やっとあなたに

「ここがうちの会社だ」


 そう言って、マークが扉を開けた。


 正面にある大きな窓と高い天井のおかげか、部屋の中は明るい。

 中央には小さな応接セット。その奥には事務机が一つ。机の上の花瓶に、花はない。

 清潔感はあるが、全体的に質素な印象だ。


「ここが……」


 リリアがポツリと言った。

 少し寂しい感じがする、とリリアは思う。


 もうちょっと何か……


「奥に台所と食堂、寝室がある。トイレもついてるから、暮らすには問題ないと思うよ」


 マークに言われて、リリアは我に返った。


「あ、はい、十分だと思います。それより、本当にいいんでしょうか? 住むところまで用意していただいちゃって」


 申し訳なさそうなリリアに、マークが言う。


「大丈夫だよ。どうせ奥の部屋はほとんど使っていなかったんだし。事務所と兼ねてるから、リリアが落ち着かないかもしれないけど」

「そんなことぜんぜん問題ないです! それよりも」


 答えたその声が、急に小さくなった。


「私、何にもしてないのに、借金のこととか住むところとか。仕事までいただけるなんて……」


 リリアが、今一番気にしていることなのだ。

 自分は何もしていない。マークやミナセには世話になるばかりで、リリアからは何もあげられていない。

 それなのに。


「どうしてお二人は、こんなにも私に……」


 疑問を持つというよりも、心配になってしまう。

 ありがたいと思う以上に、何だか怖くなってしまう。


 リリアが床を見つめる。二人の顔をまともに見ることができなくなって、リリアはうつむいてしまった。


 そのリリアの肩に、ミナセがそっと手を置いた。

 リリアが顔を上げる。穏やかに微笑むミナセを見る。

 リリアに向かって、優しい声で、ミナセが言った。


「それはね、リリアが、ご両親の言葉をちゃんと守ってきたからだよ」

「両親の、言葉?」


 思ってもみなかったことを言われて、リリアが首を傾げた。


 お父さんと、お母さんの?


「リリアは、社長や私のことを好きだって言ってくれただろう? その気持ちはね、私たちにちゃんと伝わっていた。だから、私たちもリリアのことが好きになったんだ」


 みんなのことを好きになりなさい。そうすれば、みんなもお前のことを好きになってくれるから


 お父さんは、そう言った。


「それに、リリアはいつでも笑っていただろう? リリアの笑顔は、たくさんの人を元気にした。私も社長も、リリアからたくさんの元気をもらったんだ。だからね、私たちは、何かお返しがしたいって思ってた。リリアが幸せになる手伝いがしたいって、そう思っていたんだよ」


 どんな時も笑顔でいなさい。そうすれば、必ず幸せがやってくるから


 お母さんは、そう言っていた。


「お父さん、お母さん……」


 小さく小さくつぶやいて、リリアはまたうつむいた。

 茶色の瞳が小さく揺れる。少しずつ風景が滲んでいく。


「それだけじゃない。リリアは、俺たちに助けてくれと言ったんだ。自由になりたいって言ったんだ」


 茶色の瞳がマークを見上げる。

 揺れる視界のその中に、とても優しい瞳があった。


「リリアが、何も言わずにただ我慢しているだけだったら、俺たちは何もしなかった。でも、リリアは言った。心から、俺たちに向かって言ったんだ」


 ミナセと反対側の肩を、マークの大きな手が掴む。


「大好きなリリアに助けてって言われたら、俺たちが黙っていられるはずないだろう?」


 マークが笑っている。ミナセも笑っている。

 リリアの胸に甦る、二人とは違う、二つの笑顔。


 好きになった人には、ちゃんと好きになってもらえた。

 いつも笑っていたから、ちゃんと幸せはやってきた。


 お父さんとお母さんは、やっぱり正しかったんだ。


「私……」


 リリアの目から涙が溢れ出す。

 ポロポロ、ポロポロと涙がこぼれていく。


 二人がそれを見つめていた。

 優しくリリアを見つめていた。


「ところで、リリアに一つお願いがあるんだけど」


 ふいにマークが言った。そして、マークがミナセを見る。マークに頷き、にこっと笑って、ミナセはポケットから何かを取り出した。

 それを、ミナセがリリアの首にそっと掛ける。


「お店の主人から買っていった人を教えて貰ってね、その人に会いに行ったんだ。それでね、事情を話したら、快く譲ってくれたんだよ」


 説明しながら、ミナセがそれの向きを直している。

 驚きで、リリアの涙が止まった。大きく目を見開いて自分の胸元を見つめる。

 そのリリアに、マークが言う。


「金額は、ちょうど四万リューズ。それを、リリアに買って欲しいんだけど」


 とぼけた声で、リリアに言った。

 リリアがマークを見る。目の前のミナセを見る。そして、もう一度胸に輝く小さなそれを見つめた。


 細目のゴールドチェーンの先にある、小振りのイエローサファイア。明るく、華やいだ雰囲気を持つそれは、リリアにとても似合っている。


 その石が、ささやいた。


 やっとあなたにあげることができたわ


 リリアの視界が歪んでいく。


「どうして……」


 せっかく手に入れることができたのに。

 もっとちゃんと見ていたいのに。


 何だか、もうなんにも見えない。


「うっ、うっ」


 リリアの肩が震え出す。


「お父さん……」


 リリアの声が震え出す。


「お母さん……」


 リリアが両親に呼び掛ける。


「うっ……、おとうさーん」


 リリアは泣いた。


「おかあさーん」


 声を上げて泣いた。


「うわあああん、うわあああん――」


 優しい瞳に見守られながら、リリアは泣き続けた。いつまでもいつまでも、まるで小さな子供のように、大きな声で。



 エム商会二人目の社員、栗色の髪のリリア。

 暖かい光に包まれて、入社。



 第二章 了

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