「希望に縋るな、絶望に食らい付け」

 ずっと、ずっと、妹は待っていた。

 待って、待って、待ち続けて、それでも現れない人の到着を待ち続ける妹の疲弊し、衰弱していく姿を見ているのは、兄としてこれ以上なく辛かった。

「――ここはミストリー。誰もが迷う霧の迷宮となってしまった場所だ。連絡も来ない。なぁ、トウメイ」

「兄者……どうか、それ以上は言わないでくれ。こんな俺を女として扱ってくれたあの御仁を、俺は――私は、待ち続けたいのだ」

 妹は男勝りで、幼少期は同年代の子供達に男と間違われたものだった。

 一人称も『俺』で、鬼族オーガは男女で大きく膂力に差が出るのに、余程大柄な男でなければ、早々負けることもなかった。

 そんな妹を女として、異性として初めて好意を伝えた男は、鬼ではなかった。

 彼は自分より背丈も高い妹を一人の女性として愛し、妹も段々と彼に惹かれていった。

 戦闘種族などと異名さえも付けられた鬼族オーガを他種族の男が見初めたなど、当時はとても珍しかった。何よりその相手が我が妹だったことが、何よりの衝撃だった。

 必ず戻ってくる。

 そう告げた男を待つと言って、妹は頑として動かなかった。

 両親を説得し、妹と一緒に残ったけれど、日々疲弊していく妹を毎日見続けるのは、兄として辛い以外になかった。

 そんな中現れた女性の存在は、果たして救いだったのか厄災だったのか。未だ、結論は出ない。


  *  *  *  *  *


「また、迷ったのかい?」

 女が来た。

 昔と違うのは、来たのが前も後ろもわからなさそうな少女だったということか。

 濃霧の中から忽然と、誰もが迷う迷宮と呼ばれたダンジョンの中を迷わず進んできたかのように、彼女もまた、当然のように現れた。

 だがすぐに、彼女には道標があったことに気付く。

 オレンジの側で、またアリが列を作って木の実を取りに来ていた。

「そっか。スワンプ・アントの列を辿って来たんだね。賢い子だ」

「今日、は……お話があって、来ました」

 何故少女が今にも泣きだしそうでいるのか、理由に心当たりはなかった。

 だが、たった一人で危険なダンジョンを進んできた少女に何か理由がある気がして、追い返すことなど出来なかった。

「わかった。どうぞ、入って」

 少なくとも、木の実が欲しいという雰囲気ではないことはわかる。

 が、彼女がわざわざ危険を冒してまで来る理由はわからなかった。ましてや、泣きそうにまでなっている理由など、見当も付かなかった。

「それで、話って?」

「……妹さんの、待ってらっしゃる方についてのお話です」

 何故か、鬼は妹の方を振り返った。

 魔術で眠る彼女が起き上がるはずもないのに、何故か彼女が跳び起きたような気がした。

 本当に久しぶりの話題だったからこその、幻覚だったのかもしれない。彼の話題に反応し、はね起きてくれるのではないかという淡い期待だったのかもしれない。

 起き上がるはずがないことはわかり切っていたのに、それでもなんの変化もないことがわかると、空しく感じてしまって仕方なかった。

「ごめんよ、続けてくれ」

「……勝手、ながら、博士にお話、しました。妹さんが待ってる人の事。妹さんに魔術をかけて、眠らせた、女の人の、こと。そしたら、博士が調べて、くれました」

「そっか」

「……知って、いたのですか?」

 微笑みは弱弱しく、ずっと前から諦めていたと告白さえしていた。

 戦闘種族と呼ばれた鬼族には、とても似つかわしくない姿ですらあった。険しい面に備わった四つの目は、なんとも弱弱しく潤んでさえいる。

 その姿がオレンジには何故か辛くて、胸のあたりが

 きゅぅ、

 っと締め付けられている感覚がして苦しかった。

「随分と昔、戦争で約束の人が死んだ事を聞いた。妹はそれを信じられず、信じずに待ち続けていた。だから、女性が来たことは妹にとっては救いだったのかもしれないね……もしも、あの人が来なかったら、妹は、自ら命を絶っていた可能性すらあったから」

 待ち人は永遠に現れない。けどもしかしたら――そんな淡い期待に身を寄せて、弱りながら待ち続ける彼女には、昔のような男勝りな姿はどこにもなかった。

 もう自決するのは時間の問題だと、目を離すことなく見張っていた時期さえあった。

 妹が彼女の誘いを逃げ道だと、甘い誘惑だとさえ思ったことは間違いない。横で聞いていた兄でさえ、安堵に似た感覚を抱いていたのだから。

 だが魔術で眠らせてしまえば、事実上、妹はもう二度と起きてこない。

 それは果たして死と何が違うのだろう。ただ息をしているかいないかだけの違いなら、いっそのこと――そう悩んだ日々を、思い出してしまう。

「それで、よかったの、ですか?」

「……僕も、何度も自問自答した。妹が眠ったその日から、夜の数だけ考えた。後悔もしているし、納得も、しようとしてる」

「出来てらっしゃらない、の、ですか」

「……あぁ」

 納得など、出来るはずもない。してはいけなかったのだ。

 彼女が妹に魔術を掛ける日にこそ、仮初でも納得してはいけなかった。後悔ばかりだ。

 夜の数だけ考えて、夜の数だけ後悔している。そんな日々ばかりだ。

「僕が妹に付き添って、今もここにいるのは贖罪なのかもしれない。妹の世話をすることで、少しでも罪滅ぼししている気になっているだけの、自己満足なのかもしれない。ずっと、ずっと後悔しているんだ。希望なんて最初からなかったのに、僕は……妹を、見殺しにしてしまったんだ」

 仮初の希望。

 そこにはそもそも希望などなく、ただの逃避が希望に感じる。

 実際、逃げることはこの上ない希望だ。逃げられないという状況にこそ絶望し、最後に自決という道を見出した瞬間に、それが希望に見えてくる。

 希望とは現状より先を生きるために求める救いであり、死んでしまっては意味がない――その矛盾に気付かないままに。

 そう、博士は言っていた。

 最初は理解できなかったけれど、目の前で弱弱しく項垂れる鬼を見て、ようやく理解できた気がした。

 同時、話を聞いてからずっと、自分の胸が締め付けられているような感覚がするのも、わかったような気がした。

「妹はもう、二度と目覚めない。僕が死んでしまったあとも、永遠に。この術を解く術は、約束の相手に会うことだけ。でも――その人は、とうに死んでしまった。それを知りながら、ただ傍観していた僕は……妹を、殺したようなものだ」

「博士は、このお話を聞いたときに、言って、ました。『希望に縋るな。絶望に食らい付け』……と。目の前の希望がただの逃避なら、絶望と戦って、抗って、むしろ殺す術を考えて、試して、実行しろ、と。私には、その意味がまだよくわかりませんが」

「絶望に抗え、か。【外道】の魔術師とは名ばかりだ。とても、人間じみたことを言うんだね。あの方は。でも、僕はもう……抗う術が、見つけられないよ」

 気持ちの正体はわからない。

 目の前で弱弱しく項垂れる鬼。その後ろで永遠に眠り続ける妹。

 事態を理解し、話を聞いて、二人を目の前にして、渦巻く感情の名を知らない。

 偽善か、同情か。

 博士ならきっとそう言うだろうなと、オレンジは想像した。

 そしてそんな博士から、託されているものもある。それをどう使うかは彼らに決めさせること、どう使おうとも異論も反論も挟まないことを条件に、託して貰ったものがある。

 だがオレンジは、わずかにだが出し惜しむ気持ちもあった。

 ここで彼らに渡す物が、希望とは限らない。彼らが祈り、求める結果がオレンジ自身が求め、納得する内容かどうかもわからない。

 結末は、誰が望む結果になるかもわからない。それこそ、妹に魔術を掛けたという女性の思惑通りの筋書きにならないとも限らないわけで、だからオレンジは逡巡した。

 けれど。

「博士から、託されている物が、あります。それをどう使うかは、ソウメイさんに、決めて頂くように、と」

 ここで渡さないことは、オレンジにとっての希望――つまり、見て見ぬフリをして逃げるという選択。

 自分の都合で、身勝手な憐憫と同情で掻き回しておいてさよならだなんて、余りにも無責任過ぎる。それこそ、魔術を掛けた女性としていることは変わらない。

 そんな選択だけはしたくなかった。助けたいと思ったからこそ、今、ここにいるのだから。

「これを、絶望に対抗するための武器にするか、希望への道筋にするか……考えて、決めて、ください」


  *  *  *  *  *


 弱者は選択肢を奪われる。

 強者は選択肢を弱者に与える権利を持つ。

 だが、相手に選択の余地を与えるということは、それだけ特定の対象を他より強くするか、弱くするかを決めることさえ出来てしまうということだ。

 弱者は大抵、救いを求め、勝利を求めない。保護を求めて、権利を求めない。

 強者が護り、強者に護られることを前提に、彼らは助けを乞う。例えそのために他人が犠牲になろうとも、自分が救われるのなら――思い通り楽になれるなら、躊躇などない。

 故に強者は、選択肢を与える相手をも選ばなければならない。その先に破滅があれば知らん顔。幸福があったなら私のお陰、なんて八方美人は、その先、自分より強い者に呑まれる運命さだめ

 だからこそ、話を聞いただけの相手に憐憫だけであれこれと手を回してやるのは、それこそ良い人として認知されたいだけの自己満足でしかない。

 だからこそ選択肢は兄妹にではなく、少女に与えた。

 彼女が人を助けたいと思うか否か。その気持ちの在り方は、果たしてただの同情か。

 自分が望む結末になったとき、或いは、ならなかったときにどんな感情を抱くのか。

 結末も経緯いきさつも、決めるのは彼女だ。

 森で倒れるより以前の記憶を持たず、感情も知らない彼女の同情がどのような結果へと行き着くのか。

 それが【外道】の魔術師が与える選択肢。という選択だ。

 強者になりたくてなる奴はいるが、弱者になりたくてなる奴はいない。そして強者は、弱者の中から自然と浮き出てしまう者。

 故にいつしか、彼女が強者に位置したときに、与えられる側になったときに、自分で選択出来るように。彼女が彼と共にいて、彼の言いなりに生きるようにはならないように。

 彼女自身が選択肢を持ち、絶望に食らい付く選択を出来るように――などと言えば、少しは聞こえが良いだろうか。

 こちらとしては、ただ試作した術式の結果が知りたいだけだ。成功したか否かだけわかればいい。

 そして、その結果はわざわざ自分で見なくともいい。少女の口から聞けばいいだけだ。

 こちらは今、それどころではない。

「招かれざる珍客とは、まさになれのことよな。人の道を外れた【外道】の魔術師、アヴァロン・シュタインが、このような場所に何用か」

「古代遺跡が工房とは、随分とバチ当たりなことをするじゃあないカ。話を聞いて久しく興味をそそられたから来てみたガ――どうやら、色々訊かなければならないようだネェ」

「はて、我に訊ねることなどあるのだろうか。世界でも五本の指に入る魔術師にして、事実上の魔術師たるなれが、我に」

「さいきょう? それは最も強いという意味合いかネ? なら、その称号はおまえに譲るヨ。興味もナイ。今の私の興味はおまえダ、【魔導】の魔術師――クトゥル・イヌヌ・エイボン」

 名を呼ばれ、彼女はほくそ笑む。

 金色の瞳孔に赤い虹彩の双眸。そして橙色の髪を掻き上げる彼女は、さながら女王であるかのように、上階から博士を見下ろしていた。

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