第81話 勇羅side



夕妬の絶叫と同時に、勢い良く突き出されたナイフが勇羅の頬を掠め、ふっくらとした血色の良い肌から一筋の赤い線が走り、刃物が頬を横切った線からは、真っ赤な液体が曲線を描くように勇羅の頬を滴りおちる。物凄い勢いで襲い掛かって来た夕妬の怒気迫る表情と、自身の頬の傷を交互に見るなり勇羅の顔がサーッと青ざめていく。


「っ…。ななな何すんだよ! あっぶねぇなぁっ!!」


ナイフで傷付いた頬を押さえながら、踞る夕妬に向かって吼える勇羅だが、その心中では全く動揺を隠せてない。


「…最初は……っ。最初は、君達から……っ。次に……次に…あの女を……っ!!」

「ちょ…こいつ! マジ目がヤバい!?」


ブツブツとつぶやき続ける夕妬の様子が、完全におかしい事に気付いたのだろう。勇羅の言葉などまるで聞く耳持たず、夕妬は勇羅目掛けて再びナイフを突き刺そうと、一直線へ突撃する。


「うひゃああっ?!」

「篠崎、勇羅…。お前だけは……お前だけは絶対に許さないよ。お前みたいな、何も知らない頭の悪い子どもに僕が…この遥かなる高みを、目指す僕が同情されて…良い訳ないんだ。お前だけは…絶対に…っ!!」

「なんだよそれ!? 全然訳がわからない! 大体子どもって、背丈変わんないお前にだけは言われたくな…わぁっ!」


勇羅は情けない叫び声を上げながら、再び勇羅目掛けて一直線に襲いかかる、夕妬の不安定な刃物の斬撃を連続で避け続ける。勇羅が目の前の夕妬をどうしようか考える暇もなく、夕妬はナイフによる突きを何度も繰り出してくるので、勇羅は攻撃を避けるのが精一杯だ。


「宇都宮夕妬…。お前が東皇寺学園を、家の権力で牛耳ってた時から、薄々こうなるのは感じてたけどさ…。まさか友江継美一人を赤の他人に奪われただけで、ここまで堕ちるとは正直思わなかった。だけど、これ以上騒ぎにならない内に、少し大人しくしてもらおうか」


夕妬の突然の変貌の理由に、響も大方何かを悟ったらしい。響は壁に立て掛けてあった、木の棒を素早い動作で手に取ると、継美を謎の女に奪われ自棄になり、暴走する夕妬を止めるべく、響は夕妬に襲いかかる。



「邪魔」



が。刃物相手ではやはり部が悪かったのか、夕妬は響の突きを危なげな足取りで避けながら、持っているナイフで力任せに凪ぎ払う。響自身は躊躇いなく棒を盾にし、辛くもナイフからの攻撃を防御したが、勇羅の肩くらいの長さ程あった木の棒は、ナイフの斬撃により一瞬の内に半分の長さになってしまった。


「なっ…!?」


ナイフでいとも簡単に真っ二つに切られた棒を、唖然と見つめる響に目もくれず、夕妬はあくまでも狙いを勇羅に絞っている。夕妬の勇羅への視線は、誰にも理解出来ない憎悪に満ちている。


「宇都宮の奴、完全に勇羅ちゃんに狙い定めてるよ!」

「ユキ! 響と一緒に車へ戻ってすぐに応援呼べ!」

「お兄さまは!?」

「俺は宇都宮を止める! 泪はこの部屋のサーバーからシステムにアクセスして、マンションのセキュリティシステムを全部解除しろ。声の主の女が宇都宮一族ならば、この場の俺達全員始末する気だ!!」

「わかりました」


現在勇羅は夕妬と交戦中。セキュリティシステムに罠が仕込まれた以上、恐らくエレベーターは使えない。外の非常階段から降り、力づくでマンションを脱出するしかない。今の状況ではこの場を全員で脱出する事は不可能であり、更にはあまり時間の猶予がないと判断した和真は、的確に指示を出す。指示を受けた雪彦と響は、即座にリビングから駆け出し、非常階段の方向へ向かって行った。


「泪! システムの解除はどうなってる?」

「…やられました。先程セキュリティサーバー内に打ち込まれたのは、時限式のコンピューターウィルスです! 時間内に解除出来なければ、このマンションのシステムサーバー全体に、ウィルスがばら蒔かれるように作動する仕組みです。更にこのまま放置すると、マンション全体のセキュリティシステムにウィルスが拡がって、マンションから完全に脱出出来なくなります!」


「くそっ、宇都宮の連中なめやがって!! 最初から俺達の事始末する気満々じゃねえか!!」


和真の側では既に泪が、近くに設置してあったサーバーへとケーブルを接続し、猛烈な勢いでノートパソコンのキーボードを叩いている。打ち込まれたウィルスは相当強力なものらしく、この手のハッキング作業に馴れている泪も苦戦している。泪一人ではシステム全体の対処をしきれないと判断したのか、和真もすぐにサーバーへ向かい、片手で自分の持ってきた端末の操作を始めながら、もう片方の手で携帯を操作する。


「ユキ! マンションの警備員に、警察と機動隊の他、俺の父さんとお前の母さんにも連絡取れ! 下手すればこのマンション全体の機能停止するぞ!!」

『了解ー!!』


片方の手でサーバーを操作しながら、もう片方の手で携帯で雪彦に連絡をとる。移動中ながら携帯越しで和真の状況を察した雪彦は、携帯から通話している隣で一緒に走っている響に指示を出す。


「勇羅!! 俺達がセキュリティを解除するまで、宇都宮をこのフロアから出来るだけ遠くへ引き離せ!」

「えっ!? は、はっ、はいぃぃ!」


夕妬の攻撃を避けながら動いてる為に、舌を噛みそうになるものの、勇羅は夕妬の攻撃から逃げながら和真へ返事を返した。



「逃がさないよ……。絶対に…絶対……絶対…!!」

「お前…っ!」



―高層マンション・十一階廊下。



勇羅と夕妬の攻防は数分に渡り続いていた。夕妬の攻撃を避けたりしながら逃げる内、二人はいつの間にか部屋を飛び出し、マンションフロアの外へ出てしまっていた。窓の外を少し見やると勇羅達が入って来た入り口から、雪彦と響の姿が見える。どうやら二人はセキュリティを掻い潜り、無事にマンションから脱け出し、応援を呼びに和真の車へと向かっている。


泪と和真はマンションのセキュリティシステム全体に撒かれた、コンピューターウィルスの対処をする為、必死にサーバーの操作と、セキュリティの解除を試みるべく奮闘している。今心身が錯乱状態にある夕妬の相手を出来るのは、自由に動ける勇羅しかいない。今居るこの十一階は、全て宇都宮の自宅だと聞いている。誰の目から見ても完全にまともでない状態の夕妬を、和真達の居る場所から出来るだけ遠くへ引き離す必要があった。ならこのフロアに居る必要はないと直感した勇羅は、いち早く階段へ足を進め、勇羅に反応するように夕妬もまた、刃物を手にしたまま勇羅追いかけて来る。



―午後十時・高層マンション屋上。



「はぁっ…はぁ……はぁ……っ」


攻防と逃走の末、既に二人はマンションの屋上にまで来ていた。裕福な層が住む高層マンションだけあって、建物の高さ自体は相当ある。勇羅自身小柄ではあるものの、普段から動き回っているだけあり体力に自信はある。しかし階段のみで最上階まで来ただけあって、やはり息が切れ気味だった。更に此所まで来てまで、ほとんど息を切らしていない夕妬の体力が余りにも異常過ぎる。


「っ…何故…何故……僕ばっかり……僕は…僕は何も……」


夕妬の声には掠れのようなものがある。やはり彼も自らの足で、十階以上もマンションの階段を上がったおかげで息を切らしているようだ。



「はぁっ…。い、いくら友江継美って人が好きだからって、自分達とは関係のない人を、巻き込んで良いわけないよ。あんたの家庭環境なんて、他人の俺にはちっともわからないし、あんたが今置かれてる立場にも理解出来ないし、ましてや知りたくもない」


「継美を……継美を名前で呼んでいいのは僕だけだっ!!! 継美を初めて見た時から思ってた…継美は他の奴らと違っていた…。継美の存在は誰の目にも映らない。継美は誰からも本当の自分を見てくれない。誰にも誰からにも、関心を持たれない継美だけが……継美だけが僕を愛してくれると思っていた。それを……それを君達が…あの女が全て台無しにっ…!!」

「…あんたのやってる事は、ただの子どもの八つ当たりだよ。今までお前がやった事のせいで、お前と関係ない周りの人達が沢山傷付いた」



ブツブツと独り言のように語る夕妬に、負けじと勇羅も言い返す。宇都宮と言う何でも手に入り、何でも出来る家柄に生まれながら、望まれない形で生まれ劣悪な家庭環境故に、心を歪ませてしまった夕妬。孤独だった夕妬とは逆に、勇羅には自分を心配してくれる家族も友達もいる。時折無茶ぶりをする自分を叱ってくれる人もいる。だからこそ夕妬のやっている事そのものが、全く持って理解出来ないのだ。


「でも、いつまでも継美は手に入らない…継美は僕の事を見てくれない…ねぇ? どうして? どうして継美は僕を見てくれないの? 僕は継美の事を愛している…初めて会った時から継美の事が大好きで仕方なくて仕方なかった。継美は一人だった。継美の気持ちを分かってあげられるのは、継美の両親でも芙海でもあの女でもない。世界で継美を分かってあげられるのは僕しかいない…。なのに継美は僕を見てくれない…僕を見ようともしない…僕は継美を傷付けてばかりで継美は……っ。でも僕は、そんな狂った継美が今も大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで……」


「う……宇都宮」


夕妬の口から放たれる呟きは、先ほどから目の前にいる勇羅との会話が全く噛み合わない。見れば夕妬はどこか遠くを見ているようで、目の焦点もまるで合っていない。今の彼には誰の声も届いていないのか。


「継美が僕を見てくれないのなら……いっそ…っ!!」


呟いたと同時に夕妬は再び勇羅に襲いかかる。今度は冷静にナイフを避ける。


「こ、このっ!」


目の前の相手は完全に正気を失っている。何らかのショックが原因で、夕妬の身体的リミッターが外れているのか、向こうを息切れさせるのも勇羅の体力上まず無理だろう。一番確実なのは持っているナイフを敢えて壁に突き刺させ、壁からナイフを抜き出そうとする内に、夕妬を気絶させなければいけない。勇羅はどうやって夕妬を止めようかと、頭の中で思案しながら、狂ったように繰り出し続ける夕妬のナイフによる突きを避けた直後―。



―ズキン。



「……っつ!」



突然。

勇羅の脳神経全体を、電気を通した感じの激しい頭痛が起こった。


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