Ⅳ.孤独の慟哭

 西天満署のいつもの取調室で、芹沢は琉斗の父・西条俊也と向かい合っていた。

 鍋島との電話のあと、琉斗が運ばれた病院を出た芹沢は、京橋に出て数軒のパチンコ屋をまわった。

 景気が下降気味のご時世とは言え、年の瀬の平日の昼間にパチンコに興じている中年男はさほど多くはなかった。そしてある店で超ミニの制服を着たホールスタッフの女性に尋ねると、彼女は常連の西条を認識していて、即答に近い感じで西条の居場所を教えてくれた。

 西条はホールの隅っこで、短くなった煙草を火を点けずに咥え、あたりを気にしながらどこか所在なさげに玉をはじいていた。そのせいか、芹沢が通路の向こうから自分に向かって近づいてくるのをいち早く察知すると、彼が後ろに立って身分を明かす前に、諦めたように頷いたのだった。

 芹沢もまた、何ともやり切れなさそうな溜め息を漏らし、警察バッジを取り出しながら訊いた。

「西条俊也さんですか」

「……はい」

 西条は力なく答えた。

「西天満警察刑事課の芹沢です」芹沢はバッジを開いて西条の前にかざした。「深見哲さんの件で、少しお話を伺いたいのですが。そう言えばお分かりになりますね?」

「……はい。分かります」 

 西条は煙草を灰皿に捨ててふらりと立ち上がった。芹沢がかなり目線を下げる感じの背の低さで、その上かなり華奢な体つきをしていた。まるで田んぼのくたびれた案山子かかしだ。この身体のどこから琉斗の鼻をあんなにしてしまう力が出てきたんだろうと、芹沢は心の中で首を捻った。

「警察に行くんですか」

 パチンコ屋を出たところで西条が訊いてきた。

「そうですね」

 芹沢は平坦な口調で答えた。そして西条に振り返り、きわめて冷徹な眼差しでその貧相な男を一瞥すると、

「もう、逃げてらんねえんだよ」

 と言い捨てたのだった。


 署に来てからの西条は、芹沢の質問に一応は素直に答えた。おとといの午後に深見家を訪ねた理由、それは茜が鍋島に語った内容とほぼ同じだった。

 半年前、二十三年間勤めていたホテルから突然のリストラを宣告された西条は、退職後はその勤務年数から鑑みるにあまりに少ない退職金を日々の生活費と自宅マンションのローン返済、息子の通う、まるで幼稚園のような高校の学費に使わざるを得なかった。その上、ちっとも勝てないパチンコや競馬で消費者金融に借金も作っていたため、金はあっという間に底を尽きた。

 このままだと生活は行き詰まる。失業保険で何とか食いつなぎながら、彼は再就職先を探した。それで最近になって、かつての同僚がとある有名レストランの支配人に転職した話を思い出し、この頃時折メディアに登場しているのを見る機会が増えた隣のマンションの深見に頼んでみようと考えたのだ。

「──息子があそこの娘と付き合いがあるのは知ってたよ」

 西条は言った。「ひきこもりで、その他にもちょっと問題のある娘やって」

「琉斗から聞いて?」

「いや、女房が近所から聞いてきた。そんな娘がどこでどうやって琉斗と知りあって仲良くしてるんやろうって、女房と不思議に思てた」

「で、その深見さんに仕事をもらおうと、琉斗と茜さんの関係を利用して接触したってことですか」

「利用したわけや──」

 西条は言いかけて、自分を見つめている芹沢の上目遣いの冷やかさに思わず言葉を切った。

「どうしたんです?」

 右手でこめかみのあたりを掻きながら、余裕たっぷりで斜に構えた芹沢は西条に訊いた。

「……いや、別に」

 西条は思わず口ごもって俯いた。自分よりもふたまわり近く若いであろうの目の前の青年が、警察官とは言えずいぶんと肝の据わった、一筋縄では行かない手強い男に映っていたのだ。そのくせ、刑事なんかにしておくにはもったいないほど、端正で艶っぽい顔立ちをしている。近頃の若い世代には、こんな風に得体の知れない人種が増えてきたんだなと、西条はさっきからどうも居心地が悪いのは、自分の置かれたこの状況のせいだけではなかったことに気づいたのだった。

 芹沢はそんな西条を見ながら、彼が気づかない程度に小さく笑って言った。

「まぁとにかく、あの二人の関係をちらつかせたことには違いない?」

「……そういうことになるんかいな」

「深見さんは快く応じたんですか」

「いや、そりゃ最初は相手にされへんかったよ。せやけど実際、人は欲しかったみたいでね。私みたいなキャリアの」

 芹沢は頷いた。「ホテルマンっつったら、サービスのプロだ」

「そう」

「じゃあうまくいったんですね」

「最初のうちはね。二回ほどの交渉で、いろいろと細かい条件まで詰めたよ」

「ところが、おとといになってその話がこじれて、ああいうことになったと」

「……ああ」

「どうしてです?」

 西条は首を捻り、苦悩の表情を滲ませた。「……私はてっきり、正式契約の話やと思って行ったんや。そしたら……契約はするけど、条件を一つ加えさせてもらいたいと切り出された」

「どんな条件?」

「……『あんたの息子を、うちの娘に近づけるな』って」

 西条の言葉があまりに予想外だったらしく、芹沢は彼を見つめたまましばらく固まっていた。そしてその数秒後、思い出したかのように唐突に言った。

「アホくさいな」

「ああ。けどそのアホくさい条件が、私の雇用には不可欠なんやと言うたんや、あの男は」

「それで?」

「私は反論したよ。深見さん、子供らのことはまた別の話でしょうって。私らはビジネスの話をしてるんやし、それとこれとは分けて話しましょうやってね。だいいち、年端もいかない子供同士のままごとみたいな付き合いに、親がいちいち口出しするなんて、失礼やけどあんた恥ずかしくないんですかって、そう言うたんや」

 西条は言うとふうっと息を吐いた。「……そしたら深見に言われたよ。あんただって最初は子供をダシに近づいて来ただろうって。それに、ままごとみたいなって言うけど、あいつら身体だけはじゅうぶん大人なんだ、あんたの息子だってその気になりゃ一瞬でケダモノに変わるんだから、うちの娘に近づけるわけにはいかないんだって」

 娘を持つ父親としてきわめて正論だ、と芹沢は思った。自慢でも何でもないが、彼自身も今までに同じようなことを何度となく言われた過去を持っている。そしてその都度憤慨したり弁明しようとしたものだが、要するに相手はいたって大真面目なわけで、最終的には、鼻で笑って無視するのが一番だと悟ったのだ。

 すると西条も言った。「私かてそのくらいは分かってるよ。ただ、それでもやっぱり、それとこれとは違うでしょうと言うた。仕事が欲しいのはやまやまやけど、息子の意思を無視してまで、そんな条件は呑めませんと」

 芹沢は片眉を上げて口元を緩めた。「意外だな」

「そんなことを言うようには見えへんって?」

 芹沢は頷いた。

「確かに。あいつの鼻をあんなふうにした張本人やからね。私は」

 西条は自嘲気味に笑った。「けど、赤の他人に言われたらやっぱり腹が立つ。勝手なもんやね。そこへもってきて、深見は追い打ちをかけよった」 

 その追い打ちとやらを聞いて、はたして俺はこの男に同情出来るんだろうかと芹沢は思った。いや、いいんだ。俺が同情なんてする必要はない。

「──それにしても薄気味悪い、汚らしい息子だなって、あいつは笑いながら言いよった」西条は言った。

 芹沢は俯いて溜め息をついた。料理人のくせして、クソだ。そんな男の作った料理なんか、鍋島の足元にも及ばない。

「……気がついたら、灰皿であいつを殴ってたよ」

 西条は肩で大きく息を吐いた。「自分でも分かってた。カッとなったんや。そりゃ、出来の悪い息子やってことは親の私にも分かってる。せやけど、深見が娘を大切に思うのと同じで、私かてあんな息子でも、他人に馬鹿にされたら腹わたが煮えくりかえる。しかもあいつは人の弱みにつけこんで、それを楽しんでいやがった。最低や。黙ってられへんかった」

「殴られた深見の反応は?」

「びっくりして、目ェまん丸にして、わぁわぁ喚きだしたよ」

 西条は肩をすくめてふんと笑った。「西条さん、こんなことしてあんたどうなるか分かってんのかって。俺はそこそこの有名人だし、女房もマスコミの人間なんだぞってね。あんたみたいなしょぼくれた男なんか、俺たちにかかったらひと捻りなんだからとか何とか……頭から血ィ流して、豆腐みたいに真っ白な顔色して、気ィ遠なってるくせに、まだでかい態度や。おまえの家族はみんなクズだ、負け犬だ、何の能力もないから、そうやって人に頭を下げるしかないんやて。うすのろで汚らしい息子……まるでドロボウ猫やて」

 西条は言い終えると、小さく首を振った。そしてゆるりと顔を上げて芹沢を見た。

「理解できるか? あんた」

「そういう人種はいるよ」芹沢は表情を変えずに言った。

「ところがや。気がついたら、後ろからあいつの娘が包丁持って突進してきてた。すうーっと音もなく父親の前まで行って、何も言わんとふわっと覆いかぶさって、父親の腹を刺したんや。何がどうなってんのか、訳が分からんようになって……」

 西条は両手で頭を抱えた。「悪い夢でも見てんのかと」

 芹沢はそれから、西条が茜の手助けでその場から逃げたこと、その際、茜が罪を母親に被せるようにやってみるからおじさんは絶対に黙っててと言ったこと、西条はそんな茜を自分と一緒に逃げようと誘ったが、そうすると偽装工作が不可能になると指摘されて引き下がったことを聞かされた。

「情けねえ話だ」芹沢がぼそりと言った。

「そうや。ええ大人が、つい二年ほど前までランドセル背負ってた子供に全部仕切ってもろとる。まったく、なんちゅうザマやと、今日の今日まで、ずっと思てた」

 西条は机に視線を落とした。「息子のためにやったことやなんて、何ら正義やない。言い訳にすらならへん」

「その息子だけど」

 芹沢は静かに言って、組んだ足の太腿あたりをちらりと見た。ダークグレイのスーツのあちこちに、琉斗が流した血液が固まった汚れが残っていた。

 芹沢は続けた。「自分の腹刺して、病院送りだ」

「なっ……!」西条は目をむいた。「そ、それで……?」

「大丈夫。死ぬわけじゃなさそうだ」

 西条はほっと肩を落とした。「──何で、あいつが……」

「この状況に絶望したらしいな」

「絶望……」

 西条がぽつりと呟くのを見ながら、芹沢はゆっくりと立ち上がった。マジックミラーの前に行くと、鏡の中の自分を見ながらシャツのボタンを外した。細めのグレーストライプの襟はデュエボットーニで、裏地は黒だ。その裏地にまで、僅かだが琉斗の血が付いていた。

「俺に言わせりゃ、ただのアホだけど」

 芹沢はその小さな返り血を見ながら言った。そして西条に振り返り、

「だけど、痛々しいくらい健気じゃねえか。まだほんのガキなのに、あれほどまでの孤独を味わわなきゃならねえなんて、あいつには重すぎる」

 と搾り出すように吐き捨てた。

 西条は俯いて黙っていた。芹沢は続けた。

「俺たち大人の大罪だと、そう思いませんか西条さん」

 西条はううっ、と呻くと、両手で顔を覆い、肩を震わせて大声で泣き出した。

 その時、ドアがノックされ、鍋島が顔を見せた。

 鍋島は西条の様子を見て表情を曇らせ、芹沢に視線を移した。

「娘は喋ったか」芹沢が訊いた。

「ああ。せやから連れてきた」

「こっちもだ」

 芹沢と鍋島は西条に振り返り、苦虫を噛み潰したような表情で重い溜め息を漏らした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る