第4話 魔が差す

 必死の祈りも虚しく、視線との距離はじわり、またじわりと縮まっていく。

 当初は遥か遠くに感じられた視線も、ついに8畳ひと間の自宅の中にまで入り込んだ。

 それと前後して、奇妙な音が聞こえ始めた。数日前から微かに聞こえてはいたが、最初は単なる耳鳴りだと思っていた。

 しゃっ――しゃっ――しゃっ――

 と何かが擦れるような音。例えば、紙に文字を書き込んでいるような――。

 音は視線が近づくにつれて徐々に大きくなっていき、それはまるで視線の主から発せられているようだった。


 視線はさらに数日をかけて、手を伸ばせば届くほどの距離に達した。今やすぐ背後にまで迫っている。

 近い、近すぎる。首筋に吐息が感じられるようだ。急に襲われたとしても到底逃げられる距離ではない。

「視線のことを考えるな」と自分に言い聞かせ、改めて机の上にある過去問へ意識を集中させる。週明けには試験が始まってしまう。遅々として進まない準備に焦りだけが募る。

 頭を搔き毟りながら机に肘をついた時、窓ガラスに映る自分の姿が目に入った。その瞬間――

 人影だった。目に飛び込んできたのは、自分の背後にぴたりと張り付いた黒い人影。それは腰を折り曲げ、僕の肩越しに机の上を覗き込んでいた。

 椅子から飛び上がり、その勢いに任せて後ろを振り向く。誰もいない。

 部屋中を見回しても誰もいない。極度の緊張状態と疲れから白昼夢でも見ていたのだろうか。

 窓ガラスを確認するが、そこには憔悴しきった顔面蒼白の男が血走った目を見開き、じっとこちらを見つめているだけだった。まるで知らない誰かを見ているような目つきで――。

 その後も視線と音、そして右肩に何か重いものが乗っているような感覚は残ったままだった。



 2月の第一週。視線を背後に張り付かせたまま、ついに試験週間を迎えた。

 最初の試験は統計力学。碌に集中できない日々が続いたのだから当然の結果ではあったが、やはり開始早々から行き詰まってしまう。

 試験を受けている今この時でさえ視線が気になって仕方がない。頭の中から追い出そうとすればするほど膨れ上がる存在感。威圧感。

 そして視線に対する感覚は今まで以上に強い実感を伴うようになっていた。鋭い眼光で睨みつけられている――そう手に取るように分かるほどだ。

 視線に込められた怒気が生々しく伝わってくる。躱しようがない怒りの矛先を向けられ、僕は蛇に睨まれた蛙のように竦み上がるばかりだった。


 手が止まったまま時間だけが無情に流れる。しばらくして、

 しゃっ――しゃっ――しゃ――

 耳元でけたたましく鳴り響く音が周囲の音を掻き消す。耐え切れずに両耳を手で押さえるが、なおも脳裡にガンガンと響き渡った。

 声にならない声を張り上げる。やめてくれ、もう、やめてくれ。

 音はより大きく、より速く――

 しゃっしゃっしゃっしゃっしゃしゃしゃしゃしゃしゃししししししししししし――

 ぴたっ

 ――と突然、音が止まった。数日ぶりの静寂。

 いや、音だけじゃない。視線も感じない。祈りが届いたのだろうか、半年にも及んだ忌まわしい視線からようやく解放され、かつての平穏が戻ったのだ。

 刻一刻と試験の終了時間が近づいていることも忘れ、心の中は歓喜に満ち溢れていた。

 安堵から思わずはっと笑みがこぼれた、まさにその時。

 右目の端に何かを捉えた。顔のすぐ横から、ぬっ――と何かが飛び出てきたのだ。それは――

 頭?

 頭だ。窓ガラスに映っていたが、僕の肩に頭を乗せるようにして机の上を覗き込んでいる。名前しか書かれていない答案用紙を。じっ――と。

 直後に、ずんとした重みが体全体を襲った。何かがのしかかったような、何か重いものを背負っているような――。

 顔に安堵の笑みを張り付かせたまま、表情筋ひとつ動かせず、僕はその場に凍り付いた。

 視線はのだ。今やその視線は僕ではなく、僕の答案用紙の上に注がれている。

 しばらくして、はゆっくりと顔をこちらに向け、口を僕の耳元に近づけた。生温かい吐息が肌に吹きかかり、上から下へと全身が総毛立つ。

 そして一言、囁いた。

 掠れてくぐもった、それでいて、はっきりとした声で。


「の――ぞ――け」




 その日を最後に視線はなくなった。そして今日も僕は、他人の答案を覗き見る。


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