絶望

 気が付くと、リリアは裏口近くの床に倒れていた。全身が痛むが、なぜか苦痛は感じない。

 頭の芯が、心が麻痺しているようだった。


「私のお金」


 リリアがゆっくりと立ち上がる。


「お金、取られちゃった」


 涙は出ない。

 怒りも感じない。

 何かが抜け落ちたような、ごっそりと抜き取られたような空虚な感覚。


「そうだ、ペンダント」


 リリアは、裏口を開けて外に出て行った。

 ゆらゆらと歩くリリアは、店のすぐ近くにあるあの宝飾店へと向かう。


「せめて、ペンダントを見て」


 暖かい気持ちを思い出したい


 リリアにとっての希望。

 現実世界の中で、唯一の拠り所。


 店の前までやってきたリリアは、すがるようにショーウィンドウの内側を見つめた。


 だが。


「……ない」


 リリアが、不思議な光景を目にしたようにつぶやく。

 しばらくの間まったく動かなかったリリアが、弾かれたように声を上げた。


「ない! ペンダントがない!」


 凄い勢いで店の扉を開けて、リリアが中に飛び込む。


「おじさん、ペンダント! ペンダントは!?」


 顔が腫れ上がり、全身ボロボロになった少女に店主は唖然としている。

 しかし、それがリリアだと分かると、店主は後ろを向き、天井を見上げて、小さな声で言った。


「ああ、あのペンダントね。……さっき、売れちゃったよ」


 リリアは、その場にぺたんと座り込んでしまった。


「ペンダントが、売れちゃった?」


 呆然とするリリアに、店主が続ける。


「お得意さんがね、どうしてもってね。その、いちおう、売り物だからね」


 店主にも分かっていた。

 四年もの間、ほとんど毎日やってくる少女。

 尾長鶏亭の看板娘、リリア。


 事情は分からなかったが、あのペンダントを見つめるリリアは、嬉しそうで、幸せそうで、とても印象的だった。

 今までも何度か売れそうになったことはあったが、店主は客をはぐらかし、何とか売らないようにしてきた。

 ショーウィンドウから外さなかったのは、リリアがいつでも見に来られるように。

 幸せそうなリリアの顔を、店の中から見られるように。


 でも、ついに売れてしまった。

 お得意さんの強い希望。


 店主にだって、どうしようもなかったのだ。


「ごめんな」


 店主は、座り込んだまま動かないリリアにそれしか言うことができなかった。



 急に降り出した雨に、通りを行く人たちが慌てて走っていく。

 そんな中、傘を差してのんびり歩いている男女があった。


「ね、降ってきたでしょ」


 得意げにマークが言う。


「ほんとですね。朝はあんなに晴れてたのに」


 ミナセが、ちょっと悔しそうに答えた。

 新規顧客との打ち合わせの帰り道。ミナセは、出掛ける前にマークと交わした会話を思い出す。


「こんなに晴れているのに、傘なんて」

「まあまあ。今日はたぶん、降ると思いますから」


 そう言われて無理矢理持たされた傘が、見事に役に立っている。


 ほんとに、何で分かったんだろう?


 相変わらず不思議な人だ。

 首を傾げながら、ミナセがマークをちらっと見る。

 そのマークが、突然に立ち止まった。その目が前方をじっと見つめている。

 マークの視線を辿ったミナセが、大きな声を上げた。


「リリア!」


 そこには、傘もささず、ずぶ濡れのままゆらゆらと歩いているリリアがいた。


「リリア!」


 もう一度叫んで、ミナセはリリアに駆け寄った。


「どうしたんだ? こんな雨の中」


 傘で雨を遮りながら、ミナセはリリアを見た。

 その顔が凍り付く。


「何が、あった?」


 低く、押し殺したような声でミナセが聞いた。


 リリアは、何も答えない。

 リリアは、何も見てさえいなかった。


「リリア! 何があった!」


 ミナセがリリアの肩を強く揺さぶる。

 激しく揺さぶられて、リリアの目が、ようやく目の前の人物を見た。


「ああ、ミナセさん」


 無感情な声が返ってくる。


「どうしたんだ!?」


 何度目かの問い掛けに、やっとリリアがまともに答えた。


「ペンダントが、売れちゃったんです」


 その言葉に、ミナセは息を呑む。


「あのペンダントか?」

「はい。あのペンダントです」


 ミナセは何も返せない。


「あれ、お母さんのだったんです」


 ミナセが目を見開いたまま黙っていると、リリアが静かに話し出した。


「あのペンダント、お母さんがすごく大事にしていたものなんです。よくお母さんが、”これは大切な宝物なのよ”って言っていました」


 淡々と、話は続く。


「とっても綺麗でキラキラしてて、私、どうしても身に付けてみたくなって、お母さんに黙ってタンスから取り出して、首に下げてみたことがあったんです。そしたら、それがお母さんに見付かっちゃって。すごく怒られちゃいました」


 昔を懐かしむように、その目が遠くを見つめる。


「でも、その後お母さんが言ってくれたんです。”あなたが大きくなって、誰かと結婚することになったら、これをあげるからね”って。私嬉しくて、お母さんに抱き付きながら、”じゃあ私、今すぐ結婚する!”なんて馬鹿なこと言って、お母さんに笑われたのを覚えています」


 ほんと馬鹿ですよね


 そう言った後、リリアはしばらく黙り込んだ。

 そして。


「あれは、お母さんの大切な宝物だったんです。でも、もう無くなっちゃいました」


 リリアは泣いていない。

 しかし、ミナセは泣きそうだった。


 唇を噛み締め、溢れ出しそうな感情をどうにか押さえ込みながら、ミナセはリリアの手を取って言った。


「買った客は分かるのか? 店主に聞いて、その客のところに行こう。事情を話せばきっと……」

「ダメですよ。そんなことしたって」


 リリアが、諦めたように首を振る。

 だが、ミナセは諦めない。


「ダメじゃない! お金、あるんだろ? 足りない分は私が出すから、だから……」

「お金は、もう無いんです」

「お金が、ない?」


 ミナセは、リリアの言葉が理解できない。


「お金は、もう無いんです」


 繰り返される言葉に思考が停止する。


「どうして?」

「さっき、伯母さんに取られちゃいました。借金の返済に充てるからって」


 リリアの答えに、ミナセの感情が急に動き出した。


「そんな! だってそのお金は……」

「私、まだ借金返せてないから、仕方ないんですよ。ちゃんと貯まったんですけどね、四万リューズ」


 毎日毎日、少しずつ少しずつ、四年以上掛けて……。


「でも、もう無いんです。お金も、ペンダントも」


 ミナセは、胸がつぶれそうだった。


 リリアは、どんなに大変な時でも、いつも笑顔を振りまいていた。

 どんなにつらくても、いつも元気に振る舞っていた。

 どんなにひどい目に合わされても、どんなに虐げられても、誰も恨まず、逃げたりもせず、大好きなお父さんとお母さんのためにずっと頑張っていた。


 それなのに。

 なぜ。

 どうして。


「ミナセさん、私、どうしたらいいんでしょうね?」


 小さな声で、リリアがつぶやく。


「私、どうしたら……」


 それまで何の感情も見せなかったリリアの目から、一粒涙がこぼれ落ちた。


 リリアがうつむく。

 その唇が、何かを訴える。


「……すけて……」


 かすれた声が聞こえてきた。


「……助けて……誰か……」


 リリアの声が聞こえてきた。


「お願い……誰か……助けて……」


 リリアの心が、リリアの叫びが聞こえてきた。


「リリア!」


 傘を投げ捨てて、ミナセはリリアを抱き締める。

 どうしていいか分からずに、ただただ強く抱き締める。


 抱き締められながら、ぽろぽろと涙をこぼしながら、リリアが訴える。


「お願い……誰か……」

「リリア!」

「お願い……助けて……」



 雨は降る。

 二人の心にしみこむように、いつまでも、いつまでも降り続いていた。

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