第13話 残業

 一月初旬の職場は、年末年始の間にたまっていた仕事がわんさと押し寄せて、目の回る忙しさとなった。おまけに、雪が本格的に降り出したので、道路が凍りつき、通勤時間もいつもの倍以上かかる。


 さっきから何杯目になるかわからないコーヒーを飲みながら、俺は五十年史の最終ゲラチェックにとりかかっていた。


 校正する人員を雇えばいいのだが、そこに回す潤沢な資金がないので、結局短大内部の人間でチェックまですることになる。担当である俺のほかに、総務課からは高田という二十代の若手男性職員と、島村も手伝ってくれていた。そして最終的にゴーサインを出すのが、課長だった。



 この頃は、毎日就業時刻になっても、作業が終わらず、残業していくことが増えた。高田と島村には、交代で残業をしてもらっている。昨日は高田が夜八時半まで頑張ってくれたので、学食でメシをおごってやった。



 今日の残業担当は島村で、しぜんと総務課フロアには、俺と島村の二人だけが残ることになった。



 忘年会のときに告白めいたことをして、俺に断られてから、島村がそのことを持ち出すことはなくて、前のおどおどした態度が消え、普通に笑顔で俺には接しながらも、余計なことを俺に対して言ったり、周りに何かいいふらしている様子もなかったので、俺は少しだけほっとしていた。



 仕事も、真面目にやってくれていて、俺よりも印刷ミスを発見する頻度が高い。だんだん、島村に対して、信頼の気持ちが芽生えてきた俺だった。



 時刻が今日も八時を回ったので、俺は島村に、先帰っていいよ、と言った。



「集中力もなくなるだろうし、また道も凍りはじめるから」



 ありがとうございます、矢知さん、と島村は言って、ゲラの束を机の上で整頓しはじめた。俺はぼうっと、島村の眼鏡の顔を見つめて聞いた。



「島村って、実家なんだっけ。じゃあ、お母さんが毎晩メシつくってくれんの?」



 島村はにこにこしたまま言った。



「うち、母親がいなくて。父も仕事で遅いので、仕事から帰ってから、いつも私が」



 はっとした。



「ごめん、聞かれたくないこと聞いちゃって」



「いいんですよ。ところで給湯室のポットの電源、もう抜いてもいいですか?」



「ああ、よろしく」



 ――島村に母親がいないことは、正直今知るまで、まったく思いもしないことだった。俺に聞かれたくないことがあるように、島村にだっていろいろ事情があることに、いま気づかされた。俺は、なんでも、抜けている。



 給湯室を島村は片づけてくれて、コートを着てマフラーを巻いている彼女に、俺は近づいていき、けげんそうな顔をした島村に、チョコ菓子の箱を渡した。俺はいつも間食用の菓子を机の引き出しに常備していて、その中にあったひとつだ。



「がんばってくれたから、車の中ででも食べて。腹減っただろ」



 島村が少し赤くなって目を伏せた。そのままぺこんとお辞儀をして「お先に失礼します」と総務課フロアを出ていった。



 俺は、窓のそばに近寄り、ブラインドの隙間を指で開けて、外の様子を窺った。雪の降りかたが、また強さを増している。俺も適当に帰らなければ、このまま雪に降り籠められてしまいそうだった。



 最終ゲラチェックで仕事が忙しくなってからは、土日もごろごろ寝ているばかりで、ちっとも日の出湯にも顔を出せていない。茉奈や文乃は元気でやっているだろうか気にかかったが、電話の一本も日の出湯にかけてやる精神的身体的余裕がなかった。



 俺は眉間を指でもんでから、自分の分のゲラの束を、のろのろと片付けはじめた。

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