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林淑恵の会社は署とは目と鼻の先、元町中華街の一角にあった。
渋谷のビルとさして変わらない規模の建物で、築年数も二十年は下らないと思われたが、それでも向こうより少しは洒落た外装を施した、小綺麗と言えば小綺麗なテナントビルだった。
「……何だか遠回りしちゃったわね」
ビルの玄関前に立つと、一条は深々と溜め息をついた。
「しょうがないですよ──ってボクが言うと怒りますか」
二宮は何となく面白そうな表情で一条を見下ろした。
「ここまで付き合ってくれてるあなたに今さら何の文句があるの? 大丈夫よ」
良かった、と二宮は胸に手を当てた。「で? どうやって調べるつもりです? まさかの正面突破ですか?」
「……なんにも考えてない」一条は首を振って肩をすくめた。
「は?」
「聞こえなかった? 何も決めてないって言ってるの」
「またまた、ご冗談を」
「大真面目よ。それこそあなたの言う通り真正面から行く?」
「……まいったな。お願いしますよ」
二宮は溜め息をついた。そして長いストラップを使って肩から提げていたブリーフケースの口を開けると、中に入れていた何かをじっと見つめた。
「たいそうな荷物ね」と一条は言った。
「傷害の資料を全部持たせたのは警部じゃないですか」
二宮はふてくされたように言うと、鞄から視線を上げて一条を見た。「……分かりました。とりあえずボクに任せて下さい」
「何をするの?」
「これです」
二宮が鞄から取り出して見せたのは、昨日一条が彼に頼まれて大阪で買ってきたフィギュアだった。
「これをどうするって?」
「まぁ見てて下さいよ」
「……異論はないけど」一条は頼りなげに頷いた。
ビルの中に入ると、二人はまっすぐエレベーターに向かった。 すぐに開いたドアの奥に乗り込み、二宮が3のボタンを押した。
「ねえ、女は消えた婚約者の居場所を知ってると思う?」
「それを前提でつつこうっていうんじゃないんですか」
二宮は一条を見下ろした。
「もちろんそうだけど」と一条は言って肩をすくめた。「だけど、証拠が──いえ、それどころか確信すら無いわけだし」
「手探りは仕方ないですよ。バッジ振りかざしてやってるわけじゃないんだから。それは最初からでしょ」
「……そうなのよね」一条は俯いて溜め息をついた。
「昨日だってまるっきりの丸腰で、遙かよその
「そうよ。だからこそここへ来てちょっとした心細さと行き詰まりを感じてるのかも」
「何だか弱気ですね」
「そんなことはないわ──って言いたいとこだけど、どうなんだろ」
そう言って自分を見つめる一条に対して、二宮は首を振った。
「もう、適当なところで手を引いたらどうです? 警部がそんなじゃ、きっとこの先どん詰まりですよ」
「ずいぶんと批判的な言い草ね」
「そんな、心外だな。ボクだって手伝ったじゃないですか」
「……そうだった、ごめんなさい」
「いかに普段ボクたちが権力に頼ってるかってことです」
二宮は言うと頭上の表示板を見上げた。そして目的のフロアに着いたことを確認すると、ドアが開くのを待ってフロアに降りた。
一条は彼のその背中から、まるで彼女自身に対する抗議を一身で表現しているかのような重圧を感じて、目を離すことが出来なかった。
やはり、署を出てくる前の刑事課で何かあったのだなと思った。
三階の淑恵の会社に着くと、二宮は訊き込みのイニシアチブをとって応対に出た女性スタッフに淑恵との面談を申し出た。
自分たちの管轄内であったため、警察手帳を提示しての交渉だった。
しかし女性スタッフは案の定、社長は外出していてしばらくは戻らないと答えた。全部想定内、とばかりに二宮は次の手に打って出た。
「──実は、これなんですけどね」
二宮が鞄から取り出して見せたのは、例のフィギュアの箱だった。
「は?」
女性スタッフは目を丸くして刑事の右手に握られた箱を見つめた。
「これが……何か?」
「実はね、これ、愛好家の間ではちょっとした値打ちのあるロボットらしいんですよ。ネットオークションなんかだとそこそこの高値が付いたりね。でね、そうなると案の定偽物が出回るわけです。それってつまり、明らかな法律違反なんです」
「はあ……」
「それでね、我々はその偽物がどこで作られて、どういう経路で出回っているのか調べました。すると、中国で作られていることが分かったんです。でもっておたくのような、中国と取引きのある会社などを経由して日本に持ち込まれる。ブランド物のバッグや財布と違って、一見したところ違法な製品かどうかが分かりにくい。だから今のところ、易々と出回るというわけです」
二宮は一気に話すと、ケースの蓋を開けて中のフィギュアを取り出し、女性スタッフの鼻先に突きつけた。
「ね、ここ、ここを見て下さい。『MADE IN JAPAN』って刻んでありますよね。ここがミソなんです。っていうか、初歩的ミスです。本物は日本語で『日本製』って書いてあるんですよ」
「そ、そうなんですか」
女性スタッフはフィギュアの足の裏を見つめ、それから一条にその視線を移した。
一条は黙って小さく頷いた。しかし内心、自分が買ってきたこのフィギュアが実は偽物だったのだろうかと不安になっていた。大阪のフィギュアショップの店員に、もしかして自分は騙されたのか。そして二宮はそれを見抜き、それでも自分には抗議などせず、こうして訊き込みに利用しているのだろうか。
一条はちょっと落ち着かなくなってきた。
そんな一条の心中を分かっているのかいないのか、二宮は相変わらず立て続けに女性スタッフに質問をぶつけている。
「最近、こちらでこういう商品を取り扱ってること、ありませんか?」
「無いと思います」女性スタッフはきっぱりと言った。
「それは確かですか?」
「ええ」
「あなたは、貴社の全取扱商品について把握している立場でいらっしゃる?」
「私に限らず、うちのスタッフは全員そうです」
女性スタッフは力強く言うと二宮を見据えた。
二宮はもちろん怯まなかった。
「この偽物は主に、大阪市内で出回っていることが分かっています。関西方面に取引先などはありませんか? 新規の相手とか」
「えっ──」
「あるんですか」
「それは──」女性スタッフは明らかに狼狽えていた。
「正直に答えて下さいね。それが結局、我々とあなたとの手間を省くことになるんですよ」
「ええ……」
女性スタッフは思案顔で俯くと、両腕で自分の身体を抱えるようにした。震えるほど怯えているわけではなかったが、じわじわと嫌な不安に襲われているらしいことは容易に想像できた。
「……最近ですが、京都の会社と取引を始めました」
慶福堂のことだなと、一条と二宮はそれぞれの頭の中で呟いた。
「どんな会社です?」二宮が訊いた。
「アジア各国からのアンティークを取り扱ってる会社です」
「アジアというと、当然中国も含まれるわけだ」
「え、ええ……」
女性スタッフはいよいよ動揺を見せ始めた。目が泳ぐ、とはこのことだろうなと二宮は思った。どうやら彼女自身は清廉潔白な人格らしい。
「もう少し詳しく聞かせてもらった方がいいみたいですね」
二宮は言うとフィギュアをカバンに仕舞った。「社長さんは何時頃お戻りになりますか?」
「それが──」
「分からない?」
二宮の問い掛けに、女性スタッフは首を振った。
「今日は……戻りません」
「どこかへお出掛けですか」
女性スタッフはがっかりしたように肩を落とし、それからゆるゆると顔を上げるとか細い声で言った。
「……大阪に行くと」
「なるほどね」
二宮は頷いて、一条に振り返った。
帰りのエレべーターの中で、一条は二宮に訊いた。
「ねえ、そのフィギュア、本当に偽物だったの?」
「まさか」と二宮は笑った。「だったら、ボクは今こうして警部に付き合ってませんよ」
「良かった。一瞬、あたしが大失敗したのかと思った」
「偽物が出回ってることは事実です。そっちに『日本製』って刻印があるんです」
「なるほど」
「意外なところでこれが役に立ちました。咄嗟のアイデアでしたけど」
そう言うと二宮は鞄をポンポンと叩いた。
「今の彼女、今頃林淑恵に連絡してるでしょうね」
「当然よ。だけど大阪へ行ったとはね。当然京都にも行ってるはずよ」
「むしろ大阪っていうのは嘘で、本当は京都にいるんじゃないですか」
「昨日からって言ってたわね。ということは、中大路の失踪時にはまだこっちにいたことになるわ」
「だからって、関わりがないなんてことにはなりませんよ」
「もちろんよ」と一条は頷いた。「実行犯は別にいるわ。あのヤクザ連中で間違いないもの」
「……やれやれ。聞いてるだけでも身震いがしますよ、草食系でオタクのボクには」
そう言うと二宮は開いたエレべーターのドアから飛び込んできた陽の光に目を細めた。
ビルの外に出た一条は周りを見渡しながら言った。
「ねえ、お腹空かない?」
二宮は腕時計を覗いた。「まだ十一時前ですけど」
「このくらいになると減ってくるじゃない。学生時代なら早弁タイムよ。そうじゃなかった?」
「……なるほど。確か警部は学生時代は大食いクイーンだったそうですね」
「ちょっとだけ大袈裟な表現ね」と一条は得意げな眼差しで二宮を見た。
「じゃあ何か食べますか」
「署に戻らなくていいの?」
「戻らなきゃならないですけど、せっかくだし、何か美味しいものでも食べて帰りましょうよ」
「そうよね。そうしましょう」
一条はたちまち明るい笑顔になった。「何が食べたい?」
「別に、何でもいいですよ」
「だったら、わたしちゃんぽんが食べたい」
「ちゃんぽん? ありますかね」
「中華街なんだから、一軒や二軒くらいはメニューにあるでしょ」
「好きなんですか」
「特に大好きってわけじゃないけど、学生のとき、旅行した長崎で食べたちゃんぽんがやたら美味しくて。それ以来、中華って言うと、北京ダックやフカヒレなんかより、まずはちゃんぽんが食べたくなるのよね」
「そんなに美味しかったんですか」
「ええ。路面電車の走る大通り沿いにあって、行列が出来てた。芸能人のサインとかもあったし、有名なとこ」
そう言うと一条はその時に食べたちゃんぽんの味を思い出したのか、遠くを見つめて何とも幸せそうな笑顔を浮かべた。そしてその笑顔のまま二宮に振り返った。
「ね、早く行こ。探さなくちゃならないと、ますますお腹が減っちゃう」
「……世話の焼ける上司だな」と二宮は呟いた。
だけど同時に、確かに可愛い人だなとも思った。
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