シンシアの決断

「友達の出発だもん。ちゃんと見送らないとね!」


 そう言って笑うリリアを、シンシアは見ることができない。馬車に積もうとしていた鞄を両手で持ち、地面の一点をじっと睨み付けている。

 シンシアの心の中では、二人のシンシアが、この一週間と同じように会話をしていた。


「私は、リリアと一緒にいたい!」

「じゃあそうすれば。でも、あなたはこの一座以外の世界でやっていけるの?」

「それは……分からない」

「だったらやめておけば。一座にいれば、今と同じ生活が続けられるんだから」

「だけど私、リリアと離れたくない」

「だから、だったらこの町に残ればいいじゃない」

「そうなんだけど……。でも、やっぱり不安なんだもん」

「結局あなたは、勇気がないんでしょう? リリアへの気持ちなんて、所詮その程度なんでしょう?」

「そんなこと! ……ない」

「あなたがこの町に残れば、リリアは喜ぶかもしれない。でも、団長やシャールはどうなの? あんなにお世話になっておいて、あの二人を悲しませることになってもあなたは平気なの?」

「平気じゃ、ない」

「なら答えは簡単でしょ。あなたは今日、一座と一緒に出発する。そうすれば、今までと変わらない日々が待っているんだから」


 会話の結果はいつも、一座に残りたい側のシンシアが勝つ。

 一座を出たい側のシンシアは、いつも弱気で強い主張ができない。


 現状を維持する。


 これは、どうやら人間が持つ本能のようなものらしい。

 たとえ現状に不満があっても、新しい道が見えていても、今の状態から脱することを大きな力が遮ってしまう。

 変化とは、怖いものなのだ。


 シンシアは、答えを出せていない。

 現状維持を望むシンシアが、チャレンジしたいと思うシンシアを見事に押さえ込んでいた。


 出発の時は刻々と迫ってくる。

 それでもシンシアは動けなかった。


「シンシア。私、あなたと会えて本当に良かった。どこにいても、私たち友達だからね」


 リリアの声が鼓膜を打つ。


「またこの町に来ることがあったら、私、絶対会いに来るからね!」


 リリアの言葉が心をえぐる。


「私、シンシアのこと、大好き!」


 リリアは笑っている。

 笑っているのに、その目からは止めどなく涙が溢れていた。


 シンシアが、ギリッと音がするほど奥歯を噛み締める。

 シンシアの目からも涙がこぼれていた。


 私は! 私は!


 感情が揺れる。

 景色が揺らぐ。


 どうして! どうして私は!


 リリアと一緒にいたい。

 マークやミナセやヒューリとこの町で生きてみたい。


 そう思うのに。

 そう思っているのに。


 シンシアが、ぎゅっと目を閉じた。

 震える両手で鞄を握り締める。


 そのシンシアの耳に、リリアではない、別の女性の声が聞こえてきた。


「シンシア」


 声の主が語り掛ける。


「目を開けて」


 優しいけれど、不思議な力強さの宿るその声に、シンシアは目を開けた。


 シャール……


 きれいなエメラルドグリーンの瞳が自分を見つめている。


「シンシア。あなたは、リリアと一緒にいたいんでしょう?」


 シャールが穏やかに問い掛ける。


 リリアと一緒にいたい。

 その気持ちは、ほんと。


 シンシアは、素直に頷いた。


「それなら、あなたはこの町に残るべきよ」


 その言葉に、シンシアは驚いた。


「あなたの両親が死んでから、私はずっとあなたの面倒を見てきたわ」


 シャールが微笑む。


「わたしはあなたに、前みたいに笑って欲しかった。前みたいに、シャールって呼んで欲しかった。だけど、私はあなたにどう接していいのか分からなかった。どうすればあなたの笑顔が戻るのか、私には分からなかった」


 うつむき、じっと地面を見つめ、そしてシャールは顔を上げた。


「一年間、そうやって悩んできたけれど、それはあなたも同じよね。ずっと苦しんだままで、ずっと傷付いたままで」


 泣きそうな顔で、シャールがそっとシンシアの髪を撫でる。

 シンシアの目から、また涙がこぼれ出した。


「だけど」


 シンシアの涙を指で拭って、シャールが言った。


「あなたは、リリアと出会って変わった。リリアと一緒のあなたは笑っていた」


 シンシアの両肩に手を置いて、シャールが続ける。


「いい、シンシア。よく聞きなさい」


 その瞳が、シンシアを真正面から見据える。


「リリアや社長さんたちなら、あなたに新しい世界を見せてくれる。皆さんと一緒なら、あなたはきっと、幸せになれる」


 シャールがシンシアの両肩を掴んだ。


「あなたは、この一座に残ってはいけないのよ」


 痛いほど強く両肩を掴んだ。

 そして言った。力強い声で、シャールが言った。


「あなたは今日、ここから旅立つの!」


 私が、今日、ここから旅立つ?


 シンシアの心に、爽やかな風が吹いた気がした。


 そこに、団長が声を掛ける。


「シャールの言う通りだ。お前には、ここよりもっとふさわしい場所がある。お前のこれからの未来は、この町で、リリアさんたちと一緒に作っていくべきだ」


 団長が、シンシアの頭をポンと叩いた。


「さあ、行きなさい」


 シンシアの心が、フッと軽くなったような気がした。

 いつの間にか、団員たちも周りに集まってきている。


「まったくグズだね、あんたは」

「ほら、とっとと行きな! あたいたちが出発できないじゃないか」

「今度会った時には、ちょっとは話せるようになっておけよ!」


 シンシアが周りを見回す。

 団員たちが、シンシアを追い立てるように勝手なことを言っていた。


 まったく乱暴な人たちだ。

 私は、さっきまで一緒に旅立つつもりでいたのに。


 なんで……


 なんでみんな、そんなに優しいの……


 止まっていた涙が再び溢れ出す。


 シンシアが、シャールを見た。

 シャールは笑っていた。


 シンシアが、団長を見た。

 団長も笑っていた。


 心の中の片割れがシンシアに話し掛ける。


「ほんとにいいの?」

「うん」

「どうなっても知らないわよ?」

「うん、大丈夫!」

「あ、そう。じゃあ好きにすれば」

「うん。私は、もう迷わない!」


 シンシアの中のシンシアが、大きな声で叫んだ。

 声にならない声で、力強く宣言した。


「私は、この町に残る!」


 シンシアは、袖でゴシゴシと涙を拭いて、もう一度周りを見回す。

 ゆっくりと、一人一人の顔を見る。


 そして、大きく、深く、頭を下げた。


 シャールも団長も、団員たちも笑っていた。

 シンシアの心に走る小さな痛み。それをしっかりと抱き締めて、シンシアは前を向く。


 急な展開に驚いているリリアにニコッと笑い掛け、そのままリリアの横をすり抜けて、マークの前に立った。

 マークに一礼して、鞄を地面に置き、ポケットから紙とペンを取り出す。そして、鞄を机代わりに何かを書き始めた。

 やがて、それは書き上がる。

 柔らかい鞄の上で書いたせいでちょっと文字は歪んでいたが、紙にはこう書いてあった。


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