2
ドレッサーの前を通るとき、鍋島は鳴り続けるスマートフォンに視線を送ると、チッと舌打ちして手に取った。電源を切ろうとしたのだ。
そして、その手が止まった。
「……違う」
「えっ?」
「真澄や」
鍋島はディスプレイを麗子に見せた。
「真澄が?」
麗子は身を乗り出して、ベッドの端まで来た。鍋島からスマートフォンを受け取ると、視力の悪い目を細めて画面を見た。
「……ホントだ」
「早く出てやれよ」
「うん」
麗子は画面をタップした。「──ごめん、待たせちゃって」
《……良かった……ごめんね麗子、こんな時間に》
「いいのよ。いったいどうしたの?」
麗子は言って鍋島に頷いた。鍋島はほっと大きく息を吐くと、そこでようやく部屋の灯りをつけ、ベッドに腰を下ろした。
《……助けて、麗子》
「えっ?」
真澄の声が小さすぎて、ちゃんと聞き取れなかった麗子は顔をしかめた。
「どうしたの? 何があったの?」
《寛隆さんが──》
真澄は声を詰まらせ、そして泣き始めた。
「真澄? 中大路さんがどうしたの? 喧嘩でもしたの?」
「ここへ来てるのかって訊いてみ」鍋島が小声で言った。
麗子は頷いた。「真澄、あなた今どこにいるの? もしかしたらうちの前まで来てるんじゃない?」
《……うん、来てる……》
「やだ、風邪ひいちゃう」と麗子は呟いた。「すぐに下りるわ」
電話を切り、麗子はベッドから出てドレッサー横のクロゼットの抽斗を開けた。
「どうしたって?」鍋島が訊いた。
「分からない。助けてって。中大路さんと何かあったみたい」
麗子は黒のセーターを無造作に頭からかぶった。
「喧嘩か」
「そんな感じ。でも、こんな時間にここまで来るってことは、ただごとじゃないのかも」
「……そうやな」
「式の五日前になって、ドタキャンなんてシャレにならないことしないでよ──」
鍋島は顔を上げた。「まさか」
「マリッジブルーってやつかも知れないけど、一昨日電話で話したときにはそんな感じはなかったわ」
麗子はジーンズのファスナーを上げた。
「でも喧嘩したんやったら、それとは違うぞ」
「そうよね。とにかく話を聞いてみなくちゃ」
麗子は金色のビーズアクセサリーが付いたゴムで髪をまとめると、ドアに向かいながら鍋島に言った。
「式の前に風邪ひかせられないわ。勝也、悪いけどコーヒー
「ええけど、俺が出て行っても大丈夫なんか」
「どういうこと?」
「もしもマリッジブルーとかやったら、俺が出て行かん方がなんとなくええのと違うか」
「……そうかな」麗子は俯いた。
「とにかく、まずは様子を見てみ。コーヒーやったらおまえが淹れられるし、もしも俺が出て行っても良さそうなら、呼びに来てくれよ。スープでも何でも作るから」
「分かった」
麗子は部屋を出て行った。
鍋島はベッドに仰向けになると、頭の後ろで手を組んだ。
──マリッジブルーか。そう言えば、妹の
すると、またドアが開いて麗子が入ってきた。
「何やねん、まだ行ってないんか」
「あたし、ノーブラだった」麗子はクロゼットを開けた。
鍋島は呆れて溜め息をついた。「どうでもええやんけ、相手は従妹やろ。それに、今はそれどころやないはずや。はよ中に入れてやらな、ほんまに風邪ひくぞ」
「だって、おさまりが悪くて」
セーターを脱いだ麗子はキャミソールの中でブラジャーを着け始めた。「見栄えだって悪いし」
「……おまえ、なに見栄張ってんの? 着けてようと外してようと、たいして変わらへんのに」
鍋島はにやにや笑いながら言った。「俺のおかげで、ほんのちょっと大きくなった程度やろ」
麗子は怖い顔をして鍋島を睨みつけた。
「……いい。真澄の用件がたいしたことなくて早くカタがついたら、そのあとであんた許さないわよ」
「ええから、はよ行け」
鍋島は追い払うように手を振った。
麗子が出て行ったあとのドアを見つめながら、鍋島は思った。
──あいつに限っては、マリッジブルーなんて辛気くさいもんは百パーセントないんやろな──。
こうして、この時点では、鍋島にしても麗子にしても、まだ全然と言っていいほどこの状況を深刻に受け止めてはいなかった。
前述の通り、少し程度の大きなマリッジブルー、くらいに考えていたのだった。
ドアを開けると、白いコートとマフラー姿の真澄が、石畳の先の外灯のともった門柱のそばに立っていた。
「ごめん、遅くなって」
麗子は小走りで歩み寄った。門を開けると、真澄がなだれ込むようにして入ってきた。
「麗子……助けて、麗子……」
真っ青な顔をした真澄が念仏のように呟くのを聞いて、麗子は少し驚いた。
これはちょっと、まずいところまで行ってるのかも知れない。
「とにかく入って。熱いコーヒーを淹れるから」
麗子は真澄の肩を抱くとゆっくりと玄関に戻った。
途中、真澄が石畳のくぼみに足をとられ、前のめりに倒れかけた。麗子は慌てて真澄を抱え、しっかりと手を握った。
「ごめんなさい……」
麗子は首を振った。「いいのよ。つまらないことで謝らないの」
真澄は顔を上げ、麗子を覗き込むように見た。やつれきった顔は、五日後に式を控えた花嫁にはとても見えなかった。
「……麗子だけは、信頼できるよね。してもいいよね」
真澄は言った。
「当たり前よ」
麗子は怒ったように答えた。
その様子を寝室の窓のカーテン越しに見ていた鍋島もまた、このときようやく事態の深刻さを認識したのだった。
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