第34話 風と炎と

 アレンたちが息をつめて見つめる先、峡谷の入り口に、濛々と土煙があがった。その中から最初に姿をあらわしたのは、ナヴァール守備隊の騎兵だった。細長い谷間を猛然と疾駆する騎馬の一団、その数はおよそ、


 ――少ない。


 アレンの胸にひゅっと冷たい風が吹いた。出撃したナヴァール兵は約百騎。だが、アレンの眼下を駆け抜ける騎兵の数は、その半分にも満たなかった。


 間をおかず、谷の入り口に新たな一団がなだれこむ。逃げるナヴァール兵に追いすがる、黒い蛇にも似た、あれは――


「離昇!」


 鋭い号令に、アレンははっと我に返った。


 アレンほか数名を残し、団員を乗せたドラゴンが一斉に地を蹴った。巨大な黒影が茜色の空を舞う。次の瞬間、鋭い笛の音が空に響いた。


 その音を合図に、アレンは手にしていた斧を振り上げた。丸太の山を結わえていた荒縄をめがけ、斧を振り下ろす。


 轟音とともに数十本の丸太が谷底へ転がり落ちた。激しい地響きによろめいたアレンが再び足を踏みしめたとき、谷底には丸太の山が築かれていた。その下に亡者の群れを閉じこめて。


 二度目の笛が鳴った。その残響が消え去らぬうちに、風が吼えた。上空を旋回するドラゴンが、谷底めがけて一斉に炎を吐きかけたのだ。


 またたく間に峡谷は火の海と化した。紅蓮の炎につつまれた黒い塊が折り重なって地に倒れ伏す。


 崖上で歓声がはじけた。


 狭い谷底へ黒屍くろかばねの群れをおびきよせ、頭上から丸太を投じて動きを封じたところをドラゴンの炎で焼き尽くす。これこそがアイーダの発案した罠だった。


 はじめ、アイーダは自ら囮役を買ってでようとしたのだが、ヴァレー伯とオルランドに強硬に反対され、いまは峡谷の対岸で作戦を統括する役についている。


 うなる炎が風を呼び、風は火の粉と煤を巻き上げる。煤煙にしみる目をこするアレンの耳に、あえぐような声がとどいた。


「なんだ、あれ……」


 荒れ狂う炎の中、ゆらりと起き上がる影が見えた。半ば崩れた身をゆすり、焦げた腕を虚空へとつきだし、前へ、なおも前へと進む亡者の群れ。


 ぐう、と奇妙な音とともに、土気色の顔をした団員が胃の中身を地面にぶちまける。その姿を笑う者はいなかった。誰もがみな、凍りついたように谷底を凝視している。驚愕と恐怖に支配されたその顔が、次の瞬間、白く塗りつぶされた。


「――!!」


 とっさに腕を上げて顔をかばったアレンの喉を、先ほどとは比べものにならない高温の風がく。


 めくるめく熱風は、ほんの数瞬でやんだ。はげしく咳きこみながら腕をおろしたアレンは、そこで目に飛びこんできた光景に愕然とした。


 谷底が、一面の白に覆われていた。日陰の雪にも似た、くすんだ白に。


 静寂につつまれた峡谷に風が吹いた。吹雪のように舞い上がる白い灰のむこう、崖の対岸に一人の男がたたずんでいた。背の高い、だが姿勢は悪いその男の髪は、最後の夕陽のかけらを受けて鈍い銀色にかがやいていた。





「焼けだと⁉」


 老騎士のひびわれた声が石の壁に反響した。


「馬鹿な、いったいどういうつもりで……」

「うるせえな」


 ヴァレー伯に詰めよられたシグルトは大仰に顔をしかめた。


 夕刻の戦闘を終え、カリス砦にもどった魔術師が放った言葉が、老城主を激昂させたのである。


 いわく、戦いで犠牲になった兵士の遺体を残らず焼け、と。


 今回囮役となったナヴァール騎馬隊は、ヴァレー伯自らが率いた。亡者とつかず離れずの距離をたもちつつ、峡谷までおびきよせるという困難な任務を、この老騎士は見事にやりとげたのだが、そこに伴った犠牲はあまりに大きかった。出撃したナヴァール兵は約百名。うち、砦に帰還できた兵は五十を下回った。


「そっちの姫さんが言っただろ。やつらにられりゃ、いずれそいつらの仲間入りだって。そうなる前に焼くしかねえんだよ」

「しかし……」


 ヴァレー伯が強い拒絶をしめすのも無理はなかった。この大陸でひろく信仰されている唯一神の教えでは、遺体を焼くことは禁忌とされている。この世の終わりに訪れる楽園に赴くため、器となる肉体をのこしておく必要があるのだと教会は説いている。


「安心しな。おまえらができねえなら、おれがやってやる。まあ最初はなからおまえらには期待してねえがな。おまえらに任せといたら、死体を集めるだけで夜が明けちまうだろうさ」

「この……」


 シグルトにつかみかかろうとしてヴァレー伯がよろめく。あわててその肩を支えたアレンの手に、ぬるりとした感触が伝わった。老騎士の右肩に巻かれた布からは、どす黒い液体が浸みだしていた。


「ヴァレー伯」


 二人のやりとりを見守っていたアイーダが口を開く。


「あなたの気持ちはわかる。だが、ここはこらえてくれないか。これ以上敵の数を増やすわけにはいかないことは、あなたもわかっているだろう」

「しかし殿下! 殿下までこの者の言うことをお信じになるのですか! このような得体の知れぬ輩の……」

「誰が信じろと言った」


 シグルトはそっけなくヴァレー伯の言をさえぎった。


「おれはどうでもいい。おまえらが何を信じようが、信じまいが。おまえがおまえの信じる神とやらに従って死体を焼かないというなら、それでもいいさ。だがな」


 青灰の瞳に嘲笑の炎がゆらめく。


「朝になって死体がのこらず消えてから、おれに泣きつくんじゃねえぜ。それとも、またそこのお姫さんに助けてもらうか?」

「……この、邪教徒が」


 両眼に憎悪をたたえた老騎士の口から、呪詛のようなつぶやきがもれた。


「貴様には人の心というものがないのか! 貴様が焼こうとしているのは物ではない。人間だ。それぞれに名もあり、家族もある、われらの仲間……」

「そのとおりだ。昨日までは誰かの夫で恋人で、父で子で、兄で弟……友人だったかもな」


 ヴァレー伯は口をつぐんだ。不用意に触れた氷塊の、思わぬ熱さに驚いたように。


「その仲間は、みな今日死んだ。おまえは、そいつらをもう一度殺したいか?」


 シグルトが口を閉ざすと、重苦しい沈黙がたれこめた。何事かを言いかけたヴァレー伯の目から急速に光が消え、そのままアレンの腕に倒れこんだ。


 おそらく多量の失血と極度の疲労のためだろう、意識を失ったヴァレー伯が治療室へ運ばれていったあとで、アイーダは「シグルト」と魔術師に声をかけた。


「すまなかった。ヴァレー伯の非礼、伯に代わってお詫びする」


 深々と頭を垂れるアイーダを、シグルトは熱のない眼で眺めやった。


「だが、遺体を焼きに行くというのは、少し待ってくれないか」

「なんだ姫さん、あんたも反対か」

「いや」


 アイーダは顔をあげ、真っ直ぐにシグルトを見つめた。


「いまオルランドたちが負傷者の救出に行っている。怪我をして動けずにいる者もいるだろうからな。彼らをあなたの炎の巻き添えにするわけにもいくまい。部下たちが帰ってきてからのことは、あなたにお任せする」


 アイーダの言葉に、シグルトはただ黙ってうなずいた。

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