春の終わり

 うららかな春の日差しが降り注ぐ、緑の匂いに満ち溢れた草原に親子はいた。

 敷物の上にお弁当を広げて、楽しそうに話をしている。


「シャルに教わったの」


 そう言ってミナセは、シロツメクサで作った王冠をミズキに渡した。


「上手ねぇ」


 嬉しそうに笑う母の顔を見て、ミナセも笑う。

 何だか嬉しくなって、食べ掛けのお弁当を横によけ、ミナセはミズキの胸に飛び込んだ。


「こら、まだ食べてる途中でしょ」


 怒られたミナセは、ごめんなさいと言いながら、ミズキの胸に頬を押し当てた。


 鼓動を感じる。

 母の命を感じる。


 ミナセはご機嫌だった。


 食事を終えると、近くの小川で水遊びが始まった。

 河原に座るミズキの前で、ウィルと一緒に、ミナセはびしょびしょになりながらはしゃいだ。

 水を掛け合い、魚を探す。

 きゃーきゃー言いながら、ミナセは無邪気に笑っていた。


 水遊びに飽きると、ミズキに体を拭いてもらって、ミナセは乾いた服に着替える。そして今度は、木の実や果物を探して森の中を歩き回った。

 ミズキに教えてもらいながら、殻に覆われた木の実を割って食べたり、甘酸っぱい果物にかじり付いて、口のまわりを朱色に染めたりした。


 ミナセは幸せだった。

 七年間で一番笑った。

 七年間で一番甘えた。


 疲れて眠ってしまうまで、ミナセは思い切りはしゃぎ続けた。



「よく寝ているな」

「そうですね」


 ウィルの背中で眠るミナセを、ミズキが愛おしそうに見つめる。


 ミナセは笑っていた。

 眠っているのに、嬉しそうに笑っていた。


「ウィル、頼みがある」


 ミズキが静かに言う。


「何ですか?」


 ウィルが、静かに答えた。

 少し強めの風が吹く。黒髪をわずかに乱しながら、風が親子の横を駆け抜けていった。


「私の刀は、間もなく完成する」


 ミナセの前髪を整えながら、ミズキは言葉を続ける。


「素材の特性をすべて引き出した。魔法による強化もしてある。強靱で粘り強く、決して錆びず、決して折れない。あれは、間違いなく私の最高傑作になるだろう」


 穏やかな表情のまま、ミズキがウィルを見た。


「完成したら、あの刀をウィルに受け取ってほしい」

「……分かりました」

「そしていつの日か、ミナセが大人になった時には、あの刀をミナセに譲ってやってほしい」

「……そうします」


 少しだけ遅れるウィルの言葉。

 少しだけ揺らぐ、ウィルの瞳。


「ミズキさん……」

「私は」


 何か言い掛けたウィルを、ミズキが遮った。


 ミズキが立ち止まる。

 ウィルも、立ち止まる。


 立ち止まったウィルの頬を、ミズキが両手で柔らかく包み込んだ。


「これからも二人と、ずっと一緒だ」


 微笑みながら、ミズキが言った。


「そうですね。これからも、ずっと一緒です」


 ウィルも笑った。

 溢れ出す想いを飲み込みながら、笑って答えた。


 ミズキがウィルを引き寄せる。

 そのままそっと、唇を重ねる。


 自由にならないウィルの両腕。

 愛しい妻のかわりに、愛しい娘の体温をその両腕で感じる。


 唇を重ねたまま、ミズキが、ウィルとミナセを抱き締めた。

 親子の影が、一つになる。


 夕日に照らされた三人は、いつまでも、いつまでも、一つになったまま草原に佇んでいた。



 それは、春の終わりの、少し風が強い日だった。


「お母様、お弁当を……」


 いつものように、ミナセは鉱山のミズキのもとにお弁当を届けにきていた。しかし、ミズキの姿がいつもの作業場にない。

 テーブルの上には、真新しい鞘に収められたひと振りの太刀。

 その隣には、驚くほど鮮やかに、見事なまでに真っ二つに切断された見慣れぬ大剣がある。

 不安を覚えたミナセが、ミズキを呼んだ。


「お母様?」


 ミナセが小屋の奥へと入っていく。

 そして、台所で倒れているミズキを見付けた。


「お母様!」


 ミナセが、駆け寄ってミズキの体を必死に揺さぶる。

 真っ青な顔のミズキが、静かに目を開けて言った。


「……大丈夫。心配いらないよ、ミナセ」


 微笑みながらそう言って、ミズキは、目を閉じた。


「お母様! お母様!」



 ミナセの知らせで駆け付けた門下生たちが、ミズキを道場へと運んだ。

 同時に、年老いた医者が門下生に引きずられるようにやってくる。


 ウィル以外の人間をすべて部屋から追い出して、医者はミズキの診察を行う。そして、静かにウィルに言った。


「今夜は、親子三人で過ごすといい」



 門下生たちと一緒に晩ご飯を食べ終えたミナセは、その場でじっとテーブルを見つめたまま、何かを待っていた。

 いつもならとっくにベッドに入る時刻だが、ミナセは動かない。

 そのミナセがウィルに呼ばれたのは、日付が変わる少し前だった。


 ウィルと一緒に、ミナセが寝室に入る。

 そこには、静かにベッドに横たわるミズキがいた。


「ミズキさん、ミナセが来ましたよ」


 ウィルがミズキに声を掛ける。

 ミズキが、ゆっくりと目を開いた。


「ミナセ……」


 今にも消えてしまいそうな声。

 ミナセは、そっとベッドに近寄って、母の手を握った。

 その手に、いつもの温もりを感じることができない。


「お母様……」


 不安をいっぱいたたえて、その瞳がミズキを見つめる。

 今にも泣き出しそうな、それでもそれを必死に堪えている、健気な瞳。


 そんなミナセに、ミズキが優しく語り掛ける。


「ミナセ。この間のピクニックは、楽しかったね」

「はい、楽しかったです」


 ミナセが答える。


「また、行きたいね」

「はい。また行きたいです」


 ミズキの目をしっかりと見つめて、気丈に答える。


「ミナセ……大好きだよ」

「私も、お母様のことが、大好きです」


 ミナセは、笑わなきゃいけないと思った。

 泣いちゃだめだって思った。


 だから笑った。

 一生懸命笑った。


「ミナセは、いい子だね」


 ミズキも、嬉しそうに笑った。

 弱々しいけれど、本当に嬉しそうに笑った。


 ミナセに笑顔を見せたミズキが、今度はウィルを呼ぶ。


「ウィル……」

「何ですか、ミズキさん」


 ミズキは、ウィルを探していた。


「ランプの明かりが消えそうだわ」

「そうですね。すぐに油を足しましょう」


 ウィルが、ミズキのそばに歩み寄る。


「ウィル……少し、寒くなってきたわ」

「そうですね。今夜は少し、冷えるかもしれません」


 ウィルが、ミナセと一緒にミズキの手を握る。


「ウィル……何だか少し、怖い……」


 ミズキが、二人の手を握り返した。

 その表情がこわばっていく。

 

 その時、ウィルが言った。

 それは大きな声ではなかったが、室内に響いたその声は、ミナセが驚くほど力強かった。


「ミズキ、俺がお前のそばにいる。だから、安心するといい」


 その声を聞いて、ミズキは、安心したようにその手から力を抜いていく。

 そして、とても穏やかな表情を浮かべた。


「ありがとう」


 ミズキが言った。


「ウィル……私は……あなたのことが……大好きでした」


 ミズキの頬が、かすかに染まる。


「私は……とても……幸せ……でした……」


 一言ずつ、ゆっくりと、ミズキが言った。


「ミズキ、愛しているよ」


 ウィルの声を聞いて、ミズキはゆっくりと目を閉じる。

 その目から、一筋の涙が流れる。


「ずっと、一緒です」

「ずっと、一緒だ」


 ミズキは笑った。

 嬉しそうに笑った。


 そしてミズキは眠る。

 ミナセの手を握り、ウィルの手を握ったまま、静かに眠った。 


 ミナセは、この時のことを鮮明に記憶している。


 ランプの灯火に揺れる影。

 ミズキの言葉と、ミズキの微笑み。

 ウィルの言葉と、ウィルの微笑み。


 ミナセ、七才の春の終わり。

 それは、一生忘れることのないであろう、穏やかで、厳かな光景だった。



 ミズキの死は、町を悲しみに染めた。

 町の人たちは心からその死を悼み、そして同時に、ウィルを責めた。


「どうして病気のミズキさんを鉱山に行かせたんですか!?」

「剣を打つことを止めさせるべきじゃなかったんですか!?」


 門下生でさえも、抗議の視線をウィルにぶつけている。

 それにウィルは、ただ一言答えるのみだった。


「すみませんでした」


 静かに頭を下げるウィルを見ながら、ミナセは思う。


 お母様は、不幸なんかじゃなかった


 耳を澄ませばはっきりと聞こえてくる。

 ミズキの言葉、ウィルの言葉。


 目を閉じればはっきりと思い出せる。

 ミズキの微笑み、ウィルの微笑み。


 葬儀の間、ミナセは泣かなかった。


 悲しくないはずがない。

 寂しくないはずがない。


 だけど。


 お母様は、絶対に幸せだったんだ


 人々の嗚咽と祈りの声に包まれながら、その黒い瞳は、真っ直ぐに正面を見つめていた。

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