懐かしい匂い

 辱めを受けるくらいなら、いっそ……


 鈍っていく思考の中で、女は悲壮な覚悟を固めようとしていた。

 その時。


「何か来ます!」


 賊の一人が叫んだ。

 直後。


「うわぁ!」


 突然現れた一頭の馬が、賊を蹴散らしながら、集団のど真ん中を駆け抜けていく。


「ぐあっ!」

「助けっ……」


 まともな言葉を発する間もなく、男たちが踏み付けられ、弾き飛ばされていった。

 首領のすぐ後ろにいた子分が怒鳴る。


「たかが馬だ! 騒ぐんじゃ……」


 しかし男の声は、中途半端なところで途切れた。


 ドサッ!


 その体が、突如として崩れ落ちる。

 倒れた男の首には、鋭利な刃物が突き刺さっていた。


「手裏剣!? いや、あれは……」


 思考を取り戻した女が小さくつぶやく。だがそのつぶやきは、収まることのない混乱の声に掻き消されていった。

 

「誰だ!」


 馬が通り過ぎたあとに、一人の男が立っていた。殺気立つ集団の中にあって、その男の異質さは際立っている。

 その表情は、穏やか。まるで星空に誘われて散歩にでも出てきたかのような、場違いなほどの穏やかな顔。

 その顔を見て、門下生たちが喜びの声を上げた。


「先生!」


 男が門下生たちに微笑む。そして、静かに剣を抜いた。

 止まっていた賊たちが動き出す。


「やっちまえ!」


 男に向かって、賊が一斉に斬り掛かっていった。

 だが。


「ぎゃっ!」


 短い悲鳴が上がる。


「かはっ!」


 最期の声が響く。

 バタバタと賊が倒れていった。次々と、地面に死体が転がっていった。

 その死体を避けながら、男が前に進み始める。狂気と殺気が渦巻く中を、男はゆっくりと進み始めた。


 迫り来る賊たちを、男が圧倒していく。

 それは、よくできた芝居を見ているかのようだった。


 流れるように、男は剣を振る。わざとそうされているかのように賊が斬られていく。

 危うさの欠片も感じない。

 観客を魅了する、完璧なまでの殺陣。


 厚い壁を信じられないくらい簡単に切り裂いて、男は首領の前までやってきた。


「てめぇ」


 首領が、血走った目で男を睨む。

 女に対していた時とは真逆の、鬼気迫る表情だ。

 

 その首領の目の前で、男が、完全に首領から視線を外して女を見た。

 そして、どこか嬉しそうな顔で言った。


「今度は、助けたことになるでしょうか?」


 言われた女が目を丸くする。


「そちらは、あの時の……」


 やはり首領から完全に視線を外して、女が男を見つめた。


 瞬間の静寂。

 直後。


「ふざけるな!」


 首領の怒りが爆発した。

 旋風を巻き起こしながら、横殴りに大剣を払う。

 男が立っているのは、両手剣の間合いの内側。狙いは胴。跳ぼうがしゃがもうが、かわせる攻撃ではない。

 そのはずなのに。


 首領の剣は、何も捉えることなく空を切った。

 剣が弧を描き終わった、その後。振り切った剣が横に流れていったその後から、男が自分に向かって近付いてくる。

 そして。


「何が、起きた?」


 男は、すでに目の前にいない。

 首領が男を探す。しかし、その血走った目には何も映ることはなかった。

 血溜まりの中に、音を立てて首領が倒れ込む。


「お頭!」


 賊の一人が悲鳴を上げた。

 同時に、周りの賊が後ずさりを始める。


「逃げろ!」


 残っていた賊が一斉に逃げ出した。

 その光景を霞んだ視界の中に捉えながら、女はその場で、気を失った。



 コトコトコト……


 どこかで聞いたことのある音がする。

 

 これは……ああ、何かを煮ている音だ


 しばらくすると、今度はいい匂いがしてきた。


 この匂い……何だか懐かしい感じ

 私は、どこでこれを知ったんだっけ?


 夢なのか現実なのか判然としない。

 ぼーっとした頭で、女は考える。


 そう言えば、小さい頃もこんな経験をした覚えがある。

 眠っていたら、台所からいい匂いがしてきて、それで目を覚ました。ゆっくりと目を開けると、そこには優しい笑顔があった。


「大丈夫?」

「うん、お腹すいた」


 そんな会話を、した気がする。


 それは、幼い頃の記憶。

 風邪で寝込んでいた私に、母がお粥を作ってくれた。


 旅に出てからは、お米を食べることはなくなった。どうやら大陸の中では、お米を食べる民族は限られているらしい。


 お粥なんて何年ぶりだろう


 お粥なんて……


 女が、ゆっくりと目を開けた。

 その目に、優しげな顔が映る。


「大丈夫ですか?」


 その人が声を出した。

 母ではない。それは、男の声。


 男の……?


 急速に意識が戻ってきた。

 次の瞬間、女は本能的に男から逃れるように身体をひねろうとする。

 しかしそれは、ふわりとおでこに当てられた手のひらによって、見事に封じられてしまった。


「熱は下がりましたね」


 男が静かに言う。

 女は、目を見開いて男を見た。

 決して押さえ込まれている訳ではない。その手は柔らかく、静かにおでこに当てられているだけだ。

 それなのに、なぜか全身の力が抜けていく。


「最初から体調がよくなかったんですね? 倒れた時にはだいぶ熱があったようですから」


 穏やかな声に、女の気持ちが少しずつ落ち着いていった。同時に、賊に襲撃された時の記憶が戻ってくる。


「私は……コホッ」

「半日以上眠っていたんです。少しずつ身体を慣らしていきましょう」


 咳き込む女に、男が水の入ったコップを差し出す。

 半身を起こして、女は素直にそれを飲んだ。

 途端。


 くぅぅぅ


 お腹がかわいい音を立てた。

 女の顔が真っ赤になる。


「食欲はありそうですね。何よりです」


 にこっと笑って、男が女を再び横にさせた。


「お粥、できてますよ。久し振りなんじゃないですか?」


 女は驚いた。


 やっぱりこの匂いは……


 途端にまた。


 くぅぅぅ


「あははは。ちょっと待っててください。すぐに用意しますから」


 限界まで朱に染まったその顔にもう一度笑みを見せて、男が立ち上がる。

 その足が台所に向かって踏み出された、その時。


「あの……」


 女の声で、男は振り向いた。

 女は男を見つめ、そして、目をそらす。


「その……助かった。ありがとう」


 恥ずかしそうに、女が言った。


「どういたしまして」


 男が答える。

 ちょっと誇らしげな顔で、男が答えた。

 再び男は台所に足を向ける。その背中が、とても小さくて、とても可愛らしい声を捉えた。


「ミズキだ」


 驚いて男が振り返る。

 女は、布団を鼻まで上げ、目だけを出して男を見ていた。

 男は、まるで少年のように笑うと、嬉しそうに言った。


「ウィルです」

「ウィル……」


 慌てて女が頭まで布団をかぶる。

 その姿をやっぱり嬉しそうに見つめた後、今度こそ男は、台所に向かって歩いていった。

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