名前

 私を、エム商会に、入れてください!


 シンシアは、そう書いた紙を両手で掲げてしっかりとマークに見せた。

 シンシアを真っ直ぐに見つめながら、マークが問う。


「うちに入社したいんだね?」


 シンシアは、マークの目を見てはっきりと頷いた。

 すると、マークが思い掛けないことを言った。


「では、この場で面接をする」

「えぇっ!」


 周囲の人が驚きの声を上げる。


 まさか、ここで?


 シンシアも、驚いて固まった。


「さすが社長。相変わらず予想外だな」


 ヒューリが、苦笑しながらミナセに言った。

 ミナセも、この展開は想像していなかった。

 シンシアがこのまま旅立ってしまうのではないかと心配していたところに、団員たちの暖かい言葉でシンシアの決意が固まった。

 それだけでも意外だったのに、この場で面接とは。

 本当に何もかもが予想外だ。


「いい雰囲気だったんだからさぁ。あのまま”よし、採用!”って言ってくれてもよかったと思うんだけどなぁ」


 ヒューリの言葉には、ミナセも同感だ。

 だが、マークの行動にはいつも意味がある。きっと、この面接はシンシアにとって必要なものなんだ。

 そう思って、ミナセは成り行きを見守ることにした。


 マークがシンシアを見つめる。

 シンシアは、緊張した面もちでその視線を受け止めていた。


「俺が聞きたいのは、一つだけだ」


 マークが、重々しい声で告げた。


「君の名前を、君の口から聞かせてほしい」

「!」


 シンシアの目が大きく開いた。

 周囲にどよめきが起きる。


「社長、そんなの無理です! シンシアが可哀想です!」


 リリアがマークに訴える。

 しかし、マークはリリアを見向きもせずにシンシアを見つめ続けた。


 シンシアの目に動揺が走る。


 シンシアは、一年間声を出していない。

 声を出そうとすると、喉がつかえるような、塞がってしまうような、もどかしい状態になる。

 医者にも診てもらった。自分でも努力してみた。

 それでも、どうしても声を出すことができなかった。


 それなのに、ここで名前を言う?

 こんなにたくさん人がいる前で?


「どうした、言えないのか?」


 マークの冷たい声がした。

 容赦のない、一切の妥協を許さない声。

 シンシアの胸にマークの言葉が甦った。


 俺は、絶対に君を、リリアのところに連れて行く


 マークは、一度口にしたことを必ず実行する。

 絶対に実行する。


 シンシアは、覚悟を決めた。


 持っていた紙とペンをポケットにしまい、両手を自由にした。そして、両の手のひらをおなかに当てて、息を大きく吸い込む。

 おなかを膨らますイメージで息を吸って、おなかをへこますイメージでゆっくりと息を吐き出していく。

 両親がショーの前にやっていたのを真似して覚えた動作だ。


 こうすると、緊張が解けて体がほぐれるんだよ


 両親の声を思い出しながら、目を閉じ、ゆっくり呼吸を繰り返して気持ちを鎮めていく。


 落ち着けばできるはず。

 私だって喋れてたんだから。


 シンシアが、そっと目を開いた。

 姿勢を正し、マークをしっかりと見据える。


 そして、自分の名前を……。


「んっ! んっ!」


 やはり、声は出なかった。


 自然に喋ろうとするのに、喉に変な力が入ってしまう。喋ろうとする瞬間、喉が詰まってしまって息を吐き出すこともできない。

 シンシアは、もう一度大きく深呼吸をした。

 そして。


「んっ! んっ!」


 声は出ない。


 シンシアは、必死に声を出そうしている。

 顔が真っ赤になるほど力んでいる。


 シンシアは、何度何度も声を出すことに挑む。

 額に汗を浮かべ、両手を強く握り締めて、自分の名前を言おうとする。


 痛々しいほど懸命に。

 何度も何度も。


「社長! もうやめてください!」


 リリアが泣きながら叫んだ。


 もう見ていられなかった。

 あんなにつらそうに、あんなに無理をして。


 だが、マークは微動だにしない。

 シンシアの前に立ちはだかる大きな壁のように、まったく動かなかった。


 どうして?

 どうして私は喋れないの?


 両親からもらった名前。

 大好きな名前。


 シンシア


 たった四文字のこの名前さえ、私は声にすることができないの?


 シンシアの目から涙がこぼれる。


 せっかくみんなが私を送り出してくれたのに

 リリアと一緒にいられると思ったのに


 その目から、大粒の涙が溢れ出す。


 もうダメだ

 私なんて、やっぱり……


 シンシアの心に絶望が広がっていった。

 握っていた両手が開いていく。体から力が抜けていく。

 シンシアの瞳から、光が消えていった。


 その時。


「まったく、見てらんないな!」


 いきなり大きな声がした。

 ミナセが隣を見る。声の主は、ヒューリだった。


 ヒューリが、頭をポリポリと掻きながら、マークとシンシアに近付いていく。

 そして、マークを見ることなく、シンシアを見つめたまま言った。


「社長。ちょっとだけ、シンシアを手伝わせてもらいます」

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