噂の解釈

 噂話が漂っては消えていく。

 学校という場で常日頃そうであるように、青黄桜はその上辺だけを聞き流して適当に相槌を打つ。

 河伯高校。県立の歴史だけはある普通科。桜はまだ、そこに通っていた。

 ――いやいや、いいのかよ。

 自分はカッパ製薬から脱走した身であるはずだ。当然町の至るところでカッパ製薬の監視の目は光っている。そこに自ら姿を現すのは、どう考えても賢い判断ではない。

 だが、国の機関からやってきたと言った謎の女――鹿村キボウが、大丈夫だと請け負った。むしろ学校の中にいたほうが安全であると、他人を寄せつけないきっぱりとした他人行儀の言葉遣いで説明をした。

 その当人は今、教室の真ん中で別人のように明るく笑っている。

 いつの間にかやってきた転入生。彼女はあっという間にクラスに溶け込むどころか、学年中の話題と笑顔の中心にいる存在になっていた――らしい。

 どちらかというと荒んだ側の自分とは、随分違う立場になっているな――と思いながらも、やはり彼女が見せる笑顔は全て偽物なのだろうという確信ははっきりと持つことができた。

 お役所仕事の見本とでも呼ぶべき防除班への態度と、今の明るい笑顔。その間にはあまりにも大きな隔たりがありすぎて、とてもではないが結びつけることは不可能だ。

 つまりは彼女にとっては、そのどちらも偽物の自分でしかない。だけどどちらも完璧に演じきる。薄ら寒さを覚えてしまうほどの徹底ぶりだ。

「ねえねえ桜さあ」

 いきなり声をかけられて思わず睨むように目を上げた。

 彼女のグループの中に一人が、からかうように桜に話題をふってきたのだ。

「あんたはやったことないの? 『せこ』」

 ちょっとやめなよ――えーでも最初に言ったのあんたじゃん――うわ睨んでんだけど――漂うように耳を滑っていく有象無象の言葉たち。気に留める必要すらないことはわかっているが、単純に不愉快だった。

「ねえよ」

 短く吐き捨て視線を窓の外に向ける。

「ねえちょっと、そのさー、『せこ』ってなんなのー? もーいい加減教えてよー」

 彼女が笑い合う少女たちに唇を尖らせる。だが媚びる態度は微塵もない。浮かべているのは余裕を感じさせる笑み。

 少女たちはきっと、彼女も知らない話題を使って少しでも自分たちの優越感を確かめたかったのだろう。実際、彼女はそれに応じて詳細を聞きたがる素振りを見せている。

 だけど結局それは単なるモーションでしかなく、彼女の優位は揺るがない。

『せこ』――最近よく流れてくる噂だ。

 エステ用品、サプリメント、違法性のない薬物――そんな話が盛んに交わされている。

 もう少し踏み込むと、『せこ』を流しているグループに知り合いがいるだとか、そのグループが壊滅しただとか、若干不穏な話題も飛び出す。

 少女たちは彼女に桜の知っている通りの説明をした。

「うわ怖っ。でも実際やってる子とかいるの?」

「いないんじゃね? 噂よ、噂」

「もー、やめてよそういうのー」

 笑い合う中で、彼女の目が少しだけ蠢いたのを桜は見逃さなかった。

「せことは河童の異名です」

 帰り道の最後のあたりで合流してきた鹿村キボウが、挨拶もすることなくそう言った。

「正確には河童そのものではなく、山に上がった河童をそう呼ぶことがあります。季節が変わると河童は川から山へと移動し、呼び名も変わる。せこはそのうちの呼び名の一つです」

「はあ、だから」

「調べる価値はあるかと」

「そっすか。勝手にがんばってくれ」

 桜とキボウは同じアパートの同じ部屋に上がる。

「お帰り、桜」

 中ではコンが桜と同じ姿と制服姿で待っていた。

 キボウに与えられた仮住まい。桜とコンは今そこに同居している。

 というより、匿われていると言ったほうが正しいのか。

 カッパ製薬から行方を眩ませた桜とコンは、その監視網から抜け出すためにこの部屋で暮らすこととなった。

 キボウが桜に伝えた、身を隠すための方法は三つ。

 外に出る時は、必ず河伯高校の制服を身に着けること。

 外に出た時は、知っている相手以外と口を利かないこと。

 外から帰る時は、必ずこのアパートに戻ってくること。

 それさえ守れば、カッパ製薬から身を隠すことは可能だという。

 半信半疑だったが、実際に言われた通りにしてきて、以前はあんなに感じたカッパ製薬からの監視の目を全く感じなくなっていることに気付いた。

 コンが湯煎した別々のレトルト食品をテーブルでキボウと二人、無言で食べる。

「――コン、本当に食べなくて大丈夫なのか?」

 沈黙に耐えられなくなったわけではないが、桜はぼうっと二人の食事を見守るコンに向かって訊ねる。

 擬態準位デミの河童が食事を必要としないという知識は持っている。同時に、〈ディスク〉を直接読み取らなければ身体を維持できないとも聞いている。

ディスク〉――河童を懲罰することによって排出される記憶メモリ。防除班の連中は、その〈ディスク〉を回収する作業を請け負い、カッパ製薬から報酬をもらっていたと聞く。

 だが桜もコンも、当然キボウも、河童懲罰などという行為には及んでいない。なので〈ディスク〉を手に入れることはできていないし、防除班が〈ディスク〉を差し入れてくれるわけでもない。

 なのにコンは、平然と立っている。

「うん。大丈夫。ずっと回っているから」

 コンはそう言って、腰に巻いたPCDドライバーを指さした。

 黒ギャル河童懲罰士の使用していたCCCドライバーの次世代機。それが生命維持装置代わりになっているということなのか。カッパ製薬がそんな慈悲深いものを開発するとはとても思えないが。

「青黄さん」

 カレーを食べ終えたキボウが、皿を流しに持っていきながら声をかけてくる。

「C市近辺の不良グループについて、教えてもらえませんか」

 聞こえるように舌打ちをする。

 桜は確かに一時期、この町の中の不良グループに身を置いていたことがあった。

 C市を事実上支配するカッパ製薬。その無言の抑圧に反感を覚える若者は多かった。

 だが桜は割と早い時点で、グループを放逐されていた。

 桜が燃やすカッパ製薬への憎悪を、彼らはみな持て余した。なにをしでかすかわからない狂犬を身内に飼っておけるほどの度量は誰も持ち合わせなかった。

 みな、カッパ製薬にはどうやっても敵わないと理解していた。その中で明確にカッパ製薬に対して牙を剥く桜は、絶対に超えてはならないラインを超えてしまいかねない。実際に事を構えればその時点で壊滅は目に見えている。

 どうせ周りの少女たちから聞き出したことだろう。キボウの手にかかればあらぬ噂から真実だけを抽出するなど容易いはずだ。

「知らねえよ。縁切った時点で連絡も取ってねえ」

「最も顔の利く相手の在所さえ教えていただければ問題ありません」

「半グレ連中の頭なら知ってるけど、私から聞いたとか言うなよ?」

「安心してください」

 桜はC市を占める半グレのトップの名と根城にしている場所を伝えた。

 キボウはそれをメモに取る素振りすら見せず、すぐさまスクールバッグを手にして玄関に向かう。

「お、おい」

「安心してください。すぐに戻ります」

 玄関のドアに手をかけようとした瞬間、キボウは雷に打たれたように硬直する。

「赤い紙やろか、白い紙やろか」

 玄関の外からそう声がした。

 キボウはジェスチャーで桜に動くなと示し、自分もまたその場から一歩も動かずに玄関のドアを凝視していた。

 ――大災Hazard励起on

 ドアの隙間から、一斉に白い腕のようなものが這い出してきた。

「色問いの徒労。初めから意味を成さない質問。斯様な問いに、耳を貸す価値なし」

 キボウの全身を呑み込もうかという勢いで溢れた白い手が、急に勢いをなくす。

「答えろ。どこに綻びを見出した」

 呻き声。

「答えぬなら名乗れ。名乗らぬなら問うてやる。お前は〈モノ〉か」

 笑い声。

「私が名乗ろうか。我が名は〈解釈ときわけみこ〉。さあどうする。お前を解釈することなど」

「できないよ」

 女の声だった。

 キボウはそれに合わせて、ドアを一気に開ける。

 玄関の前には、一段と柄の悪い男が、ひょこひょこと身体を揺らして立っていた。

 桜ははっとしてキボウに向かって叫ぶ。

「そいつ、さっき話した半グレの頭」

「なるほどな――名前か」

 コンが男に向かって瞬時に飛びかかる。

 ――PUNISH

 空中でPCDドライバーの中心部を合わせ、頭から引き抜いた〈ディスク〉を差し込む。

「河童の将」

 ――CAPPA

 ドライバーの中央を拳で砕くように叩く。再び二つに分かれたドライバーはその反発力を利用するようにコンの身体に概念形成体の装甲を定着させる。

「我が尻を食らえ」

 ――DAEMON

 ――CUTTER

 即座にドライバーを接合させて右手にロングソードを構築し、男の脳天に向かって容赦なく突き刺す。

 ――ほーい

 なんだか間抜けな声を上げ、男はがたんと崩れ落ちた。

 その頭頂部からは、〈ディスク〉が排出されていた。

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