第五章 五日目/十二月二十二日

Ⅰ.突きつけられた現実

 マンションの自室に戻った芹沢は、リビングに入るなりソファに倒れ込んだ。

 クッションに顔をうずめ、ジャケットも着たままで窮屈だったが、一度そうなるともう動けなかった。帰ってすぐに風呂の湯を入れ始めたので、溜まるまでのあいだはせめてこうしているのが精一杯で、なんならこのまま眠ってしまいたいくらい、それはもう、心底疲れ切っていた。


 長い一日だった。二宮からの電話に始まり、出勤して深見茜の聴取を行い、市原香代にビンタを喰らったあと、馬鹿馬鹿しい芝居をうって早退し、吹田で二宮と合流して京都に向かった。セレブカップルの新居前で男たちと一戦交えたのち京都府警の平林ともめ、今度は滋賀へ。県警鑑識課の古田ふるた(だったっけ?)歩美の仲介で不動産屋に掛け合い、料亭跡に行ったかと思えばまた京都にとんぼ返り。

 そこでやっと中大路を見つけたと思ったら、二宮が負傷──。


 あのあと、芹沢は中大路を伴って二宮を山科区の救急病院に連れていった。

 受診の結果、脳しんとうの方は大事に至らなかったが、左側の鎖骨が折れていた。しかも折れ方が厄介で、保存療法では治癒が難しいらしく、手術が賢明らしい。とりあえず今日は入院だと言われた。

 中大路は激しく恐縮して、自分に出来ることは全てやらせてもらいたいと言い張ったが、芹沢はもうこの男の何もかもが面倒臭かったので、とにかく真澄のもとへ帰って欲しいと言って納得させ、鍋島から連絡を受けて新居マンションで待つ真澄の元へ送り届けたのだった。

 マンションへ戻る車中、中大路は何度か芹沢にこの四日間の説明をしようとしたが、芹沢はそれをすべて拒絶した。自分よりもまずは真澄に話すべきだと言い、興味もないと言った。そのたびに中大路は項垂れ、深くため息をついた。そしてまた芹沢と二宮に詫びた。


 ──ほら。それが面倒臭えんだ。おまけに間違ってる。謝る相手が違うだろう。


 芹沢はやがて、中大路を無視することに決めた。


 そのあと芹沢は一人大阪に戻り、レンタカーを返却して、自宅近くの定食屋で焼魚定食とビールを一本注文し、どちらも半分だけ胃に流し込んで店を出た。

 そしてようやくこの部屋に戻ってきたのは、ちょうど日付が変わったときだった。


 ──ひどいこき使われようだった。しかも大半がタダ働き。なんで俺がこんな目に──


 文句タラタラ、それでも意識が遠のく心地よさに浸りかけていると、ポケットの携帯電話が鳴り始めた。

 芹沢はうう、とうめき声を漏らすと、もう今日は諦めるしかないと悟って電話を取った。

「……はい」

《──お疲れさま》

 かろうじて受け入れられる唯一の声だった。

「……はい」

《部屋に帰ってるの?》

「……はい」

《……え、大丈夫?》

「……はい」

《……相当バテてるようね》一条はため息混じりに言った。

「あたりまえだろ」芹沢はやっと寝返りを打ち、仰向けになった。「……もう一歩も動けねえよ」

《無理もないわ。さっきくれた電話で詳細聞いたとき、ちょっとびっくりしたもん》

「それでもかいつまんでしか説明しなかったんだぜ。さっきは病院にいたから」

《どうなの、二宮くんは》

「鎖骨が折れてた。場所が悪くて、手術だって」

《じゃあしばらくは帰ってこれないの?》

「いや、手術は帰ってからでもいいそうだ。とりあえず今日は入院したけど、明日には帰れるってよ」

《……よかった》

「心配か?」

《当然でしょ。大怪我だし、巻き込んだんだから》一条は言うと少し笑った。《妬いてんの?》

「まさか」芹沢も笑った。そしてソファから起き上がると、片手でジャケットを脱いだ。

《中大路さんの方は? 無事に戻れて何よりだけど、いろいろ厄介だったんじゃない?》

「……思い出したくもねえよ」芹沢は舌打ちした。「あとのことは全部鍋島に投げてきた」

《それでも全然いいと思うけど、貴志自身は興味なかったの?》

「何に」

《今回の件のいきさつ。理由も含めて》

 芹沢はふん、と鼻を鳴らした。「どうでもいいよ」

《ホントに?》一条は驚いていた。《わたしはあるけど》

「どうせ明日には耳に入るんだ」

 芹沢は冷蔵庫からミネラルウオーターのボトルを取り出した。「それに、さっきメシ食ってるときに鍋島から連絡あったけど──あっそうだ、あいつ、この忙しいときにスマホ買いやがったんだぜ!」

《えっ、ホント?!》一条は素直に驚いた。《どうして? あんなに拒否してたのに》

「知らねえよ。俺が二宮と京都で悪戦苦闘してるときに、ノンキに彼女と一緒に買いに行ってやがった。お揃いだってよ」

《……鍋島くんてそんなに空気読めない人だったっけ》

 一条は独り言のように言い、そして続けた。《でも彼、ここんとこちょっとおかしくなってたから》

 芹沢はボトルから口を離すと言った。「あいつはいつでも非常識だよ」

《そんな悪態つかないの。それで、鍋島くんは何て?》

「中大路が戻ってきて、いろいろ聞きたいことはあったけど、無事だったとは言え疲労も溜まってるだろうから、とりあえず今夜はゆっくり休んで、もろもろのことは明日にしようってことになったらしい」

《それはもっともね。疲れてるって言えば、野々村さんだってそうだろうし》

「家族や会社にだって説明しなくちゃなんねえしな」

《そうね》

「……とにかく、俺はもう風呂入って寝たいよ。明日も仕事だし、二宮のこともあるし」

《ごめんなさい。いろいろ迷惑かけて》

「……二宮のこと言ってんのか?」芹沢は少し眉を歪めた。

《えっ、まあ──うん》

「なんでおまえが謝るんだよ」

《だって──》

「そんなの筋違いだって、分かるよな?」

《……うん》

「あいつがこっちに来たのは、あいつの意志だろ。おまえの代わりには違いないけど、来るって決めたのはあいつ自身だ。そう言ってたぜ」

《……そうね》

「だったらおまえが謝ることじゃない。ましてや俺に」

《貴志──》

 一条はそう言ったまま、何も言わなくなった。

 芹沢は目を閉じ、一条に気づかれないように深く息を吸い込み、そして静かに吐いた。

「ごめん。ちょっと言い過ぎた」

《…………》

「疲れてんだな」そう言うと芹沢はふふっ、と笑った。「いや、言いわけだ」

 そして芹沢はキッチンのカウンターに寄りかかり、壁のリモコンパネルで風呂の湯が溜まったことを確認した。

「風呂入って寝るわ。喋っててもいいことなさそうだし」

《分かった》一条が言った。《わたしも悪かったわ。今日一日大変だったって分かってるのに、こんな時間に電話して》

 芹沢は小さくかぶりを振った。「また明日連絡する」

《うん。でも無理しないでね》

「大丈夫だよ。明日には復活する」

 芹沢は電話を切った。そのままカウンターに放り投げ、両手で顔を拭って前髪をかきあげた。


 ──妬いてんじゃねえか、やっぱり。


 嫉妬なんて馬鹿げてるとは分かっていた。みちるの愛情を疑ってはいないし、二宮に対する身内意識は彼女の正義感から出たものだということも百も承知のはずだった。


 だけど同時に、本能的に察してもいたのだ。

 二宮がいずれ、みちるをめぐって自分の強力なライバルとなることを。


 そのとき俺は、あの男とどう向き合うのだろうか。

 みちるは俺のもんだ、誰にも渡さないと、おまえより俺の方が彼女に相応しいと、胸を張って二宮に言い切れるだろうか。

「……自信がないなら、妬くんじゃねえよ」

 芹沢は独り言を吐き捨て、風呂場に向かった。

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