カンニング

映国紳士

第1話 右斜め後ろ

「優等生」「模範生」

 昔から何かにつけてはそう言われてきた。

 中学高校ともに成績トップ。大学3年生になった今でも学部一の成績を入学当初から維持し続け、教授からは首席の第一候補だと言われている。

 大人は僕を指して「彼を見習え」と周囲に言い散らし、同級生は羨望とも嫉妬ともつかない眼差しを向ける。

 当然、周りは僕が勉強できて当たり前だと思うようになった。自分自身でさえも。

 だが、トップを維持し続けるための努力は並大抵のものではなかった。僕の大学生活は受験期間と大差なく、この3年間は勉強しかしてこなかった。

 飲み会にも参加せず、サークルにも入らず、特別親しい友人も恋人も作らず。期待を裏切らないことだけに全神経を注いできた。

 将来の夢と呼べるものは特にない。にも拘わらず、そこまでして成績に執心する利用は、ひとえに期待を裏切ることが何より怖かったからだ。

 周囲の期待はいつしか大きなプレッシャーとなって僕の両肩に重くのしかかっていた。


 確かに僕の大学生活は明るく楽しいものではなく、むしろ苦しくて詰まらないものだったと言えるだろう。

 だからといってだ。

 だからといって、そんなことは何の言い訳にもならなかった。

 自分を取り巻くあらゆる境遇は何ひとつとして僕が犯してしまった罪を正当化できるものでも、相殺できるものでもなかった。いくら口実を重ねたところで、カンニングをしてしまったという事実をなかったことには出来ないのだ。

 僕は一か月前のあの日――カンニングをした日のことを思い返す。


 7月末。3年生前期の試験週間。

 流体力学の試験を受けていた時のことだった。ある公式をど忘れしてしまい、それ故にどうしても解けない問題にぶち当たったのだ。

 思い出さなければ大問を丸々落としてしまうが、一向に出てくる兆しがない。

 こんな初歩的なところで躓きたくない、いつもなら忘れるはずがないのに。恨み節だけが虚しく空転する。

 ――と不意に左斜め前の学生が目に入った。驚くべき速さで答案を埋めている。その間断なく書き続ける音がさらに焦りを募らせた。

 ふと、ここから彼の答案用紙が見えそうなことに気付いた。ほんの少し、首を前に突き出すだけで――。

 その瞬間、「覗けばいいではないか」という良からぬ考えが悪魔の囁きの如く、頭の中に降って湧いた。魔が差した瞬間だった。

 正常な判断を欠くほど追い込まれていたのだろう。思いついてから行動に移すまで時間はかからなかった。

 頭を下げたまま目だけを上げて試験官を見やる。試験官が下を向いていることを確認。前の学生の陰に隠れ、肘をつき、前屈みに。

 タイミングを見計らい――腰を上げ、体全体を前に突き出すようにして座り直す。その間に左斜め前――答案用紙の上に視線を投げる。

 ――見えた。

 即座に答えを書き込み、何事もなかったかのように残りの解答を埋めていく。


 こうして僕はカンニングという"不正行為"を犯してしまった。ちっぽけで、それでいて嫌というほど大切なプライドのために大きなリスクを負ってしまった。

 見つかれば一年間の単位が無効になる。当然、留年は免れない。

 だが、それは見つかればの話だ。その場では何事もなく答案用紙を提出して教室を後にした。カンニングから一ヶ月が経とうとしているが、今のところ発覚したという話は出てきていない。

 ただし、成績の開示は後期の授業が始まる9月末。残り一ヶ月弱は不安に苛まれる日々が続くことになる。


 そしてもう一つ、僕を苦しめるものがあった。

 カンニングをした日を境に、僕は恐ろしくも奇妙な、ある現象に悩まされ続けている。

 だ。

 視線を感じるのだ。僕に向けられた、何者かの視線を。

 に。


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