「自分を愛してくれた人達には、最大の温情と愛情を返す」

 サー・アルタイル・ヴェネリア。

 それがサー・アルタイル・アルベルトの母親の名前だ。

 父親とは会ったことはないし、顔も名前も知らないし知りたいとも思わない。母と結婚して妊娠までさせた癖に、家の財産を奪って逃げだした最悪の犯罪者だ。

 今は独房にぶち込まれているらしいが、会いたいとも思わない。そもそもそんな卑劣な男が未だ生きていて、母が死んでいることが我慢ならなかった。

 母は自分を大事に育ててくれた。

 家の財産を奪われても、それでもひもじい思いはさせまいと自分にいつもたくさんの食事を用意してくれていたし、学校には通えなかったが、文字の読み書きと計算の仕方を教えてくれた。

 言葉を覚えて、数字を覚えて、物心を覚えて、そして憎悪を覚えた。こればかりは、母からは教わっていない。

 母は一切父のことを口にしなかった。

 無論、擁護するようなことは言わなかったけれど、悪口さえ言わなかった。あんな詐欺師になんかなるんじゃないよと、皮肉くらい言ってもよかったのに、あの人は何も言わなかった。

 だけど一度だけ、愚痴のように零した話がある。学生時代に会った、初恋の人の話だ。

 その人は軍人貴族の御曹司で、自分のような農家の田舎娘とは釣り合わないほど素敵な人で、結局その恋は叶わなかったけれど、とても素敵な初恋をしたのだと。

 彼との時間を思い出すと、笑ってしまえる。彼との時間を思い出すと、泣きそうになる。彼との時間がいつまで経っても愛おしくて、彼に会いたいといつまでも、思い続けてしまう。

 駆け落ちだって考えたこともあったっけと、笑って愚痴をこぼす姿が印象的だった。

 そんな話を聞くと、怒りの矛先は母が愛した人にすら向いた。

 何故母を助けに来ないのか。何故母ばかりが苦しい思いをしているのか。

 どうせその貴族は母のことなど忘れて、いい御身分で着飾って、豪遊しているに決まってる。

 母の愚痴を聞いてから、二年くらいはずっとそう思って、後に義父となる人に復讐心に近い憎悪すら燃やしていた。

 そいつが来たら、一回でもぶん殴ってやらないと気が済まない。

 そう、思っていたのに。

「ヴェネリア」

 彼はある日突然現れて、病床に伏せる母の顔を覗き込んだ。

 白髪が目立つ母の前髪を除けて、痩せ細った顔色を覗き込み、汗でわずかに湿った額を躊躇うことなく自分のハンカチで拭う。

 すると、数日間意識朦朧としていた母がふと目覚めて、彼の顔を仰ぐと涙して微笑んだ。

「来て、くれたのね……嬉しいわ、アウリス」

「遅くなってごめんよ。でもよかった。なんとか、間に合った。北と南が完全に隔たれれば、もう会うことはできなかったから。だけど本当に、本当に、遅くなってしまったね……」

「……ねぇ、お話を聞かせて?」

 その後も、母と彼はとても楽しそうに話し続けた。

 学生時代の思い出から、何度か繰り返したデートの思い出。そして、結婚したいと願い出て彼の両親に引き裂かれた後の、お互いの顛末。

 お互いに相手に裏切られ、それでも子供達にだけは苦しい思いをさせまいと育ててきた皮肉な接点をも隠すことなく打ち明けて、笑い合っていた。

 同時、アルベルトの怒りはもう、アウリスにはなかった。

 逆に納得さえしていた。そっか、だから母はこの人が好きになったんだなと。こんなに素敵な人ならば、それはもう当然のことだった。

「アウリス、お願いがあるの」

「なんだい」

「……この子を、アルベルトをお願い。私は、もう、長くない、から」

「そんな、母さん!」

 反発してみるものの、アルベルト自身覚悟はしていた。

 大病を患ってから数年間、内戦のせいで劣悪な環境下にいて、まともな医者に診てもらうこともできなかった母の寿命は、もう永くはないのだと。

 最期に愛しい人に看取られて逝ければ、息子を託せれば、悔いなく逝けるのだと言わんばかりに笑うから、アルベルトはそれ以上言及できなかった。

「君は、それでいいのかい?」

 アウリスに問われて、返答に詰まる。

 紡ぐ言葉を選び、探り、葛藤して、押し殺して、頭を深く下げた。

「どうか……母の最期を、看取ってやってください。お願い……します……」

 こうして母は最愛の人に看取られ、サー・アルタイル・アルベルトはアルベルト・ヒッタヴァイネンとなった。

 そこでアウリスの娘シルヴァと出会い、似たような境遇から仲良くなり、いつしか互いに思い合うようになり、恋仲になった。

 そして来月、結婚する。これで正式に、アルベルト・ヒッタヴァイネンとなる。もう、サー・アルタイル・アルベルトになることはない。

 学校の友人や、普段お世話になっている教官に報告していくと、それこそ喜んで祝ってもらえて嬉しかった半面、どこか寂しいものも感じていた。

 彼らに結婚式の招待状を渡す度、視界に入るアルベルト・ヒッタヴァイネンの名が酷く心を刺してくる。今まで何度も名乗って来たのに、何故かその名が胸の内を締め付けて来る。

「どうかなされたのですか、アルベルト様」

 と、食堂で彼女と出会う。現役軍人以上に美しい敬礼は相変わらずで、今日が体験入学最終日らしいのだが、結局彼女が最後まで変わることはなかった。

「……今度、結婚することになったんだ」

「それはおめでとうございます。銀髪は名もなき一介の軍人でありますが、心よりのお祝いを申し上げます」

「ありがとう。君は、今日帰るのだったね」

「はい、お世話になりました。たった今、お父様にもご挨拶申し上げてきた次第であります」

「そっか……ねぇ、このあと少し、時間あるかな」

「はい。帰ると言いましても迎えがあるわけではありませんので、時間を作ることは可能です」

「じゃあ、頼みたいことがあるんだ」


 ▼  ▼  ▼  ▼  ▼


「今度は何を作っているのです? アヴァロン」

「またおまえか、ウォーカー」

 つい先日も同じ会話をしたし、そのまえもそのまたずっとまえも同じ会話をこの二人は繰り返している。もはや日常茶飯事という奴だ。

 この頃あった変化はといえば、彼が銀色の花弁を咲かせる薔薇を作り上げたことと、彼女の髪が短くなったことだ。片方は学会に、片方は学校生徒らに衝撃を与えた。

 特に彼女の方に至っては長年伸ばし続けていた髪を突然切ったこともあって、失恋しただとか強姦に襲われただとか、根も葉もない噂が飛び交いもした。

 まさか誰も、一人の友人の研究のために提供したなどとは思わなかったし、想像できるはずもなかった。

 切った髪をひとまとめにして、結んだ髪の束を右肩に乗せた彼女は、彼の肩にさりげなく手を置きながら、彼が熱心に覗き込んでいるそれを覗く。

 すると彼は着けろと言わんばかりにゴーグルを出して、自分はつけていないにも関わらず彼女の方を見向きもしないで手渡した。

「今度は何を作っているのやら」

「危険物ではないが、万が一ということもある。おまえの家に訴えられたら面倒だからネ」

「私があなたを訴えると?」

「誰も彼もがおまえのように聖人じゃあないんだヨ。おまえの親は過保護に過ぎる。たかだか娘の髪を一束切っただけで学校に抗議するような奴らを、信用なんてできるもんかネ」

「そうですね。それは私も思います。それで? 私の髪の使い道は決まりましたか?」

「あぁ……あれかネ。あれは、今大事に保管してある。将来、あれでホムンクルスを作ろうと思っていてネ。おまえの遺伝子ならば、いいのができるだろう」

「では、その子は私とあなたの子ですね」

「は?」

 振り返りましたね、と彼女は微笑んでいた。

 してやったりと微笑まれて、彼は舌打ちして薬品へと向き直る。その背には若干の照れが見えたのだが、そう見えたのは彼女だけだ。他の誰が見ても、なんとも思わないだろう。

 彼の背中は薬品と鉄臭い臭いに紛れて、どこか寂しげな哀愁を感じさせるように、彼女には見えていた。それを言ったら口を利いてくれなくなりそうなので、言わないが。

「だって、あなたの技術で私の髪からホムンクルスが生まれるのでしょう? なら、私とあなたの子と言っても違わないと思いますが」

「……私も人のことを言えた義理ではないとは思っているがネ。おまえ、頭大丈夫かネ?」

「不満ですか?」

 返す言葉を失った。

 奇才にして鬼才。天才にして後の天災たるアヴァロン・シュタインが言い負かされているところなど、おそらくほとんど見た人はいないだろう。

 実際、彼を言い負かせる人など、今も昔もパルテナ・ウォーカー以外いなかった。

「ったく……好きにし給え」

「では、もしもその子がちゃんと成長したときには会わせてくださいね。名前は、そうですね……こんなのはどうですか?」


 ▼  ▼  ▼  ▼  ▼


 魔導軍兵士は魔術を駆使して戦う兵士。

 魔術の規模にもよるが、被害をより防ぐために実戦訓練場には天井が無い。

 それこそ真夏の正午ともなれば、真上から灼熱の太陽が燦燦と日光で焼いて来る灼熱地獄にもなるのだが、冬の夜ともなれば肌寒く、たちまち息は真白に凍る。

 自分の髪色と同じ輝きを放つ月光の下、風に吹かれる銀髪は軍帽を飛ばされまいと押さえる。

 夜とはいえ、真夏だというのにわずかに肌寒さすら感じさせる風が吹きつける中、アルベルトは銀髪が待つ訓練場へとやってきた。

 軍帽を被り、軍服を身にまとって剣を腰に差した彼の目は、これから起こる出来事が決して甘酸っぱいものでないことを物語って、まさにこれから戦場に出る軍人らしい顔つきをしていた。

「すみません、お待たせしたようですね」

「いえ、時間通りです。私が早めに来ただけのこと」

 とは言うが、アルベルトが指定した時間はまだ三十分以上後。アルベルトは彼女を待たせまいと早めに来たつもりだったが、それよりも早く彼女は待ち合わせ場所に来ていた。

 時間厳守は確かに必須だが、一体いつからいたのだろうかと思わされる。彼女の場合、数時間以上まえから居そうで、それが不自然に思えないから怖い。

「それで、本気ですか? アルベルト様」

「こんなところにこの格好でやってきて、嘘です冗談ですなんて言えないよ。俺はそこまで、腰抜けじゃない。腰抜けじゃいられないんだ。せめて、今だけは」


「俺は君に決闘を申し込む。勝ったら、君の創造主――外道の魔術師に無償で、ホムンクルスを作るよう頼んで欲しい」

 アルベルト自身、情けないと思っていた。

 貴族とはいえ養子であり、さらに学生でもあるアルベルトに外道魔術師にホムンクルスの作成を頼めるだけの財産などない。

 故に決闘を申し込み、勝てば無償で作らせろなどと、これではただの脅しだ。情けないにもほどがある。

 例え相手が自分よりずっと格上で人間ですらなくとも、相手は女性。しかも彼女が勝ったところで、なんのメリットもない。

 本来ならこんな決闘にすらなってないただの我儘に付き合わせるだけ、恥を晒すようなものだったが、これ以上の手などなく、勝負に出るしかなかった。

「正直に申し上げまして、アルベルト様では私には敵わないかと思われます。アルベルト様は来月には祝言を迎えられる身。自棄になってはなりません。考えを改めることを進言致します」

「……ありがとう。君は本当に優しいんだね。だけど、ごめん。俺は引けない。引くわけにはいかないんだ。それに、自棄になってるわけでもないよ。だけど俺に返せるものなんて、これくらいしかないんだ……!」

 抜かれた軍刀は月光を浴びて、濡れているかのように光っていた。

 そこらの軍刀よりも質はいいだろう。素人でもわかるくらいに鋭利に光るそれは、これから多くの命を刈り取ることとなるのか否か、それは今後の彼の努力次第だ。

 無論、ここで折れるという展開も充分にあり得る。それこそ、彼の命ごと。

「俺を託すまで育ててくれたひと。俺を今日まで育ててくれた義父ひと。そして俺を、受け入れてくれた彼女ひと。自分を愛してくれた人達に、最大の温情と愛情を返す! それだけが、俺にできる最大の恩返しだから! ここで引くわけにはいかないんだ!」

 軍刀の切っ先が向けられる。

 戦場に慣れていない若輩者なら、軍刀を向けられることより向けることに抵抗を感じて、手が震えてしまうこともあるが、彼の手は一切震えておらず、確固たる覚悟が現れていた。

 それに対して、銀髪は如何にするか。答えなど、すでに決まっているようなものだった。

「これ以上は、貴方様への侮辱となるのですね。承知しました――決闘の申し込みを受諾。これより、正々堂々たる決闘を開始します」

 真白の軍服の袖から、彼女の髪色と同じ銀色の花弁が噴き出て来る。その量は厖大で、数えることなど不可能なまでに溢れ出て来る。

 真夏の夜に舞い散る無数の銀色の花弁は、彼女の指の動き、手の動きに合わせて渦巻き、舞い踊り、月光を映して光る。

 アルベルトが握り締める一本の軍刀と同じ煌きが、彼の目の前で無数に光り輝いていた。

「黒髪中佐から聞いたことがあります。とある国の決闘では名を名乗るのが礼儀なのだとか。なので名乗らせて頂きます――」

 外道と呼ばれる博士には者に対する愛着も執着もなく、作り上げたホムンクルスに名など与えたことも少なく、側に置く彼女らも髪の色で呼ぶ始末。

 だが銀髪は例外的に、最初から自身を証明する個体名が存在した。「おまえの母を名乗る奴が勝手に付けた名前だ、貰っておきナ」と博士が教えた名前だが、銀髪は他のホムンクルスらを思って自ら名乗ったことはない。

 故に今日、初めて自ら名乗る。

「【外道】の魔術師アヴァロン・シュタインが作りし銀髪のホムンクルス。シャルロータ・リラ・ウォーカーがお相手致します――戦闘、開始」

 舞い踊る白銀の花弁と共に、白銀の長髪を湛えた青年は迫り行く。

 アルベルトは握り締めた一本の軍刀で、無数の花弁を操る少女へと立ち向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る