終章1(間章)

赤と紅

 娘たちが山に戻り、それなりの時が経った。

 竜が一頭で棲んでいたころならたいした年月だと感じなかっただろうが、今は娘たちがいる。日々はめまぐるしい変化をともないながら過ぎていった。


 ルリは山を下りた。十五年かけて身体を成長させ、人間として生きることを選んだのだ。

 それから数ヶ月と経たないうちに、「結婚した」と知らせに来たのだが。相手は、言うまでもない。

 そしてさらに数年後。ルリは二歳の長女と、産まれて間もない長男を連れてきた。これには、娘がたいそう喜んでいた。

 ふたりともどことなくルリに似ていたが、他はおそらく父親であるアーベンに似たのだろう。

 娘が、孫たちをあやしながら「ここのホクロが」とか「耳の形が」など、あれやこれやルリと笑いあっていた。


 いまや表情豊かになったルリは、母である娘と嬉しそうに話しながらも、ふと寂しげな顔をすることがあった。

 どこかで、何か感じていたのかもしれない。




 それから数十年。

 山は中の熱を冷まし、沈黙した。しばらく目を覚ますことはないだろう。

 火竜である竜にとって、冷えた山に暮らす意味はない。

 竜は、この機会に長年棲んだ山を離れることにした。




「旅立たれるのですね、紅玉こうぎょくさま」


 背中まで伸びる翡翠色の髪を緩く編んだ、人間でいう二十代半ばほどの青年が、竜を見上げる。

 初めて会ったときのおどおどした様子はなりをひそめ、ヒスイは、山の守護者として立派に成長した。

 今では、山の一切を任せてしまえるほどに。

 おかげで、竜は何の憂いもなくこの地を後にすることができる。

 まあ、元々山のあれこれなど気にしてはいなかったが。


「あとは任せましたよ、ヒスイ」

「はい、お母さま」


 ヒスイは視線を竜から下げて、竜とともに旅立つ母を見る。

 竜もちらりとそちらを見やった。


 娘もそれなりに年を取った。

 茶の虹彩は、色が薄れて縁がうっすら緑がかっている。自慢の黒髪はすっかり白くなり、紅い鱗に覆われた左腕との対比が鮮やかだ。

 しかし背筋はぴんと伸び、肌も身体も張りがあり――

 つまるところ、色素以外の外見は、ヒスイを連れ帰ってきたあの日から全く変わっていない。

 人間ではないと、一目でわかる容姿だった。


「山の熱が引いても、緑豊かな土地として守ってゆきます」

「気負うな。好きにすればよい」

「ですが、姉さまも住まう地ですから」

「あら、姉思いですね」


 ヒスイの言葉に、娘も微笑む。


「いつでも遊びに帰って来てください。ボクはいつまででも待てますから」


 ヒスイは柔らかく笑う。


 ヒスイにも好いた相手がいたようなのだが、ヒスイはその者とともに生きる道を選ばなかった。

 竜族の眷族として、永くこのいただきから村ごと見守ることにしたようだ。

 そういう生き方もあるのだろう。

 竜は詳しく聞くことはせず、諸々は娘とルリに任せたのだった。


「ところで、コハクさまはどうなさるんです?」

「兄者か」

「カナリヤさんですか」


 竜と娘の声が僅かに重なった。

 妖精竜である兄カナリヤは、ちょくちょく旅に出ていて、今も世界を回っている最中だ。


「どこかでまた会えますよ。竜とはそういうものですもの。ね、お母さん?」


 娘が竜を見上げ、悪戯っぽく片目を閉じる。

 竜は軽く息を吐き、


「まあ、そうだな」


 身を屈め、娘が背に乗るのを助けてやった。

 そして皮膜の翼を動かす。

 強い風が起こり、竜の巨体が宙に浮く。


「行ってらっしゃいませ!」

「ええ、また!」


 ヒスイに手を振り返す。

 陸地はどんどん遠ざかり、ヒスイの表情がわからないほど離ていく。


「今度はどこに行くんです?」


 娘は、竜に向けてはしゃいだ声を出す。


「そうだな……。いや、急ぐ旅でもない。気ままに行くか」





 あるところに山があり、麓には人間たちの村があった。


 山の頂には紅き竜が棲んでいた。

 鋭い爪で大地を引き裂き、大きな牙で大きな魔獣の肉を食いちぎり、背中に生えた大きな翼で空を飛びながら、鉄をもかすような炎を吐く。

 しかし、全身を覆う鱗はまるで美しい紅玉で、生きた宝石のようだという。


 強大な力を持つ竜は、麓の村々に存在を広く知らしめていた。


 


 後世に、こんな話が伝わっている。


 竜の元には、ひとりの美しい娘がいた。

 竜の巨体と力を恐れもせずに、あれやこれやと話しかけるような、奇妙な娘だったという。


 娘はあるとき、竜から遣わされた巫女として、山の恵みや村々の名産品を携え人里に現れた。

 人間たちはこれを歓迎し、巫女は受け入れられた。

 人間たちの何人かは巫女に見覚えがあるような気がした。しかし思い出そうとする記憶はもやがかかったようにおぼろげで、誰も巫女の正体を知ることはなかった。



 時が経って巫女は子をし、成長した子らは巫女の跡を継いだ。

 巫女の娘は次の巫女に、息子は守護者に。

 竜と竜の娘は、子らにあとを任せて山を離れた。


 次代の巫女は、やがて人の世に溶けて子を生した。

 守護者は今も山と人里を見守り、麓の皆々から親しまれているという。



 山を離れた竜と娘は、今もどこかで旅をしていると、人から人へと口伝えられているそうだ。



 ◇ ◆ ◇



「めでたし、めでたし。ですが、まだお話しできることはありますよ。聞いていかれますか?」

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