野々村ののむら真澄とは、五年前に彼女の従姉を通して知り合った。

 知り合った当初から、彼女は彼に好意を持っていた。実際、彼がそのことを知るのはもっと後になってからなのだが、周囲に言わせると、それは実に健気で、ひたむきな思いだったらしい。

 だが、成功した開業医の娘で、その生家はそれこそまだ実際に都がこの地にあった頃からの旧家であり、自身も旅行以外でこの街から一歩も出たことがないという紛れもないお嬢様育ちの彼女と、父親は公務員、母親は専業主婦というごく平凡な中流家庭に育ったものの、その母親を中学のときに病気で亡くして以来、父子家庭の家事一切をその弱く未熟な肩にすべて背負い、自分の感情や欲望をできる限り抑えて成長した彼。その生き方や価値観はもちろんのこと、たとえ並んで同じ景色を見ていたとしても、それぞれが脳内で捉えている映像は、まるで違っているのがあいにくの事実だった。

 結果、彼は彼女の想いに応えることはなかった。彼女を受け入れるには、彼は弱すぎた。弱く、不器用で、そのくせあからさまに正直で、なにより臆病者だったのだ。


 そんな彼に失望することなく、彼女は身を退いた。そして相変わらず一途な想いの溢れた眼差しで彼を見つめながらも、別の男性と人生を歩いていくことを決意した。それは決して後ろ向きな選択ではなかった。周囲の誰もが喜び、祝福し、そして二人の未来に希望を見た。本人たちも絆を深め、同じ景色を見て同じ映像を捉え、同じ未来を描いた。


 そうやって、出会いからほぼ一年の時間が流れた今日、男性の誕生日二日前に、めでたく挙式となったのである。

 そして、これはあくまで偶然で(もちろん真澄には分かっていただろう)、つまりは余談ではあったが、明日十二月二十四日は鍋島の誕生日だった。



 コーヒーを飲み終えると、鍋島はワイシャツの袖口をめくって腕時計を覗いた。二時二十分だった。四階の宴会場で午前十一時から始まっている披露宴は、おそらくもうすぐお開きとなるだろう。


 そう、実のところ鍋島は披露宴には出席していないのだ。


 当初、真澄から招待は受けた。しかし職業柄、当日のキャンセルということもじゅうぶんにあり得ると思った彼は、祝いの席で礼を欠くことになっては申し訳ないと丁重に断った。それでもいいから来て欲しいと真澄は言ったし、彼女の周囲からも新婦のわがままを聞いてやってくれないかと何度も彼に直接の打診があった。

 それでも彼が辞退の意向を撤回しないでいると、ついには招待状が送られてきてしまった。

 彼はいよいよ困って、悩み始めた。ここまで求められているのだから、あっさりと開き直って決心すればいいものを、元来、こういう場合の決断力を恐ろしいまでに持ち合わせていない彼にとって、この招待状の存在はまるで裁判所からの出廷命令のように──いや、不謹慎だった──思えた。

 恋人にも相談しようとしたが、また余計な心配をさせたくなかったし、彼女はどうせ「当然行くべき」と言うに決まっていた。

 だから今度は仕事の相方(相棒)に訊いてみた。

 相方はあっさり、

「気が乗らねぇんだろ。だったらやめとけば」と言った。

 実際のところ、気が乗らないというか、気がひけたのはある。

 本当はそれが一番の理由だった。

 さすがは相方。悔しいけどよく見抜いている。いや、俺が分かりやすいのか。

 結局、仕事の多忙を理由に断った。


 それなのに、今日こうやってこの場に来ているのはおかしな話だ。


 というのも、真澄が昨日の夜にもまだ「考え直して欲しい」と言ってきたからだ。

 しかも、夫となる男性と二人揃って。

 さすがにこうも懇願されて、それでも突っぱねるのは傲慢に思えてきた。

 それに、昨日の時点で彼は、結婚式当日に彼女に会って直接祝いの言葉を伝えたいと、そう思うようにまで心境が変化していたのだ。

 そしてそれは、極めて当然のことだと彼自身思っていた。

 そこで、前言撤回の急な出席こそ遠慮したものの、こうやって披露宴会場のあるホテルまで馳せ参じたのだった。


 鍋島はカフェの入口に目をやった。するとちょうどそのとき、黒いドレスに身を包んだ三上麗子みかみれいこが入ってきた。

 麗子はすぐに鍋島を見つけると、軽く手を上げ、いくぶん慌ただしい歩調でテーブルに近づいてきた。

「お待たせ」

 麗子は言った。優しい印象のロールカラーに同素材の可愛らしいフォルムのコサージュが飾ってある、上品な光沢感のあるドレスが実に良く似合っていた。誰に言わせても「綺麗」という言葉しか出てこないであろう、正統派の美女だ。

 真澄とは母親同士が姉妹で、つまりは従姉妹の関係だ。そう、五年前真澄を鍋島に紹介したのが彼女で、彼とは大学時代の同級生であり、そして当時は性別を超えた親友の間柄だった。

「お開きか」鍋島は言った。

「ええ」

「万事滞りなく?」

「そう。万事滞りなく」

 麗子は頷くと、心底安心したように大きく息を吐いた。

「今は来賓客の見送りをしてるところ。そろそろ終わる頃よ」

「分かった」

 鍋島は伝票を持って席を立った。


 勘定を済ませた鍋島は麗子とカフェを出た。同時に麗子が彼の左腕に右手を回してきた。そのままエレベーターホールに向かって歩きながら、麗子は嬉しそうに言った。

「叔父様と叔母様、ずっと残念がってたわよ。勝也に出席して欲しかったって」

「悪いことしたかな」

 鍋島は肩をすくめて俯いた。

「新郎のご両親もよ。ここにあなたがいないのが信じられないって仰ってたわ」

「そっちは社交辞令やな。顔も見とうないはずや」

「どうして?」

「忌々しいことを思い出すから」

 鍋島は言うとエレベーターのコールボタンを押した。

「何? もうヘソ曲げちゃってるの?」麗子は笑って鍋島を見た。

「なんで俺が?」

「真澄をお嫁にとられちゃうからよ」

「冗談」

 鍋島は言うと、麗子を促して到着した空のエレベーターに乗り込んだ。

「真澄、とっても綺麗よ。きっと勝也は後悔するわ」

 ドアが閉まると麗子は言った。

「しつこいなぁ」

 鍋島は呆れ顔で溜め息をついた。そしてそばの麗子をじっと見つめると、彼女の耳元に顔を寄せ、彼女だけに聞こえる小声で短く囁いた。

「……それも社交辞令?」

 麗子は頬を赤らめ、俯き加減で言った。

「そう思うか?」鍋島は彼女の顔を覗き込んだ。

「ええ……ううん」

 麗子は小さく首を振った。そしておもむろに鍋島に向き合うと、いかにも照れくさそうに彼の頬にキスをした。

 鍋島は満足げに微笑むと、再び組まれた彼女の右手に自分の右手を重ねた。

 やがてドアが開き、二人はフロアに出た。


 彼がこの披露宴に出席することを最後まで躊躇した理由。

 その真相が、しっかりと繋がれた二人の手にあった。


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