封筒
リュクスが飛び込んだ廃屋は、小さな一軒家だった。
一階には、居間と食堂を兼ねた部屋が一つと、奥に台所。そして、秘密の抜け穴のある物置のような小部屋。
二階には寝室が二つ。
下水道が整備されていないので、トイレはない。
入り口は玄関のみ。窓はいくつかあったが、この家の左右と裏側には、わずかな隙間を挟んですぐ建物があるので出入りはできない。
玄関は塞いであるので、あとは一階正面のガラス窓を何とかすれば、衛兵の侵入をある程度は防げるはずだ。
「さて、どうするか」
家の中を見て回ったリュクスが、顎に手をやりながら考える。
「ま、これしかないか」
そう言うとリュクスは、一階の小部屋の扉の前に立ち、その蝶番の辺りをナイフの柄でガンガンと叩き始めた。
薄っぺらい扉はあっさりと外されて、ただの大きな板と化す。それをリュクスは居間へと運んでいった。
居間の窓から、リュクスがそっと外の様子を窺う。
衛兵たちは、建物から少し距離を取ってこちらを睨んでいた。その中の数人の視線が、何かを追っている。
「ちっ!」
リュクスが舌打ちをした。
次の瞬間。
「来るな!」
突然窓を開け放って、リュクスが外に怒鳴った。
「うわっ!」
窓の横から中を覗こうとしていた衛兵が、慌てて逃げていく。
「人質がどうなっても知らねぇぞ!」
もう一度怒鳴ってから窓を閉め、鍵を掛けて、リュクスは素早く窓を板で覆った。そして、部屋に残っていた食卓テーブルをずらして板を支える。
一気に暗くなった部屋の中を手探りで移動して二階へと駆け上がり、そのまま”女の子の部屋”に飛び込むと、カーテンレールに引っ掛けてあったシミだらけのシーツ、リリアの言うカーテンを剥ぎ取った。
「ごめんな」
そう言いながら、今度は通り側の”男の子の部屋”に戻って窓から下を睨み付けた後、シーツをカーテンレールに引っ掛けていった。
「ふぅ」
すべてを終えたリュクスは、イスにどかっと腰を落として大きく息を吐き出す。
差し当たり、やれることはやった。
「ま、気休めだけどな」
塞いだとは言え、一階の窓も玄関も、衛兵が本気になれば侵入するのは簡単だろう。二階の窓も、中を見えなくしたというだけで、突入を阻む障壁になどなりはしない。
人質がいる。だから衛兵は踏み込んで来ないだけなのだ。
それなのに。
「その人質がもういないってのが、笑えるよな」
苦笑いをしながら、リュクスはふと床に目をやる。
リリアに持たせていた封筒。それが、イスの横に落ちたままになっていた。
「さて、どうしたものか」
それを拾い上げて、リュクスはつぶやく。
首をガクンと後ろに反らしながら、リュクスは午前中の出来事を思い出していた。
「仮に、貴様が言ったことが全部本当だったとして」
澱んだ瞳が部下を見上げる。
「この私にどうしろと、貴様は言うのだ?」
悪びれるでもなく、平然とその声は問うた。
問われた部下が、背筋を伸ばして毅然と答える。
「衛兵の名誉のため、復興に励んでいる国民のためにも、きちんと自首していただきたいと思います」
「自首ねぇ」
鋭い視線から目をそらして、男はゆったりとイスにもたれ掛かる。
まるで他人事のようなその態度に、部下の頬がピクリと痙攣した。
「ここに、横領された装備の一覧と、締め上げた闇商人の証言があります。不自然に釈放された容疑者の改竄前後の調書も、悪党たちと密会を重ねるあなたの行動の記録もあります」
大きな封筒を突きつけて、部下は迫る。
「署長、あなたのしていることは……」
「リュクスメリアンよ」
不気味なほど落ち着いた声で、澱んだ瞳が聞く。
「お前はそれを、一人で調べたのか?」
「……そうです」
「ほぉ、それは大したものだな」
署長と呼ばれたその男が感心したように言った。
「だがな、そんな証拠は、何の役にも立たんのだよ」
たるんだ口元がにやりと笑う。
「お前がそれをどこに持ち込もうとも、そんなものは役に立たないのだ。何しろ衛兵という組織は、そのすべてが腐っているのだからな」
アルミナの町の治安を預かる衛兵本署の署長が、あり得ないことを言い放った。
それにリュクスが答える。
「そうですか。ならば」
険しい目で答えた。
「この封筒は、ロダン公爵にお届けいたします」
「なにっ!」
署長の顔つきが変わった。
「署長がなぜ堂々と不正を働くことができるのか、不思議に思っていたのです。しかし、あのお方が黙認しているとなればそれも頷けます。ですが」
リュクスが、封筒を持ち直して踵を返す。
「命を懸けてこの国を守って下さったロダン公爵なら、きっとお話を聞いてくださることでしょう」
「貴様!」
ガタン!
イスをひっくり返しながら署長が立ち上がる。それを無視して、リュクスは扉へと歩き出した。
良心の欠片でも残っていればと、期待した俺がバカだったな
リュクスが唇を噛んだ。
刹那。
殺気!
リュクスが素早く振り返る。目の前に、目を血走らせた署長と、その手に握られたナイフが迫っていた。
「くっ!」
咄嗟に右手でナイフを払う。鋭い痛みが走ったが、そんなことには構うことなく、封筒を投げ捨てて、リュクスは署長のナイフを奪いに掛かった。
だが、署長はしぶとい。長く現場を離れていたというのに、現役のリュクスを意外なほどに苦戦させた。
「死ね!」
「ふざけるな!」
怒鳴り声が響く。二人が交錯する。
しかし、体力勝負ではやはりリュクスに分があった。疲れの見えた署長の手から、リュクスがナイフを奪い取る。
「往生際が悪すぎだ」
荒い呼吸の中で、リュクスが言った。
その時。
「何があった!」
騒ぎを聞きつけて、一人の衛兵が署長室の扉を勢いよく開けた。飛び込んできた同僚に、リュクスが顔を向ける。
その瞬間。
ドスッ!
奪い取ったナイフに、リュクスは妙な衝撃を感じた。
驚いて視線を戻したリュクスが、目を見開く。右手のナイフに、署長が自ら、その体を押し込んでいた。
呆然とするリュクスの目の前で、どさりと音を立てて署長が倒れ込む。そして、苦しげな息の中で言った。
「リュクスメリアンを……捕らえろ。こいつは私を……殺そうとした……」
「リュクス!」
同僚が叫ぶ。
あまりのことに、リュクスは頭が回らない。
「動くなよ!」
リュクスにそう言って、倒れた署長に同僚が駆け寄る。
「誰か! 救護班を呼べ!」
血の流れる署長の腹を押さえながら、同僚が怒鳴った。その同僚の腕を掴み、それを押し戻して、署長が命じた。
「私のことはいい。こいつを……捕らえるのだ」
「はっ!」
一瞬躊躇った後、同僚は立ち上がってリュクスを睨む。
「お前を、逮捕する」
同僚が、リュクスにゆっくりと近付いてきた。
その後ろで、署長が、歯を食いしばりながらズルズルと床を這っていく。その先にあるのは、あの封筒。
それを見た瞬間、リュクスは動いた。
「うおぉぉぉっ!」
いきなり同僚を体当たりで突き飛ばすと、署長の右手が掴み掛けていた封筒を拾い上げて、扉へと走る。
だが、ちょうど数人の衛兵が駆け付けて来て、出口を塞いだ。
「リュクスを拘束しろ!」
床に転がっていた同僚が叫ぶが、咄嗟に状況が掴めない衛兵たちは、一瞬動きを止めた。
そこに。
「どけっ!」
ナイフを振り回してリュクスが突進した。
「うわっ!」
衛兵たちが反射的に避ける。できた隙間にリュクスが飛び込む。
「待て!」
壁を突破したリュクスの背中から、衛兵たちの声がした。
リュクスは走る。騒然となる署内を駆け抜ける。
そしてリュクスは玄関に辿り着き、そこにいた同僚に叫んだ。
「キース! しくじった!」
それだけ言うと、驚く同僚を置き去りにして、そのまま外へと飛び出していった。
見つめていた封筒をもう片方のイスに置き、魔法で水を発現させて、リュクスは右手の血を洗い流す。リリアが巻いてくれたハンカチを取って傷を洗おうかとも思ったが、それは止めた。
右手の血は、ほとんどが署長の血だ。自分の傷自体は、じつは大したことがない。
ハンカチをそっと撫でながら、リュクスが苦笑する。
「ほんと、しくじったぜ」
署長の良心に期待をしたのが間違いだった。
署長をなめていたのが、決定的に間違いだった。
「最初からロダン公爵の屋敷に駆け込めば、何とかなったかもしれないのにな」
後悔の念が湧いてくる。
「最後の希望は、こいつをキースに託すことくらいか」
血で少し汚れてしまった封筒を見ながら、リュクスはため息をついた。
その時。
「リュクスメリアン!」
窓の下から声がする。その声に、リュクスは激しく反応した。
跳ねるように立ち上がると、窓に駆け寄ってシーツの端をめくる。その目が、一人の人物を捉えた。
「即刻そこから出てこい!」
声の主が続けて怒鳴る。
「くそっ!」
予想はしていたことだった。それでもリュクスは、悔しげに唇を噛んだ。
「うちの救護班が恨めしいぜ」
憎々しげにリュクスが睨むその先には、署長がいた。
もともと急所は外していたのだろう。そして、署内にいた救護班が魔法ですぐ治療したに違いない。
腹にナイフが刺さっていたとは思えないほどの力強い声で、署長は声を張り上げていた。
「出てこなければ、今すぐ突入を開始する!」
何だと!?
リュクスが目を剥く。
直後。
「人質がいるんですよ!? 突入なんてできるはずないじゃないですか!」
署長に食ってかかる、一人の衛兵がいた。
「キース……」
リュクスがつぶやく。
「ふん、本当に人質などいるのか?」
「います! 小さな女の子が中にいるんです!」
衛兵が、理解不能な署長の言葉に必死で反論している。
「人質などいないのであろう? ならば……」
「待って下さい!」
リュクスと同年代のその衛兵、キースが署長を遮った。
続けて廃屋を見上げ、リュクスに向かって叫ぶ。
「リュクス! 女の子の無事を確認させろ!」
キースが、必死の形相で叫んでいた。
「参った……」
シーツから手を放し、壁に背を預けて、リュクスはその場に座り込んでしまった。
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