第2話 都市伝説

 それは決まって右斜め後ろだった。

 じっ――と射抜くような視線。只々、視線。振り向いても誰もいない。視線の主はどこにも見当たらないのに、視線だけが僕に向けられている。

 それは決して途切れることがない。誰かと話していても、誰もいない部屋の中にいても、壁に背をつけても、その場から全速力で逃げ出しても。視線が消えることはなかった。夜となく昼となく、絶えず視線を向けられ続けている。


 目の端に誰かを捉えたのならまだしも、視野の外――死角からの視線を感知できるはずがない。ましてや視線の主が存在しない視線なんて、聞いたこともなかった。

 そもそも僕は「視線を感じる」という現象に懐疑的だ。第六感のような、そんなオカルトめいた超常現象なんて微塵も信じていなかったし、これまで経験もなかった。

 だが、まさにいま感じているこの感覚。意識が視線の先――右斜め後ろに引っ張られる感覚。目に見えない不気味な力に絡め取られたような感覚。今までに感じたことがないこの感覚は、紛れもなく"視線"だった。

 あるいは、"気配"と言い換えてもいいかもしれない。得体の知れない何かの気配。その存在を生々しいほど肌に感じられるというのに、その正体を知り得ない何かの気配。

 なんとも歯痒いが、そうした曖昧模糊な言葉でしか形容しようがなかった。たとえ合理的に説明できなくとも確信だけは出来る。本能的な直感がそう警告しているようだった。誰かに見られている、と――。


 実体のない視線を感じ始めてから一ヶ月が過ぎた頃、ようやく気付いたことがあった。

 五感以外の何かが感じ取るのだ。ことを。

 一昨日よりも昨日、昨日よりも今日と、日を追うごとに視線が僕に近づいてきている。

 じわり、じわりと。



 9月末。新学期。

 カンニングが発覚する不安に怯え、徐々に忍び寄る視線に心乱され、何も手につかないうちに夏季休業が終わった。

 いつもは教室の最前列で授業を受けていたが、今はなるべく最後列に座るようにしている。それで視線が消えることはなかったが、後ろに誰もいない方が幾らか落ち着く気がした。

 月曜日の二時限目。応用物理学の講義を受けている時のことだった。

 不意に、僕が答案を覗き見た学生に見覚えがないことを思い出し、背筋がぞくりとする。

 入学したばかりの頃に新歓で小耳に挟んだ、ある奇妙な噂話を思い出したからだ。

 試験中に突然死した学生がいて、その霊が学生に紛れて試験を受けている、という内容だった。ここT大学に伝わる"学園都市伝説"と呼ばれるものの一つだ。

 僕が覗き見た相手は幽霊で、覗いてしまった僕を今度は逆に覗いている、とでも言うのか。同じように右斜め後ろから――。

 馬鹿げているにも程がある。俄かに湧き上がった恐怖を即座に引き剥がす。見覚えがないのはきっと学年か学部が違うからに決まっている。

 そして教室中を隈なく見渡し、その学生を探した。彼が生きている普通の人間であることを確かめるために。そうすれば噂話が下らない作り話で、僕の恐怖はただの妄想だと証明されるはずだ。


 ――そうだ。一連の怪現象に原因があるとしたら、考えられるものは一つしかない。

 問題は、僕だ。

 認めたくはないが、僕自身がどうかしてしまったのだ。

 カンニングをしてしまった罪悪感とそれが発覚する恐怖。そうした精神的な歪みが視線という形をとって現れているのだろう。

 きっとそうだ、そうとしか考えられない。合理的に説明できるはずだ。

 そう強く心に言い聞かせながらも、すでに後ろを振り向く勇気など持ち合わせていなかった。

 万が一にでも振り向いた時に恐ろしい何か、この世のものではない何かを目撃してしまったら――目を合わせてしまったら――

 きっと僕の精神は正気を保てなくなるだろう。


 気丈に振る舞おうとしても体はすっかり恐怖に支配されていた。恐怖を一刻も早く払拭させるため、例の学生がいないか全ての授業で教室中を虱潰しに探していく。

 一週間、二週間と過ぎていくが、未だにそれらしき人物を見つけ出せないでいた。その間も視線は静かに忍び寄ってくる。じわりじわりとゆっくり、確実に。

 視線が近づくにつれて否応なく膨れ上がる恐怖。ああ、気になる。気になって気になって仕方がない。右斜め後ろが――。


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