思い出1:酔いどれ娘、舞う
陽はすっかり落ちた。濃紺の空には丸い月と、無数の星が散りばめられている。
竜が棲む山は、静かな時間を迎えている。夜行性の鳥の声や、獣たちのかすかな息づかいを感じる以外に音はない。
それも、昨日までの話になってしまったが。
「ありました!」
娘が、栓のついた口の狭い陶器を持ってやってくる。竜への供物から探ってきたのだろう。
昼は『生贄の乙女』だった娘は、今は村娘の格好をしている。生贄装束よりも動きやすいから、と言っていた。
さきほど夕の腹ごしらえも終えていたし、本当に、ここ山の頂に住み着くつもりのようだ。
日中の、疲れる会話を思い出しながら竜はため息をつく。娘がそれに煽られ、陶器を抱えながらたたらを踏む。
「お前は本当に帰らないのか?」
竜が本日何度目かの問いかけをすると、
「何度聞かれましても、答えは同じです」
娘はにこやかに返してくる。
めまいに似たものを感じて、竜はわずかに目を細めた。
人間の生は、竜に比べれば短い。あと何年かやり過ごせば、この娘も年を重ねて生贄に選ばれなくなり、
そこまで竜の気力が保つかわからなかったし、その間、この娘が思いもよらぬ成長を遂げていた可能性も捨てきれない。
たとえば、どんなふうに?
そんなもの、想像するだけでも恐ろしい。
どの道、竜は根気負けしていたことだろう。
「お前、何を持ってきた?」
気を取り直して竜が聞く。
娘は陶器を小さく揺らし、
「酒です」
ちゃぽんと水音を立てるそれを、顔の高さに持ち上げてみせた。
「紅き竜への供物です。私の村では、竜は酒に弱いという説がありまして。あなたが酔い潰れたところを、襲うつもりがあったのかもしれませんね」
「愚かなことだな。そんなひと雫程度で、竜がどうにかなるものか」
竜は鼻を鳴らす。娘はとっさにしゃがみこみ、突風のようなそれをやり過ごした。
「そうです。ですから、私がもらってしまおうかと」
そのまま座った娘は悪びれずに言って、樹皮でできた栓を抜く。きゅぽん、と小気味いい音がした。
陶器を傾け、いつの間にか持っていた小さな杯に透明な液体を注いでいく。
それを竜の方へ差し出し、
「飲みますか?」
「いらぬ」
「ですよね」
酒の入った陶器を地面に置き、娘は杯を自分の口元へ持っていく。
「飲むのか?」
「ええ。私は十五ですから成人ですし、供物の酒というのは上物と決まっていますから。せっかくですしね」
そして、くいっと小さくひとくち。
娘の動きが止まった。
「……上物は上物なのでしょう。ですがこれは、本当に酔い潰すつもりだったのかもしれません」
これは火が着く代物です。
微妙な顔をして、娘は杯を置いた。
「当てが外れたか」
「おっしゃる通りで。どうせですから、燃料として使いましょう」
言うが早いか、娘は供物からいくつかの杯と細い紐を持ってきた。
紐を短く切って杯に入れ、地面に大きな円を描くように等間隔に置く。そして、それぞれ酒を注いでいく。
娘が何をしようとしているのか、竜にもわかってきた。
「火を分けてやろうか」
「いただけるのでしたら、ぜひ。ですが、少し待っていてください」
娘は笑顔を見せ、寝床を整えた洞穴の中へと消える。
いくらか時間が経つと、娘は、生贄の青い紗の衣を纏って現れた。
「どうした、そんな格好をして」
「せっかくの星空ですし、舞をお見せしようかと思いまして。ここに火をいただけますか?」
娘は、乾燥した枝と木を集めた小山を指さす。
竜が細く火を吐きかけてやる。小山は燃え上がり、小さな焚き火ができた。
「ありがとうございます」
焚き火から火を採って、娘は杯に差した紐に移していく。強い酒精を含んだ芯は、次々と小さな火を灯される。
焚き火を点のひとつとし、円を模した舞台が整えられた。
月明かりが娘を照らし、揺らめく炎が娘の衣に陰影をつける。
「土地の神に捧げる舞がありまして、村の娘はみな練習するのです。今年は私の番だったのですよ」
娘はゆっくりと一礼し、端の焦げた長い薄絹を、両手で操り舞い始めた。
優雅に、ゆっくりと。
神に捧げる舞を、ひらひらと、衣と薄絹を風で揺らしながら。
「私は仮にも悪竜だぞ」
「そうでないことは私が知っています」
ふふふと笑いながら、娘は上機嫌に舞い続ける。
竜は呆れから目を細めた。
「お前、酔っているな?」
「そうかもしれません」
「……そのうち転ぶぞ」
ほろ酔いの娘はそのまま舞い続け、最後はころりと、受け身を取りながら転がってしまった。
「ふふふ、楽しいです、ふふふふ」
「お前な……」
一頭とひとりの初めての夜は、こうして更けていった。
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