第一章 一日目/十二月十八日

Ⅰ.明け方の来訪者


 遠くで、鐘の音が鳴っていた。

 カラーン……カラーン……。

 どこかの教会のものだろうか。だけど近所にはないはずだ。

 するとまた、カラーン……カラーン……。

 澄んだ音色。浅い眠りの意識の中を、涼しい響きで通り過ぎていく。

 カラーン、カラン……。

 だんだんと、音の間合いが短くなってきた。まるで何かに急いでいるように。

 カララン、カラコン、キンコン……キンコン。

 音色が変わった?

 そうではなさそうだ。そう、たぶん、最初からこういう音だったんだ。

 聞いたことのある音だ。というか、とても身近な音──

 何の音だっけ──?

 何でもいいや。心地よいから、ずっとこのまま聴いておこう。夜明けはまだ少し先だろうし、仕事も休みだから、ゆっくりとこの浅い眠りを楽しめばいい。

 キンコン、キンコン。


 そのとき、布団から出していた右腕の肘のあたりを、軽くトントンと叩かれた。

「ん──」

「鳴ってる」

 すぐ隣で、こもった声が言った。

「──ん?」

「鳴ってるぞ」

「──知ってる。だけど何が──?」

「ここんのチャイム」

「……チャイム?」

 薄く目を開けた。隣の彼も、まだ完全には目を覚ましていないようで、枕に深く顔を埋めている。その左手が、彼女の腕を撫でていた。

 麗子はゆっくりと頭をもたげると、ベッド左側のサイドテーブルに置いた時計を見た。

「……まだ四時よ」

「でも、鳴ってるやろ」

 彼は相変わらず顔を伏せたままで、彼女が動いたことで自分の肩からずれた布団を引き寄せた。「……新聞屋かも」

「新聞屋さんが、何の用?」

 麗子は言うと彼に向き直り、その肩に頭を寄せた。

「何かミスでもしたんと違うか。ここの庭にまとめて落としたとか」

 ここでようやく鍋島は顔を上げ、麗子に振り向いた。そしてすぐそばの彼女の額に唇を寄せると、軽く音を立ててキスをした。

 キンコン、キンコン。確かにこの家のチャイム音だ。

「どうする」

「なんだか、気味が悪いわ」

「せやな」

 鍋島は麗子を腕の中に抱き寄せた。「ほっとくか。そのうち諦めるやろ」

「だといいけど──」

 すると、二人の会話を聞いていたかのように、音がやんだ。

「ほらな。タイミングが合うたところが気に入らんけど」

「……良かった」

 麗子は溜め息をつくと鍋島に向き直り、彼の首に両手を回した。

「もう一眠りできるわね」

 そして麗子は彼にキスをした。鍋島もそれに答え、しばらくの間二人は唇を合わせ続けた。


 そのとき突然、彼らの足許のあたりで携帯電話の着信音が鳴った。

「わっ──!」

 麗子はびくんと肩をすくめると、そのまま鍋島に抱きついた。

「な、なんで……?」

 ベッドの向かいにあるドレッサーに置いてあった、麗子のスマートフォンが鳴っている。

「……今度はこっちか」

 鍋島は舌打ちして言うと、しがみつく麗子をそっと離して身体を起こした。着信音は鳴り続けている。暗闇の中、青白い光が不気味に見えた。

「ふざけやがって。相手になるで」

 鍋島はベッドから出ようとした。

「待ってよ、何するの?」

階下したへおりて、玄関のヤツを片づけてくる。この電話もそいつからや」

「だめよ、行かないで」麗子は鍋島の手を取った。

「何で」と鍋島は麗子に振り返った。「俺は刑事やで」

「だったらあたしも一緒に行く」

「おまえが来たら、元も子もないやろ。相手はおまえが目当てなんやぞ」

「だって、ここで一人は怖いもの」

「怖いかも知れんけど、ここの方が安全やないか。別に窓から入ってこれるわけでもなし。鍵掛かってるんやから」

 鍋島は言うと、ベッドから出て窓際のカウチソファに置いた自分の服をかき寄せ、戻ってきて手探りで着始めた。

 そこでおもむろに麗子が言った。

「それが……掛けてないの。二階の部屋、どこも全部」

「……はぁ……?」

 鍋島はシャツのボタンを留める手を止め、信じられないという表情で麗子を見た。電話は、数回の呼び出しのあと途切れては再び鳴る、という動作を続けている。

「いや、普段はちゃんと掛けてるのよ。今日は勝也が来るって分かってたし、部屋を全部掃除したの。それで窓を開けてたから──」

「鍵閉めるのが面倒臭かったってか」

「……うん」

「おまえ、自殺願望でもあるんか。何かヤケになるようなことでもあったか……あ、さては俺と結婚したくないな?」

「違うわよ」

「どうでもええ。とにかく俺は階下の変態をシメてくる」

 鍋島は吐き捨てるように言うと、ジーンズのベルトを締めてふうっと肩で息をした。気合いを入れたのだ。

 相変わらず電話は鳴っていた。

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