ファン

「ワンワンワン!」


 遠くで犬の鳴き声がする。窓の外は、まだ真っ暗だ。

 眠そうに目をこすりながら、ミアは体を起こした。


「ワンワンワン!」


 犬は鳴き止まない。


「ファン?」


 遠いのではっきりとは分からないが、ファンの鳴き声のような気がした。ミアの起き出す気配で、隣で寝ていた宿直のフローラも起き出す。


「ごめん、起こしちゃった?」

「ううん、大丈夫。どうしたの?」

「ファンが鳴いてるみたいなの。ちょっと見てくる」


 そう言うとミアは、懐中電灯を片手に部屋を出ていった。


 建物を出ると、鳴き声がはっきりと聞こえる。


「やっぱりファンだ」


 鳴き声は、薬草園の方から聞こえていた。

 ファンは老犬だ。普段はこんなに鳴き続けることなどない。


 何かあったんだ


 今夜は曇っていて、懐中電灯以外の光はない。

 ミアは、恐怖心を勇気で打ち消しながら、暗闇の中を声の方向へと小走りで進んでいく。

 やがてミアは、薬草園に辿り着いた。


「ワンワンワン!」


 鳴き声は、小刻みに場所を変えながら続いている。


 不審者?

 それとも動物?


 ファンは、明らかに何者かを相手にしていた。


 怖い。

 誰がいるにせよ、何がいるにせよ、この先に危険があることだけは分かる。

 その何者かに自分の存在を知らせてしまいそうで、声の方向に明かりを向けることも躊躇ってしまう。

 だが、暗闇から聞こえてきた人間の声に、ミアの恐怖心は吹き飛んだ。


「犬一匹に何をやっている! とっとと殺してしまえ!」

「ファン!」


 名を叫びながら、ミアが明かりを向ける。

 そして、ミアは見た。


 懐中電灯に照らし出された先で、男が一人、短刀を握り締めている。その後ろにも、数人の人影があった。

 その中の一人の魔力が急激に上昇する。

 次の瞬間、その人間が青白い魔力の固まりを放った。

 それは、短刀の男を威嚇していた白い犬、ファンに正確に命中した。


「キャイィーン!」

「やめてー!」


 ファンの悲鳴とミアの悲鳴が交錯する。

 倒れ込んだファンに、短刀の男が近付いていった。


「ファン!」


 ミアが駆け出した。

 危険だと理性は叫んだが、体が反射的に動いていた。


 男が短刀を振り上げる。


 だめよ!


 ミアは走った。

 ファンに向かって全力で走った。


 お願い!


 走りながら、誰かに向かって助けを求める。

 揺れる明かりの先で、男の短刀が振り下ろされるのが見えた。


 神様お願い!


 ミアが段差でつまずいた。

 体が前に倒れ込むが、右足を強く踏ん張って堪える。


 ファンはもう目の前。

 

 お願い、お願いよ!


 ミアは祈った。

 生まれて初めて、心の底から祈った。 


 神様!


 だが……。


 ドスッ!


 不快な音と共に、短刀が、ファンの心臓に突き刺さった。

 ファンの体がビクンと跳ねる。


「ファン!」


 男が短刀を引き抜くと同時に、ミアがファンに飛びついた。

 全身でかばうようにファンを抱き締める。


「お願い、もうやめて!」


 ファンの心臓から血が溢れ出していた。

 

 早く治療しないと、ファンが死んじゃう!


 ミアが、ヒールを掛けようと集中を始める。

 直後。


「がはっ!」


 わき腹に強烈な衝撃を受けて、ミアが呻き声を上げた。


「犬も飼い主も、まったくムカつく奴らだぜ!」


 真上から、怒りのこもった低い声がする。

 あまりの痛みで、その声がとても遠くに聞こえた。


「仕事の邪魔しやがって。てめぇも一緒にあの世に送ってやるよ!」


 ミアを見下ろしながら、男が再び短刀を振り上げた。

 その時。


「誰ですか、そこにいるのは!」


 突然、孤児院の方向から、たくさんの光とともに人がやってくるのが見えた。


「そこまでだ。引くぞ」

「ちっ!」


 別の男の声で、短刀の男が背を向ける。


「じゃあな、お嬢ちゃん」


 激痛に呻き続けるミアを一瞥して、男たちは暗闇に消えていった。


「ミア!」


 フローラがミアに駆け寄る。


「しっかりして!」


 苦しそうにわき腹を押さえ、それでもファンを放さないミアを、フローラが抱き起こそうとした。

 そのフローラを、ミアが手で押し返す。


「ミア?」


 驚くフローラの前で、ミアが、ファンの心臓に手を当てた。

 ミアが歯を食いしばる。

 ミアの魔力が高まっていく。


 ファンは、私が助ける!


「ヒール!」


 ミアの手のひらから魔力が迸った。


 お願い、死なないで!


 ミアは必死だった。

 わき腹の痛みは相当なものだ。呼吸をする度に痛みが走る。

 それでもミアは、全身全霊をもってヒールを掛け続けた。


「ミア」


 フローラの声がするが、ミアは無視する。


「ミア!」

「黙ってて! 集中できない!」


 怒りを込めて、ミアが叫ぶ。


「ミア、もうやめて! ファンはもう……」

「うるさい!」


 ミアが怒鳴った。

 その目は血走っている。


 ファンは助ける! 私が絶対助ける!


 ミアの瞳が揺らめく。同時に、ミアの魔力がとてつもない勢いで膨れ上がっていった。

 普通は目に見えることのない魔力が、光と化してミアを包み込む。

 あり得ないほどの膨大な魔力が、光の奔流となって溢れ出す。

 それは、まるで天使が光臨したかのような荘厳な光景だった。


「何という魔力……」


 シスターたちは、その光景に圧倒された。

 体に圧力を感じるほどの強大な魔力。

 昼間のように周囲を照らし出す、神聖な輝き。


「こんなことが……」


 誰もが目を見張り、ただ見つめることしかできないその中で、フローラが動いた。


「それ以上魔力を使ったら、あなたが死んじゃう!」


 後ろからミアに抱き付いて、必死に訴える。


「放して!」

「放さない!」

「お願い! 早くしないとファンが……」

「ファンはもう死んだわ!」


 ミアが、動きを止めた。


「……うそ」

「うそじゃない! ファンは死んだのよ! いくらヒールを掛けても、もう遅いのよ!」

「うそ……うそうそうそっ!」

「ミア! しっかり目を開いて見なさい! ファンは……ファンは、もう生きてはいないのよ」


 魔力の放出が、止まった。


「いやよ」


 呆然とミアがつぶやく。


「ファンが死んだなんて」

「ミア……」


 自分を抱き締めるフローラの手を、ミアがそっと外した。


「ファン、お願い、目を開けて」


 血まみれのファンの体を、ミアが揺する。


「頼むから、目を開いてよ」


 頭を撫でながら、ファンにささやく。


「ねえ、お願いだから、目を、開いて……」


 ミアが、ファンの体を抱き締めた。


「いや、逝かないで……」


 フローラが、堪らずミアを抱き締める。


「いやよ……いやぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 暗闇に、ミアの慟哭が響く。

 冷たくなっていくファンと、泣き叫ぶミアを、祈りの声が静かに包み込んでいった。

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