眠り姫はそこにいる

里内和也

眠り姫はそこにいる

 三か月ほど前からき家になっていた隣家に、新しい住人が引っ越してきた。以前住んでいたのは私と同年代の若い夫婦だったが、彼らとは対照的な初老の夫婦だ。もっとも、年齢を感じさせないぐらい二人とも元気で溌溂はつらつとしている。

 元々は大家族で、古くて広い家に住んでいたけれど、子供が就職や結婚を機に出て行ってしまうと、二人だけで住むには不便な点のほうが多くなった。今の自分たちに合う家を探していたら、ここを見つけた――引っ越しのあいさつに来た二人は、そう教えてくれた。

 どんな人が隣人になるのかと少々不安だったが、会ってみれば実に気さくな人たちで、私と夫は安心した。年齢は向こうのほうがずっと上でも、この地域については私たちのほうが慣れているので、「何かわからないことや困ったことがあったら、遠慮なく言ってください」と伝えておいた。

 隣に人が住むようになると、暮らしの中に音が増えるということに気づくのに、時間はかからなかった。我が家とは簡単な垣根を隔てているだけなので、様々な生活音がおのずと漏れ聞こえてくるのだ。最初の内はそのたびに、「そうか、もう空き家じゃないんだ」と反応してしまっていたけれど、すぐに慣れて日常の一部に過ぎなくなった。音と言っても、うるさくは感じない程度のボリュームで時折聞こえるだけだ。誰もいなくてしんとしていた三か月の間よりもむしろ、今のほうが私はほっとする。

 雨戸を開け閉めする音。花に水をやっているらしい音。車がガレージから発進する音。玄関先で人と話している声。そして、ラジオの音。

 ラジオだとすぐに気づいたのは、私が普段からよくラジオを聴いているせいもあるだろう。テレビとはCMが違うし、一人の人がしゃべり続けている場合もしばしばなので、もしや、とピンと来てはいたけれど、道路交通情報が聞こえた時点で確信した。

 聞こえてくる番組は、多岐に渡っている。情報番組の時もあれば、若者向けの音楽番組の時もあり、ラジオドラマの時もあった。

 その中で最も頻繁に聞こえるのは、三、四十代をメインターゲットにしているトークバラエティ番組だ。毎週月曜から金曜の午前中に、三時間に渡って生放送されている。それが聞こえてきた時は、内心うれしかった。実は、私が一番好きな番組でもあるからだ。

 同じ番組を聴いている人が身近にいないことも手伝って、一気に親近感が増した。番組パーソナリティのことや、好きなコーナーのことを話してみたいという気持ちが次第にわいてきたものの、なかなか言い出せなかった。聞き耳を立てているように思われやしないか、というためらいが私を踏みとどまらせた。

 それでもやはり、共通のものについて語りたい欲求は消えず、ある時思い切って、できるだけさり気なく奥さんとの会話で切り出してみた。たまにそちらからラジオの音が聞こえることがある、このあいだ聞こえたのは私も好きな番組だったので驚いた、と。

 奥さんの反応は、思いもかけないものだった。

「うちでは誰も、ラジオは聴いてませんけど。そもそもうちには、ラジオがありませんし」

 不思議そうに首を傾げるその表情は、嫌悪や警戒の色はないものの、困惑で満ちていた。

 ラジオはパソコンやスマホを使って聴くこともできますけれど、旦那さんが聴いておられるという可能性は、ともたずねてみたが、

「私たち二人とも、インターネットはなかなか使いこなせなくて。携帯も、いろんな機能がついてるのはわかってても、実際に使ってるのは通話とメールぐらいなんです」

 戸惑いつつも丁寧に説明する様子は、偽ったり誤魔化したりしているようには見えなかった。困惑しているのは私も同じだけれど、これ以上奥さんを困らせるわけにはいかないし、あまりしつこくすれば、おかしな人と思われてしまう。すみませんでした、それならきっと私の聞き間違いですとびて、私は話題を変えた。

 詫びたものの、得心とくしんはいかなかった。聞き間違いや幻聴なんて思えない。本当に誰も、ラジオを聴いていなかったのだろうか?

 考えても答えが出ず、仕事から帰ってきた夫に事情を話してみると、

「本当にラジオの音だったのか? テレビとかの音を聞き間違えたとか。そうでなければ、隣以外のどこかから聞こえてたんじゃないのか?」

 疑われたのは、私の耳のほうだった。

 夫自身は、ラジオの音なんて一度も聞いていないらしい。音が聞こえるのはもっぱら平日の日中で、その時あなたは仕事に行ってて家にいないからだ、と反論してみたが、

「じゃあ、お隣の奥さんが嘘をついてるっていうのか? 何のためだよ。ラジオの音が聞こえたってことしか言わなかったのなら、恥ずかしくなったりして隠そうとするかもしれないけど、こっちもラジオが好きだっていうことも話したんだろ? それならわざわざ隠そうとしたりしないんじゃないか?」

 そう言われると、返す言葉もない。私も、奥さんはただ正直に話してくれていたように思う。でもそれなら、私は何度も聞き間違えるか、幻聴に襲われていたのだろうか。

 結局、自分自身に対して半信半疑になりながら、次の日を迎えた。

 夫が仕事に出かけ、家にいるのが私一人になると、耳は一気に鋭敏さを増した。隣から聞こえる音をわずかも逃すまいと、できるだけ静かにして、神経を研ぎ澄まし――はっと気づいて、己を恥じた。何をやってるんだろう、よその家の音に聞き耳を立てるなんて。

 気を取り直して、リビングの掃除を済まそうとしたその時、

『今日のメッセージテーマは「私のストレス解消法」。疲れた時や嫌なことがあった時、どうやってストレス解消していますか? ぜひ教えてください。メッセージは、番組ホームページにありますメッセージフォームまで、どしどし送ってください。メールの場合は……』

 やっぱり聞こえる! それも、いつものあの番組だ。聞き間違いなんかじゃない。

 音の発信源も、私にはどうしても隣の家に思える。第一、それ以上遠い場所から発せられているのなら、お隣の夫婦にだって聞こえるはずだ。普通の声量で問題なく会話ができるのだから、あの二人は耳は遠くない。隣家を避けて我が家にだけ音が届くというのも考えにくい。とするとやはり、奥さんが嘘をついていたのだろうか。

 私はそっと、玄関から外へ出た。隣家の様子をもう少し知りたい、何か手掛かりが欲しいという思いが、私を突き動かしていた。ただ、よその家の様子をうかがっている姿を誰かに見られたら、不審者扱いされかねないという理性も残っていた。なるべく自然な仕草で、人に出会ってもウォーキング中とか言って誤魔化せるようにしつつも、音の出所でどころや住人の様子を慎重に探った。

 以前の住人とは仲が良かったので、何度か家の中に上がらせてもらったことがあり、間取りもおおよそ知っている。あの聞こえ方だと、奥のほうの部屋ではなさそうだ。庭などの屋外の可能性もある。ご夫婦が今どの部屋にいるのか、どうにかしてわからないだろうか――などと考えながら隣家の前まで来た時、思いがけない光景を目にした。

 ガレージに、自動車も自転車もない。

 ご夫婦の内、自動車を運転できるのは旦那さんだけだ。奥さんが一人でどこかへ出かける時は、近場なら自転車を使っている。どちらも、シャッターのない簡単なつくりのガレージに置かれている。その両方がないということは――二人とも留守だ。

 誰もいない家からラジオの音? 一瞬、「泥棒」という言葉が浮かんだが、すぐに打ち消した。盗みに入った家でラジオを聴くなんて、普通はやらないだろう。何度も入り込んで何度も聴くなんて、なおさらあり得ない。

 どこか他に音の発生源がありはしないかと探ってみたものの、それらしい場所は見つからなかった。どこもかしこも、我が家だけでなく隣家にも聞こえそうな場所ばかりだった。

 私は自宅のリビングに戻った。疑問はまったく解消していないけれど、長くうろつけば人に見とがめられかねない。

 耳を澄ませると、ラジオの音はまだ聞こえている。私は、棚に置いてあるポータブルラジオをテーブルへ持ってきて、スイッチを入れた。途端、隣から聞こえるのと同じ放送がスピーカーから流れ、まるで合唱でもしているかのようだった。

 今日の天気やスポーツの試合結果といった、他愛たあいのない話題に耳を傾けていても、やはり私がどこかおかしいんだろうか、という不安や疑いが胸の内にどんどん広がっていく。次第に、考えること自体に嫌気がさしていった。

 私の感情を沈ませている間も、番組は普段通り、なごやかな雰囲気で進行していく。

『一つ、ぜひ紹介しておきたいメッセージが届いてます。この番組をよく聴いてくださっているリスナーのみなさん、「写真屋あーちゃん」というラジオネームを覚えておられないでしょうか? 三、四か月ほど前まで、そのラジオネームで投稿されたメッセージをよく紹介していたので、記憶に残っている方もいるかと思います。その「写真屋あーちゃん」さんから久しぶりにメッセージが届いたので、ちょっと長くなりますが聴いてください』

 私は思わず、一言一句聞き逃すまいと意識を集中させた。

「写真屋あーちゃん」――歩美あゆみちゃんだ。

『「私のことを覚えていらっしゃるでしょうか? ずいぶん長くメッセージを送らずにいたので、忘れられてても仕方ないと思っています。ただ、それでもこの番組に今の私の状況を伝えておきたかったので、こうしてメッセージを送らせていただきました。私は三か月ちょっと前、夫の転勤に合わせて家を引っ越しました。引っ越し先でもこれまで通り頑張ろう、番組にもメッセージを送り続けようと思っていたのですが、力を入れ過ぎてしまっていたのかもしれません。疲労やストレスで体調を崩し、二週間ほど前から自宅療養しています」』

 記憶の中の、明るく活発だった歩美ちゃんの姿がよみがえる。在宅で仕事をしながらも、地域の活動や行事にも参加し、休日は趣味である写真を撮りにあちらこちらへ出かけていた。

 そんな歩美ちゃんが、自宅療養なんて。

『「療養と言っても、ほとんど眠っているだけです。眠っては少しだけ起きて、の繰り返しです。どうも、体がそれを求めているみたいです。もしこのメッセージが番組で読まれても、その時も眠ってしまっているかもしれません」』

 彼女が引っ越した後も、時々連絡は取り合っていた。そのたびに忙しそうな様子が伝わってきたので、邪魔をしては申し訳ないと思い、段々と電話もメールも控えるようになった。同時に向こうからの連絡も途絶え、ここ数週間はお互い、何の音沙汰もない。

『「ちゃんと体調を取り戻して、以前のように番組を聴き、メッセージもいっぱい送りたいです。その時が来たら、私を変わらず迎え入れていただけるとうれしいです」……「写真屋あーちゃん」さん、ぜひまた元気になって、メッセージ送ってくださいね。もちろん、聴いてくださるだけでも大歓迎ですよ。いつまでも待ってますから。でも今はどうか、体を充分休めることだけを考えてください』

 彼女は私以上にラジオが好きだった。それどころか、私がラジオの面白さを知るきっかけを、彼女がくれたのだ。いろんな番組や、そのパーソナリティのことを教わったり、公開収録などのイベントに誘われたりするうちに、いつの間にか日常的にラジオを聴くようになっていた。もっとも、彼女のように番組にメッセージを投稿することは、勇気がなくてできずにいるけれど。

 私はふと、隣家がある方に目を向けた。今、あそこでラジオを聴いているのは――。

「歩美ちゃん?」

 証拠なんて何もない。非現実的なのはわかっている。だけど、あの家でラジオを聴く人なんて、他に誰がいるだろう。

 眠っている彼女の意識だけが、住み慣れた家に戻ってきているんじゃないかと、そう思えてならなかった。

 私はただ、祈った。隣からラジオの音がしなくなる日が早く来るように、「写真屋あーちゃん」というラジオネームをもっと何度も耳にする日が来るように、と。

 

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