿村キボウから説明されるまでもなく気付いたのだろう。
危険ドラッグ――反社会的勢力――当人が河童化――原因は自己複製機能を有した〈
まず間違いなく、鹿村キボウは関連性に目をつけている。下手にこちらから手出しするより、彼女の才に任せたほうが上手く運ぶ。
笠井は一度息を吐いてから、頭の痛い問題へと切り込む。
「PCDドライバーについて、わかったことはあるか」
「いえ……もともとCCCドライバー自体が最重要機密ですから。新世代型デバイスともなれば、編纂室からでもアクセスできません」
わざわざ前に聞いている話を繰り返したということは――笠井は岸の言葉を聞き逃すまいと受話器を強く握った。
「ただ、わかったこともあります。CCCドライバーに比べて、PCDドライバーは、なんというか――雑なんです」
「雑……?」
「ええ。無論、最重要機密であることには変わりはありませんし、プロテクトも相応のものがかけてあるんですが、そこかしこから、断片的情報が編纂室に入ってくるんです。プロジェクトが広範囲にわたっているのか、機密保持を徹底できていない人間が混じっているのかはわかりませんが。CCCドライバーに関しては、例の『研究会』が持ち込んだものと見ていいんじゃないかと思います。あの事故の時にほぼ全データが持ち去られていったようですし、カッパ製薬にあれを再現できる人間がいないことからも明らかかと。そして、あの事故の時点で、カッパ製薬内からは『研究会』の人間は一斉に姿を消した」
「――なるほど。次世代機であるPCDドライバーは、完全自社製造を目指したというわけか」
結果として「雑」と呼ばれるような事態に陥るとは、なんとも皮肉ではある。カッパ製薬は決して一枚岩ではないし、特に笠井や岸は異端も異端だ。むしろ「研究会」なる存在の統制の徹底が異常なだけであり、社内でPCDドライバーの開発を賄おうとすれば、こうなるのは当然の帰結だったのかもしれない。なにより自分たちはそのおかげでこうして情報をかき集めることができている。
「雑、ということでいえば、PCDドライバーの性能にも、おそらく同様のことが言えると思います。CCCドライバーよりコストを抑えて製造している節があって」
岸は誰もいないはずの編纂室内で、一層声を潜めた。
「量産も、視野に入れているんじゃないかと」
岸の言葉はやけに耳に残った。蔓延している「せこ」――おそらくは自己複製する〈
「
PCDドライバーの検体として選ばれた、青黄桜の姿に擬態した河童。あれに施した処置は、防除班や桜には教えられない。
「完全にPCDドライバーが定着しています。当面は問題ないでしょう。予定では、あと二箇月です」
「ありがとう。引き続きこちらからも情報を流す。防除班の連中のこともよろしく頼む」
岸の返事を待たずに笠井は受話器を置いた。
コンが消滅するまで、あと二箇月――。
防除班のメンバーはトオノとともに過ごしたせいで、
だが、笠井は知っている。そもそも最初にあの
あれはカッパ製薬への憎悪のみで暴れ回る怪物だ。
それを適切な処置を施し、まともな理性と分別を植え付けた。桜に接触させたのは、処置が終わってからだ。
コンを守ろうとする者はみな、コンの本質を忘れている。生易しい感情の通じる相手ではないというのに、自分たちの勝手な感情を移入させ、まるで人間のように扱う。
馬鹿げている。トオノの時に重大な失敗を犯したことを忘れたのか。あの河童のせいで、お嬢様は――笠井は我知らず拳を握りしめ、怒りと寒気に身体を震わせる。
だからPCDドライバーをコンに与えた。PCDドライバーは装着者を制御された死へと導く。CCCドライバーの散逸と略取の経験を踏まえた安全装置。
だが――量産すればどうなる。
笠井は自分もまたカッパ製薬の暗部に属することを理解しながら、また別の暗部へと探りを入れ続ける。
幸い、カッパ製薬の闇は果てしなく深い。そこに「研究会」まで絡んでくるとなれば、いくらでも黒く染まれるというものだ。
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