茜を半ば強引に自宅から連れ出し、エレベーターに乗せると、芹沢は操作盤の1のボタンを押した。

 反対側のドアのそばに立った茜は、身を守るように腕組みして芹沢を睨み付けた。

「……さっき言ったろ。中学生に興味はねえよ」

 溜め息混じりに言って芹沢は天井の防犯カメラを見上げた。

「そうじゃなくても、ああいうもん通して見たら誤解されそうだってのに」

「そういうこと言うヤツに限って、後でコロッと態度変えるのよね」

「昨日の相手とか?」

「……何言ってるの?」

「昨日、キミが逢ってた援交の相手のことさ」

 芹沢の言葉で茜の顔色が変わった。

「……バッカじゃないの。そんなことするわけないじゃん」

 茜はわざと面倒臭そうに言って髪をかき上げた。

「ところがそうも言ってらんなくなったぜ」

「どういうこと?」

「親父さんの愛人が死んだってことさ」

 そこでエレベーターが停まった。芹沢と茜は会話をやめた。

 開いたドアの向こう側で待っていたその階の住人らしき一人の中年女性は二人を見て一瞬、戸惑ったような表情になったが、軽く会釈をすると乗り込んできた。そして二人とは等しく距離を取って、奥の中央に立った。三人はそれぞれに正三角形の頂点に位置する形になった。

 女性は二人を見比べていた。やがて芹沢の背中に視線を留めると、そのままじっと見つめながら少し身を乗り出して顔を覗き込むような仕草をした。その様子に気付いた芹沢は、女性に少し顔を向けるとほんの微かに笑みを浮かべた。女性は満足そうに頷いた。

 そこで茜がハアッ、と溜め息をついた。

「何だよ」

 芹沢が茜に言った。中年女性は自分が言われたと思ったのか目を見開いたが、誤解だと分かったらしくすぐに視線を逸らした。芹沢の無愛想な口調に戸惑っているようだった。

 別に、と茜は言ったが、足許を見つめるとふん、と笑った。

「……あんた、自意識過剰じゃないの」

「何で」

「こんなおばさんにまで愛想良くして。自意識過剰の八方美人」

 茜は顎で女性を示すと、腕組みして彼女を睨み付けた。

「おいてめえちょっと黙ってろ」

 芹沢は押し込むように言い、厳しい視線で茜を見据えた。茜は口を固く結んでよそ見をしていた。

 いきなり無礼な扱いを受けた女性は、エレベーターに乗り込んできてから一番驚いた表情で口を少し開き、茜を眺めていた。

 ちょうどそのとき、エレベーターが一階に着いた。芹沢は『開』のボタンを押して中年女性に振り返った。

「すいません、どうぞ」

「……お、お先に」

 女性は飛び出すようにしてエレベーターを下りた。後に続いた芹沢と茜に何度も振り返り、そのうち小走りでエントランスへと消えた。

「──ふん、クソババァ」

 茜は独り言のように早口で吐き捨てた。

「黙ってろって言ってんだ」

「話があったから連れ出したくせに」

「減らず口を叩いていいとは言ってねえ」

 芹沢は茜を一瞥した。「思春期のジレンマだか何だか知らねえけど、アカの他人に悪態いててめえの人生棒に振ってりゃカッコいいなんて、バカのするこった」

「バカで結構。あんたに関係ないでしょ」

「ああ関係ないね。けど俺は仕事しなきゃなんねえんだ」

「どうぞ、勝手にしたらいいじゃない」

 芹沢は茜に向き直り、じっと彼女を見下ろした。茜も芹沢から視線を外すことなく見つめ返した。

「……刑事だからって、怖くなんかないんだから」

 言葉とは裏腹に、目の前の男の惚れ惚れするような端正な顔が怖くて仕方がなかった。

「渡りに船だ。その方がこっちもやりやすい」

 芹沢はにやりと笑うと、すぐに真顔に戻ってくるりと踵を返し、茜を置き去りにするようにエントランスに向かった。


「──ねえ、ちょっと待ってよ」

 マンションを出ると、茜は堤防沿いに停めていたバイクに向かって歩く芹沢の背中に声をかけ、小走りで追いついた。

「さっきの続き」と茜は芹沢を見上げた。「本当なの。パパの愛人が死んだって」

「知ってたんじゃねえのか」

 茜は首を振った。「……初めて聞いた」

「面識あるのか」

「ある。何度も」

 茜は忌々しそうに顔をしかめた。

「最後に会ったのはいつだ」

「アリバイ?」と茜は口元を緩めた。「あの女、殺されたの?」

「そんなこと言ってねえけど」

 茜は肩をすくめた。「……はっきり覚えてない。会ったのはパパの店だった」

「こじれてるような気配ってなかったか」

「パパと?」

「ああ。あんたに訊くのはデリカシーに欠けるけど」

「警察だって、しょせんは自分の都合しか考えないんでしょ」

 茜は大きく溜め息を吐いた。「不倫だったんだし、喧嘩の一つや二つはあったんじゃないの」

 芹沢は黙って頷くと、さっき琉斗が被っていたヘルメットを茜に差し出した。

「乗るか」

「どこへ行くの?」

「そっちの行きたいとこ。街を流すだけでも構わないぜ」

 そう言うと芹沢は茜を訪ねて来て初めてまともな笑顔を見せた。

「親父さんの病院でもいい」

「……そんなとこ、行きたくない」

 茜は怒ったように言って俯いた。

「心配じゃねえのか」

「どうでもいい。さんざん好きにやって来たくせに、こんなことになって今さら娘に見舞いに来て欲しいなんて思ってないわ」

「じゃあ、俺のリクエスト聞いてくれよ」

 茜は顔を上げ、怪訝そうに芹沢を見た。芹沢は相変わらず笑顔だった。

「あんたが昨日会ってたオヤジに会わせてくれ。それで昨日の午後のあんたのアリバイは成立だ」

「……つまり、パパを刺した容疑者リストから外すってことね」

「その通り」

 茜は小さく頷いた。ちょっと哀しそうだった。

「あたしが援交やってるって、何でそんなこと思うの?」

「引きこもりやる前は、家出少女だったらしいな。親にもらった小遣いが無くなったら、生活費稼ぐにゃそれしかねえと思って」

「だけど、それはもうずっと前のことだもの」

「今でもときどきやってんじゃねえの」

「さぁ、どうかな」

 悪びれもせずに笑った茜に、芹沢は溜め息混じりで言った。

「……琉斗に金渡したそうだな」

 茜ははっとした表情で顔を上げた。芹沢が空虚な眼差しで見つめていた。

「あいつに対して、それはねえんじゃねえの」

「……そっか。琉斗に聞いたんだ」

「あいつは何も言わねえよ。知ってたみてえだけど」

「だって、琉斗ったらケータイ代が──」

「そんなの関係ねえだろ」と芹沢は舌打ちした。「男ってのはな、女から金もらって喜ぶ生きモンじゃねえんだ」

「山ほどいるじゃん。女をフーゾクで働かせてるヤツ」

「琉斗はヒモじゃねえ」芹沢は即座に言い返した。「それとも、あんたはあいつのことそう思ってんのか」

「そんなこと……」

「だったら何のつもりだ」

「別に。ホントにお金に困ってると思ったから、渡しただけ」

「それであいつが喜ぶと思ったか?」

 茜は小さく首を振った。芹沢は苦笑した。

「あいつの何を試そうとしたんだ」

「何も試そうとなんかしてない。ただ──」

 茜は言いかけて、うんざりしたように溜め息をついた。

「ただ?」

「ちょっとイラついただけ。先に帰っててって言ったのに、ずっと待ってたんだもん。琉斗に関係のないことなのに。そんな琉斗が、ちょっと鬱陶しかったの」

 茜は膨れっ面をして俯いた。芹沢がやれやれという感じで溜め息をついた。  

「確かに、あんたの置かれてる状況を幸福しあわせだとは言わねえよ。両親が不仲で、それで女作ったり酒に溺れたり。挙げ句にゃ今度の騒ぎだ。金があったってちっとも満たされねえってのも分かる。パンの一切れどころか、水一杯が飲めなくて死んでいくどっかの国の子供を引き合いに出して、おまえらまだマシだって言うつもりもねえ」

「だから?」

「だから、そうやって好きなだけくすぶってりゃいいさ。俺はあんたに同情する気もねえし、助けてやる気もねえ」

「そんなこと望んでないわ」

「だろうな。こっちはただの警察だ」

 そう言うと芹沢は茜にヘルメットを押しつけた。

「分かったらさっさと案内しろ」

「無理よ、相手は認めないわ。教師だもの」

「認めさせてやるさ」

「それに、あたしはやってない」

「まだそんなこと──」

「だって昨日は、友達が代わりに会ったから」

「え?」芹沢は顔をしかめた。「どういうことだ?」

「……誘ったのはあたしだけど、実際は友達がそいつと会って、あたしは会わなかった。友達とは後で落ち合って、仲介料をもらったの」

「……自分じゃやりたくねえから客引きか」

 芹沢は呆れ顔で呟くと茜を見た。「おまえいったい何やってんだ」

「……事情が変わったから」

「ふうん。どんなクソ事情だ」と芹沢は吐き捨てた。「とにかく、そのカモんとこに連れて行け。ピンチヒッターの友達でもいい」

「友達は裏切れないわ」

「男に斡旋した時点で、とっくに裏切ってんだよ」

 芹沢にあっさり言われて、茜は俯いた。

「……そんなこと言われても、無理だもん……」

「今さらそんな泣き落としが効くと思ってんのか」

 芹沢は口調を強めた。「言ったろ。俺はただの警察だ。おまえらクソガキの心の闇なんて知ったこっちゃねえ」

「分かってくれなんて言ってないわ」

「それでいい」芹沢はふんと鼻を鳴らした。

 茜は悔しそうに唇を噛んでいたが、やがてその小さな肩を震わせると下を向き、顔をしかめて泣き出した。

 芹沢は無表情で言った。

「泣くのも勝手だ。だけどバイクに乗ってからにしてくれ」

 そのとき、二人の背後で声がした。

「──茜を泣かすな」


 立っていたのは琉斗だった。顔中血の跡だらけで、誰かに殴られたらしく、左の瞼と口元が腫れ上がっている。着ている洋服にも血痕が着いていた。

「琉斗……」茜が呟いた。

「……めんどくせぇ……」

 芹沢は心底うんざりしたように目を閉じた。そして小さく首を振ると、顔を上げて琉斗に言った。「いいから、おまえは病院にでも行ってろ」

「茜に何を言うたんや」

「おまえに関係のねえことさ」

「そんなことどうでもええ!」

 琉斗は大声を出した。そして二人のそばまで来ると、茜が持たされていたヘルメットを奪い取り、芹沢の胸元に突き出した。

「帰れよ。茜は何にもやってないんやろ」

「言ったろ。おまえに関係ねえんだよ」

「黙れ──!」

 琉斗はヘルメットを投げつけると、芹沢のジャケットの衿を掴もうとした。しかしあっさりとその手首を掴まれ、素早く後ろにねじ上げられた。そして気がつくと芹沢のもう片方の手が彼の胸ぐらを締め上げており、琉斗は完全に動きを止められていた。

「はっ、離せ──」

「邪魔すんなよ」

 芹沢は琉斗を睨み付けると、茜に振り返って言った。

「深見さん、さっさと言うこと聞いてくれねえと、こいつここでボコボコにするけどいいか」

「茜、こいつの言うことなんか──」

 琉斗が抵抗したので、芹沢は後ろに回していた彼の腕をさらに不自然な方向に引き上げた。

「いっ、いたた──!」

「もういいよ、離してあげて」

 茜がたまらず口を開いた。 

「茜──」琉斗は哀しそうに茜を見た。

「分かったから。友達のところに連れて行く」

「本当だろうな」

 茜はゆっくりと頷いた。「あんたの言う通り。琉斗は関係ないんだから」

「──だってよ」

 芹沢は琉斗に言うと、静かに両手を離して彼を解放した。琉斗はふらふらとよろけ、それからその場に尻もちをついた。

 芹沢は琉斗を見下ろし、怒ったように吐き捨てた。

「……手負いの負け犬が出しゃばるんじゃねえ」

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