第3話 視線恐怖症

 目に見えない何かの視線に付き纏われてから半年近くが経とうとしている。

 すでに成績は開示され、無事にA評価を取ることが出来た。それでも視線は一向に消えなかった。

 一週間後には後期の試験週間が始まるというのに、まともに眠れず勉強にも身が入らない日々が続いている。このままでは成績どころか単位さえ危ういだろう。

 精神的にも肉体的にも限界に来ていた僕は、藁にも縋る思いで保健管理センターの学生相談室に駆け込んだ。


 受付窓口で軽く事情を話した後、奥の個室に通される。そこで山崎と名乗る心理カウンセラーが話を聞いてくれた。せいぜい30代前半の若い先生だったが、黒縁の眼鏡に切れ長の目が落ち着いた雰囲気を醸し出す。

 正体不明の視線を感じること、それも決まって右斜め後ろに感じること、日に日に近づいていること。話を一通り聞き終えた山崎は、僕の交友関係や学業に関する質問をいくつか聞いてきた。カンニングしたことまでは言えなかったが、それ以外は正直に答えた。

「なるほど」としばらく考え込むように俯いてから、

「おそらくは視線恐怖症ですね」

 ぽつりと山崎は言った。

「正確には他者視線恐怖症と言って、人の視線を極端に恐れる症状です。誰かに監視されていると思い込む症状は統合失調症などでもよく見かけるけど、話を聞く限り精神疾患とは思えない。おそらく君は他人の目を気にするあまり、常に誰かに見られているという強迫観念に駆られ、結果として視線そのものが怖いと感じるようになったんじゃないかな。対人恐怖症の一種だと考えていい」

 ああ、これだ。これこそ僕が聞きたかった言葉だ。専門家に心理的要因だとはっきり指摘され、心底ほっとしている自分がいた。

 決して軽視できる状態ではないだろうが、少なくとも怪奇現象なんかじゃないことはこれで明らかになった。原因が分かれば対処することだって出来るはず。

「では、治すことも出来ますか?」

 そうこわごわ聞いた僕を鼓舞するように、

「もちろん」と山崎は力強く言い切った。

「最も有効な治療法は振り向くことです。振り向いて誰もいないこと、誰も自分を見ていないことをその都度確認する。それを続けて、自分は自分が思うほど誰かに注目されてはいないことを知るのです」

 初めは僅かな期待しか持ち合わせていなかったが、今では彼の言葉を一字一句聞き漏らさまいと真剣に耳を傾けていた。

「あと、これは私の持論なんだけどね」と前置きして、

「なぜ人は目に見えない何かに恐怖を感じるのか。その根源には人間の視界が360度でないことが関係していると思うんです。人には目に見える領域があると同時に、見えない領域も常に存在している。視野に限界がある以上、視野の外がどうなっているかは想像するしかない。その想像力が時に恐ろしい何かを見せる。暗闇を恐れるのと同じです。そんな恐怖を克服する方法は一つしかない。周囲をよく見回して世界をしっかり観察すること。暗闇を光が照らすようにね」

 一週間分の抗不安薬と睡眠導入剤を受け取り、保健管理センターを後にした。帰路につく足取りは軽い。

 視線が近づいていると知ってから恐怖のあまり振り向けなかったが、これからは堂々と振り向くことが出来る。


 これで全てが解決する。視線に悩まされず勉学に集中できる。そんな希望的観測はことごとく打ち砕かれることになった。

 一ヶ月が過ぎても視線の症状は一向に治まらなかったのだ。何度も振り向いたのに。何度も何度も何度も。いくら振り向いたところで視線が消えることはなかった。

 視線は常に右斜め後ろ――僕の視野の外から向けられている。それはつまり、右斜め後ろを振り向けば、そのさらに右斜め後ろに視線が移る、といった具合にいたちごっこが延々と続くだけなのだ。山崎が言ったように、全方位を一度に見渡せる視野でもない限り、視線の方向に目を向けることさえ叶わない。

 結局、振り向くことも抗不安薬も何ひとつとして助けにならなかった。視線からは決して逃れられないという事実が、さらに僕を恐怖のどん底に突き落とした。いつ終わるとも知れない視線。このまま死ぬまで解放されることはないのかもしれない。

 もはや祈ることしか出来なかった。見ないでくれ。もう僕を見ないでくれ、と。

 時には声に出すこともあった。視線の主に祈りが届くことを期待して――。


 ふと、ある疑問が脳裡に浮かんだ。このままずっと視線が近づき続けたら、最後にはどうなってしまうのだろうか。

 今まで僕に直接的な被害はなかったが、触れられる距離にまで達した時――

 一体、僕の身に何が起きるのだろうか。


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