変化

 翌日。

 シャールは、物音で目を覚ました。


 シャッ、シャッ、シャッ


 何の音?


 時計を見ると、いつもの起床時刻より少し早い。隣で寝ている仲間を起こさないように、シャールはそっとテントを出た。


 シャッ、シャッ、シャッ


 音は、ショーの舞台となるメインテントの正面入り口側からしている。シャールは、音のする方に歩いていった。

 回り込むようにテントの縁を歩いて正面に来てみると、そこには、箒で入り口付近の掃除をしているシンシアの姿があった。


「シンシア! どうしたの、こんなに朝早くから」


 その声に、シンシアが振り向く。

 声の主がシャールだと分かると、はにかむように目を伏せた後、ポケットから折り畳まれた数枚の紙を取り出した。

 その中の一枚を広げてシャールに見せる。


 おはよう


 紙には、そう書いてあった。


 シャールが目を丸くしている。

 そんなシャールの前で、シンシアが次の紙を広げる。

 ちょっと躊躇った後、その紙を両手で掲げて、シンシアが頭を下げた。


 今まで いろいろ ごめんなさい!


 シャールの目がさらに丸くなる。


「えーと、まあその、何だろうね」


 シャールはうまく返事ができない。口を開いたり閉じたり、髪をむやみにいじったりを繰り返している。

 やがて、突然ぷいっと反対側を向いて歩き出してしまった。歩きながら、片手を軽く上げて、大きな声で言う。


「気にすることはないよ。何かあったら、また私に言いな」


 シンシアの視線を感じながら、シャールは自分のテントに向かって歩く。

 早朝の空は、澄み渡るような青。


「まったく、情けないね」


 その空を見上げながら、シャールはつぶいた。


「何で私、泣いてんのよ」


 シャールの目には、涙。

 でもその顔は、たしかに笑っていた。



 シャールに逃げられてしまったシンシアは、気を取り直して掃除を済ませると、団長に挨拶に行った。

 ちょうどテントから出てきた団長を捕まえて、紙を見せる。


 おはようございます


「お、おはよう」


 団長の目も丸い。

 次の紙を見せる。


 いつも気に掛けていただいて ありがとうございます


「お、おう」


 かろうじて返事をする団長に、最後の紙を見せた。


 裏方の仕事 がんばります!


「そ、そうか。がんばれよ」


 硬いながらも、団長はどうにか笑って答えることができた。

 シンシアは、小さく息を吐くと、ペコリと頭を下げて走り去っていく。

 それを見送った団長が、持っていたタオルをバサッと肩に掛けて、空を見上げた。


「まったく」


 上を向いたまま、眩しそうに目を細めてつぶやく。


「マークさん。あなたはいったい、どんな魔法を使ったと言うのですか?」


 気持ちが良かった。

 空も風も、何もかも。


「さて、今日も一日がんばりますか!」



 その日から、シンシアは紙とペンを必ず持ち歩くようになった。

 おはようとか、ありがとうなどの定番挨拶の紙も常備している。


「ちょっとシャール! シンシア、いったいどうしちゃったんだい?」

「さあね。本人に聞いてみれば」


 団員たちの追求を、シャールが素っ気なくかわす。

 その態度とは裏腹に、やはりシャールもシンシアの変化には驚いていた。


 あの日、リリアの会社の社長だという男に手を引かれて、シンシアはどこかへと連れて行かれた。

 それを団長に報告すると、あっさりとした答えが返ってきた。


「ああ、聞いている。マークさんが、シンシアをパーティーに招待してくれるそうだ」


 招待っていうより、拉致っていう感じだったけど?


 シャールは落ち着かないまま帰りを待っていたが、シンシアは、会社の人たちに送られてちゃんと帰ってきた。

 そして、次の日からシンシアは変わった。


 仕事も、人との会話も積極的にするようになった。表情も格段に柔らかくなって、時折微笑と言ってもいい表情すら見せている。

 相変わらず喋ることはできないけれど、団員たちに陰口を叩かれることはもうなくなっていた。


 シンシアのことは、小さい頃から妹のように可愛がり、ずっと面倒を見てきている。この変化が続いていけば、以前のように嬉しそうに笑い、楽しそうに話をするようになってくれるかもしれない。


 でも。

 たとえそうなったとしても。


 それは、私の力じゃない


 リリア、社長、リリアの会社のみんなには感謝している。

 だけど、シンシアの中で、自分の存在が小さくなってゆく気がする。


「私って、ほんと情けない」


 鏡の中の自分を見つめながら、シャールが大きなため息をついた。

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