38.霧の谷にて、彼女たちは(2)
――霧の谷。
オールデンの西にある、文字通り年中霧に覆われたエリアである。オールデンに湧く温泉の源泉が通っている場所でもある。
霧は、地下に眠る膨大な魔力が噴き出たものと言われている。
そのためか、霧の谷には周辺にはない希少な動植物が無数に生息していて、魔法料冶の素材探しにはうってつけであった。
カミーノに案内され、霧の谷を訪れたのはエナ、イスナ、アトロの三人。サラァサは自身の魔力回復とコウタの世話のため、オールデンで留守番だ。
出発前、エナたちが「魔力回復しながら、どんな特殊専用品を作りたいか考えてて」と言うと、コウタは神妙にうなずいていた。そして仲間の少女たちに向かって、いつもよりも気難しい顔で「気をつけて」と言った。
「なにもあんな顔しなくていいのに。そんなに私たちだけで行くのが不安なのかしら」
「まあ、そう言うなアルキオン君。私たちにとって未知の場所なのは変わりないのだから」
コウタの表情を思い出して不満げなエナを、アトロが
イスナが師匠に尋ねた。
「でも、本当に危険はないのですか?」
「そりゃあ、あるよ。何たって魔力が滞留している場所だ。奥地にはとんでもない化け物たちがうようよしているって話さ」
こともなげにカミーノが言うので、イスナは青くなった。
辺りがけぶってきた。霧の谷に近づいたのだ。
「こっちだよ」
カミーノが先導した先には、木造の小屋が一軒あった。鍵はかけられておらず、カミーノは躊躇することなく中に入る。
小屋の壁際に、特徴的な形状をしたランタンがずらりと並べられていた。
「ここは霧の谷の管理所さ。探索しようとする者は、必ずここを訪れる決まりなんだ。誰が、いつ入ったかを記録していくとともに、霧の谷探索に不可欠なものを借りられる」
「あのランタンのことですか?」
「そうさ。方位磁石とセットになっていてね。迷わないように工夫がしてあるんだ。役人がここで待機することもあるが、まあ、今日は無人みたいだね」
隅に設けられた机で記録簿に記した後、ランタンをひとつ手に取るカミーノ。
「私たちのように霧の谷に通い慣れている者でも、探索するのは霧の外縁、ごく一部のエリアだけ。お前たちが腕が立つのは知っているけど、今日の所は私の指示に従っておくれ。慣れないと、素材を見つけるどころか簡単に迷ってしまうからね」
――カミーノの案内のもと、霧の谷に入って十分ほど。
エリア内は、まるで白い綿毛を身に
秘境と呼ぶに相応しい光景に目を輝かせるエナたちとは対照的に、カミーノは少し前から「うーん」としきりに
「どうされたのですか」
「いやね。このあたりに薬草の群生地があったはずなんだけど、見当たらないんだよ」
ほらあそこ、とカミーノが指差した先には、ぼんやりと水色の光を放つランタンが樹にくくりつけられていた。
「あれが目印なんだけど。うーん、おかしいねえ」
「誰かが先に採取してしまったのでは?」
「あんまり考えにくいんだよ。オールデンの人間は、霧の谷の怖さをよく知ってる。下手に乱獲して、自分たちの採取エリアを枯らしてしまったら、今度は危険な奥地に向かわなければならなくなる。自分の首を絞めるようなもんだ」
「じゃあ、私たちみたいな
「どうだろうねえ」
カミーノはしきりに首をひねっていた。
話し合いの結果、もう少しだけ奥に行ってみようということになった。
そのとき。
「ん?」
「どうしたんですか。アトロ先生」
「いや……さっき、私たちの後ろを黒い影が通ったような。今も微妙に気配を感じるんだ」
「まさか、魔物!?」
アトロは少し考え、首を横に振った。
「いや。魔物の気配とは少し違った。殺気――というより、監視されている感じだ。まあ、こちらを襲うつもりはないようだから、もう少し様子を見よう」
エナとイスナは目を凝らすが、同じような景色が見えるだけで異変はわからなかった。
しばらくすると、黒い影の気配は消えた。
――奥地へ、さらに十五分ほど足を運ぶ。
「……確かに珍しいものばかりだけど、特殊専用品に使えそうな素材となると、難しいわねえ……」
顎先を拭ってエナがつぶやいた。
先頭を行くカミーノが、担当官アトロを振り返る。二人の年長者はうなずきあった。
「みんな。そろそろ戻ろう」
「私もカミーノさんに賛成だ」
声を揃える。これ以上の探索は危険が伴うと感じたのだろう。
残念だけど仕方ない――と踵を返したイスナは、ふと、親友が足を止めてじっとしていることに気付いた。
「エナ? どうしたの」
「静かに。何か聞こえる」
ただならぬ雰囲気に、イスナだけでなくアトロたちも立ち止まり、辺りを見回す。谷特有の白霧に遮られ、遠くまで見通すことはできない。鳥の声もなく、互いの息づかいが小さく聞こえるだけで、静かであった。
だが、突然――。
エナを皮切りに、全員がその場に身をかがめた。
先ほどまで静寂に包まれていた森に、突如としてざわめきが湧いたのだ。人の歓声――いや
アトロは
『心当たりは』
『霧の谷では すぐちかくにあるものの 姿や音がかき消されることがある だけどここまでは 珍しい』
「あ……霧が、少し薄くなって……!」
無意識に、といった様子でイスナがつぶやく。アトロは身をかがめながら近づき、イスナの手を引いた。撤収だ、と口の動きだけで伝える。
直後、彼女らは目にした。
ここから少し離れた樹々の間、二メートルほど窪んだ大地に、巨大な白銀の狼が牙を剥いて立っていた。その、遠目から見ても神々しい姿は、まるで聖獣を思わせた。
大狼の背後には、ずいぶんと小さな――それでも大型犬ほどの
子狼の後ろは澄んだ池となっている。だが深さが見えない。聖獣たちは背水の地に立たされているのだ。
親聖獣の周りを、十数人が取り囲んでいる。全員が黒尽くめの鎧やマントを身につけていた。蛮声は、彼らが聖獣を追い立てる声だったのだ。
反射的に聖剣の柄を握ったエナは、ふと、黒尽くめの男のひとりの顔に気付いて絶句した。
苦々しい記憶とともに思い出される顔の持ち主は――。
「まさか……ディス、先生……!」
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