「ふんぬ」のミザリー

「しかし……どうするよ?」

「何が?」


 要領を得ないノエルの質問にセイラが首を傾げる。

 ゼウスの部屋に向かって歩きながら、小声で作戦会議が行われていた。


「盗み聞きするっつってもミザリー隊長だぜ?」

「なに、可愛い女の子の会話を盗み聞きするのは気が引けるって?」


 目を細めるセイラに、ノエルが慌てて弁明する。


「そうじゃねえよ、もしあの人がいる時に何か秘密の会話みたいなのが行われるとして、そういう時くらいはさすがに警戒してスキルを使うだろ。そしたら俺たちが部屋の外にいるのもばれてアウトってことだ」


 セイラは顎に手を当てて、唸りながら考え出した。


「それもそうね……でも、そう考えると逆にミザリー隊長がいる時の方がそういう話をする可能性が高いってことじゃない? だからそこは、盗み聞きがばれても大したことにはならないから大丈夫って信じてやってみるしかないかも」

「……大したことになったらどうすんだよ」


 真顔で問いかけるノエルに、セイラは少しばかりからかうような笑みを浮かべて答えた。


「一緒に『次元の狭間』にでも行く?」

「ばーか。……でもまあ、それも悪くねえかもな……その」


 そこでセイラはどこか期待するような眼差しをノエルに向ける。

 その視線を感じながら、ノエルは途切れ途切れといった感じで続けた。


「お前と一緒ならよ」

「…………!!」


 セイラは頬を赤く染めて俯き、ノエルはどこかよくわからない方向に顔を向けている。

 ムコウノ山でセイラがノエルに、どさくさに紛れて恋愛対象として見てますアピールをした際、その真意を聞く暇がなくあやふやになってしまっていた。

 今のやり取りの途中でそれを思い出して、色々混ぜ合わせで何だか無性に恥ずかしくなってきたセイラである。


「そっ、そういうのを期待して言ったわけじゃないし、ばーか!」


 耳まで赤くして理不尽な悪態をつきながら、セイラは一人足を早めて歩いていった。


 やがて二人が距離を開けて深呼吸をし、落ち着いて来た頃にはゼウスの部屋の前に到着した。

 さっきまでの糖度の高いやり取りを何とか忘れて扉の前で息を呑む。

 ここからのお喋りは禁物である。扉の外に自分たちがいると察知されてしまったら危険だからだ。


 扉に少しだけ体重を預けて耳をつけるのは二人ともほぼ同時だった。

 精霊は耳がいいので、こうしていれば会話は内容を判別出来る程度には聴きとれる。壁越しなので小声で会話をされたりすると厳しいが。

 ノエルは扉の中心からやや右にいるのに対し、セイラは左のかなり外側で耳を当てていた。そのため、何か聞きにくいな……と言わんばかりにセイラがノエルにぐんぐんと近付いていってしまう。


 実はセイラは、こういった男女の物理的な距離の感覚には少しばかり疎い。テイマーズとしてジンやノエルと過ごす時間が長かったことが原因だろうか。

 それで、さっきまで男女をはっきりと意識するような話をしていたにも関わらずこの距離感である。

 ノエルはもう会話の盗み聞きどころではなかった。


 明らかにこちらを意識していないし、目線だけは扉に向かっているとはいえ、気になる女の子の顔が目と鼻の先でこちらを向いている状態だ。

 流れるような銀髪とか、透き通るような瞳とか、小ぶりな薄桃色の唇とかいったものしか視界に入らないし、鼻腔には花の香りが押し寄せて来ている。


 もし許されるのならば、セイラの頭にげんこつの一つでも降らせてやりたい。

 さっきまであんなやり取りをしていたのにこれかよ、と。

 当然そんなことをするわけにもいかないので、人知れずノエルの理性との戦いが幕を開けるのであった。

 

 そして扉の中に集中して意識を傾けられたセイラの耳には、老神と赤髪の少女による会話が飛び込んで来ていた。


 ☆ ☆ ☆


 まだ部屋に来てそんなに時間が経っていないのか、ミザリーは扉の近くに立ったままだ。


「お呼びでしょうか、ゼウス様」

「うむ。よう来たの、『憤怒』のミザリーや。まあ座りんさい」


 ゼウスは久々に会いに来た娘を歓迎する老人のような笑みを浮かべている。

 促されるがまま、大人しく部屋の中央、ローテーブルに据えられたソファへと向かうミザリー。


 ゼウスは部屋の奥にある執務机の椅子から立ち上がったまま、ローテーブルにあらかじめ置かれていたグラスに手のひらを向けた。

 すると突如温かい紅茶がグラスを満たす。神聖魔法の一種である。


「お茶でも飲むかの」

「ありがとうございます。それであの、非常に申し上げにくいのですが……」


 困ったような表情で話を切り出そうとするミザリーがソファに腰かけようと着席の動作に入った瞬間、彼女の口から驚くべき言葉が発せられた。




「ふんぬっ」




 そして完全に身を沈めると、そのまま何事もなかったかのように続ける。


「その、『憤怒』というあだ名は再考していただけませんか?」


 部屋の奥から歩いて来ていたゼウスはローテーブルの前で立ち止まると、静かに首を横に振ってからソファにその身を沈めた。


「そりゃできん」

「どうしてですか?」


 拗ねた子供のように頬を膨らませて抗議をするミザリー。しかし、


「だってミザリーちゃん、今もふんぬって言いよるんじゃもん」


 ゼウスの言葉を受け、驚きから途端に身を引いて顔を赤らめた。


「えっ、ほ、ほんとですか!?」

「わしが今までお主に嘘をついたことがあったか?」

「割とたくさん……」

「それはすまんじゃった……しかし、今のは本当じゃ。椅子に座る時にの」

「ううぅ……」


 ミザリーは、なおも蒸気が出そうなほど赤みを濃くする頬に手を当て、見悶えている。どうやら「ふんぬ」と言っている自覚がない上にかなり恥ずかしいようだ。


 「憤怒」のミザリー。

 ことあるごとにかけ声なのか何なのか「ふんぬ」と発してしまうために、ゼウスにそうあだ名をつけられてしまった。

 

 そんな悲しい運命を背負うワールドオブザーバーズの隊長はしかし、同部隊員どころか精霊全体を通じての人気ものである。

 彼ら曰く、普段のはつらつとした感じと「ふんぬ」とのギャップが可愛いとか、「ふんぬ」を恥じらう姿が可愛いとか。


 恥じらうミザリーを眺めながら、ゼウスは意地が悪そうに口の端を吊り上げる。


「ふんぬをやめられんうちはあだ名を変えることは出来んのう……ムッフッフ」

「そんなぁ……」


 遂には顔を手で覆ってしまったミザリー。

 ゼウスは紅茶を口に含み、グラスを置いてから話を切り出した。


「しかし恥ずかしい恥ずかしいと言っておるが、悪いことばかりでもないじゃろ。たしか今の彼氏は『ふんぬ』がきっかけで付き合い始めたと聞いておるが」

「たっ、たしかに今の彼氏は『ふんぬ』を可愛いって言ってくれてますけど……でもでも、そういうことじゃないんです!」


 ばん、と音がするほどに勢いよく手をついてテーブルに身を乗り出し、ミザリーは声を張り上げた。


「恥ずかしいものは恥ずかしいんです! だって『ふんぬ』って……おっさんくさいのにおっさんですら言わないじゃないですか!」

「それはどうかのう。たまに言っとるやつもおると思うが……いや、そういう話ではないか。とにかく、あれは今更どうにか出来るものでもないと思うがのう」

「やっぱり、そうですかね……」


 本人にもどうにもなりそうにないという自覚があるのか、ミザリーは未だ赤い顔のまま俯き、黙り込んでしまった。

 膝の上で拳を握り、瞳は潤んでいてどこか切実さを感じさせる。そんな彼女を見てゼウスは一つため息をついてから口を開いた。


「からかってすまなんだの、まあわしとしてもミザリーちゃんの悩みをどうにかしてやりたいのは山々なんじゃ」

「では、どうしたらいいと思いますか?」

「ふむ……」


 ゼウスはあご髭を撫でながら考え込む。白く長い毛の集まりが、ただのもじゃもじゃから三角形へと整えられていった。


「やはり、まずは『ふんぬ』と言ってしまっとることを自覚する、というところからじゃろうな。でなければ何も始まらん」

「ですよね。わかりました、普段から意識してみます」


 そう言って真剣な面持ちで一つうなずいたミザリーは、腰を浮かして身を乗り出し、ローテーブルの上に置いてあるおやつに手を伸ばす。


「ふんぬっ」

「…………」


 ミザリーは真顔のゼウスに見守られながら、手に取ったおやつを口に含むと顔をほころばせた。少し落ち着いて来たのか、顔の赤みは引き始めている。


「あっ、これおいしいですね」

「うむ。そうじゃな……」

「どうなさったんですか? ゼウス様」


 突然表情を失ったゼウスの心情が読み取れず、首を傾げてしまうミザリーなのであった。

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