第5話 下水道の中で(3)


 セーラを連れて部屋まで歩いていく。


「ヴァイオリンは練習してるの?」

「……やることがヴァイオリンしかないもの」

「勉強は?」

「勉強なんて大嫌い。文字がうようよ動いて見えるんだもん」

「でも読み書きが出来たら、友達と手紙を交換したり出来るのよ」

「私は公爵令嬢よ。そんな子供みたいなことしないもん!」

「……」


 あたしは歩幅をセーラに合わせて歩く。


「あたしも、そう思ってた」

「……何が?」

「手紙なんて子供みたい。交換日記なんて子供みたい。だからやらない。でも、実際はやれる相手がいなかっただけ」


 交換日記も、手紙も、あたしと交換してくれるのは、たった一人だけだった。その子は、行方不明になり、あたしの前から姿を消して、二度と現れることはなかった。


「……そうだ。セーラ、冬になったら、クリスマスカードを送ってあげるわ。だから、返事を書いてくれない?」

「……ロザリーが送ってくるの?」

「ええ。あたしから送るわ。そしたら、返事を書いてくれる?」

「……んー……」


 桃色のツインテールが揺れる。


「まあ、ロザリーがどーーーしても、欲しいって言うなら、そうね。あげなくもなくってよ?」

「それは良かった。今年のクリスマスの楽しみが増えたわ」

「……でも、わたし」


 セーラがぼそりと言った。


「カードって、書いたことない」

「……部屋で練習してみる?」

「……ロザリー、わかるの?」

「そりゃ、あなたより大人だもの」

「……そうね。ロザリーが、どーーーしてもって言うなら、教えてあげられてもよくってよ」

「あー、……そうね。楽器だけじゃなくて、字の書き方の練習もしましょうね」


 部屋の前にたどり着き、あたしは扉を開けた。


「ほら、セーラ、入って」


 あたしは顔を上げた。セーラの部屋の扉の隙間から、青い目がじーーーっとあたし達を見ていた。


「……」


 あたしは黙って扉を閉めた。見下ろすと、セーラが怯えてあたしのスカートを握り、ぶるぶると体を震わせる。震える唇で、揺れる目で、あたしに何かを訴えかけてくる。


「……っ! ……っっ!!」

「今は入れないみたいね」


 隣の部屋に移動する。


「マーガレット様の部屋で練習しましょうか」

「なんだ。入らんのか?」


 クレアが扉を開けて廊下に出ると、セーラがびくっとして、あたしにしがみついた。あたしはその肩を優しく撫でる。


「クレア、驚かせないで。セーラの部屋で何してるのよ」

「GPSがこちらに向かっていたから先回りしていたんだ」


 クレアがセーラに微笑んだ。


「セーラ、こんにちは」

「っ!」


 セーラが青い顔で体を震わせ、あたしに隠れる。酷く怯えている。


「あなた、セーラに何したの?」

「あたくしは何もしてない。おば様が何か言ったのではないか?」

「悪霊が憑いてるお姫様って?」

「さあ?」

「セーラ」


 しゃがんでセーラの顔を覗く。


「クレア姫様はね、悪霊なんて憑いてないから大丈夫よ」

「……」

「もしいたら、すでにあたしが呪われてるはずでしょう? でも、こんなに元気なのよ。ね? 大丈夫だから」


 セーラがあたしの手を握り締めて、俯き、ぶるぶる体を震わせ続ける。子供は素直だ。一度苦手になったら、ずっと苦手だ。あたしはクレアに振り向いた。


「クレア、執務室に戻って」

「あたくしはお前に用がある」

「何よ。さっきのことを謝りに来たの?」

「お前、あの中でよく避難できたな? どこにいたんだ?」

「どこだっていいでしょ」


 セーラからクレアを隠しながら、先に部屋へ入れる。


「中で待っててくれる?」

「やっ……」


 手を離そうとすると、セーラが怯えた顔であたしの手を握ってきた。だから、あたしは優しくセーラの手を包む。


「大丈夫よ」

「……」

「すぐに部屋に入って、あなたに字を教えるわ。紙とペンを用意しておいて」

「……ん……」


 セーラがそろそろと手を離した。あたしは腕を引っ込ませ、扉を閉め――クレアに振り向き、ぎっ、と睨んだ。


「セーラに何したの?」

「あたくしの質問が先だ」

「あなたの従妹でしょう? 優しくしてあげたらどうなのよ」

「何を言っている。あたくし、あの子達にはすごく優しくしてるじゃないか」

「あの子にとっては、それが悪魔の優しさに見えるのよ」

「そんなの知らない」

「銃なんて潜ませてるから」

「これは護身用だ」

「今朝なんてマシンガン持ってたでしょ。どういうつもりよ」

「そもそもお前があたくしの支度に来なかったのが悪いのではないか」

「あたしのせいなの?」

「そうだ。お前が仕事をサボったせいだ」

「ねえ、何度言えばいいの? ソフィアに両手を縛られてたのよ。助けてくれなかったのはそっちじゃない」

「あんなもの気合いでぶち破ればよかったんだ」

「あなたには出来るかもしれないけどね、あたしは貧弱なの。無理なのよ!」

「なぜ貴様が怒る。怒りたいのはあたくしだぞ!」

「怒る意味がわからないわ! 助けを求めたのに喧嘩に発展させたのはそっちでしょう!?」

「お前があたくしの元に来ないからだ!」

「だから縛られてたのよ!」

「そもそも縛られるお前が悪い!」

「なんですって!?」


 扉が開いた。


「やめて!!」


 セーラがあたしとクレアの間に入った。


「喧嘩しないで!」


 セーラがあたしを見上げた。いつも強気なその目は潤んでいる。


「お父様とお母様みたいに、言い争いしないで!!」


 あたしとクレアが黙った。


「……こんなときに……やめてよ……」


 セーラがあたしの制服に顔を埋めて、すすり泣き始める。あたしとクレアが顔を見合わせた。


「「……」」


 目で会話する。


 ――一時休戦よ

 ――仕方ない。


 あたしはしゃがんでセーラの顔を覗く。


「セーラ、悪かったわ」

「……こうしゃく、っ、れいじょうのまえで、っ、けんかなんて、ぐすっ、はしたないメイドが……」

「ええ。ごめんなさい。怒鳴って悪かったわ」


 セーラを優しく抱きしめ、背中を撫でる。クレアをチラッと見る。


「……セーラ」


 セーラの背中に、クレアがそっと触れた。


「あたくしも大声をあげてごめんね。怖かった?」

「……」


 セーラがこくりと頷いた。


「そう。それはごめんなさい」

「……っ……ながなおりじでよ……」

「「……」」


 嘘つきなあたしと嘘つきなクレアがにこりと笑った。


「ごめんね。ロザリーちゃん」

「いいわよ。あたしもごめんね。クレアちゃん」

「いいよ」

「ほら、セーラ、見た? 仲直りしたわよ」

「……」


 あたしをぎゅっと抱きしめてくる。


「セーラ、ここじゃなんだから、部屋に行きましょう」


 あたしはふらつきながらもセーラを持ち上げる。よいしょ。クレアを見る。


「……開けて」

「……ん」


 クレアが複雑そうな顔で扉を開けた。あたしが部屋に入り、クレアも入る。ソファーにセーラを抱っこしたまま座り、クレアが隣に座った。背中にとんとんと手を当てる。


「セーラ、ごめんなさい。本当に悪かったわ」

「……」


 顔を覗けば、涙目でむっすりむくれた顔。視線を逸らされる。なんだか罪悪感を感じてくる。


「セーラ、クレアがお人形遊びしてくれるって」


 セーラがあたしにしがみついた。クレアを見ようとはしない。


「……ねえ、セーラ、気になってたんだけど」


 背中をゆっくり、とんとんする。


「クレアのこと、怖い?」

「……」


 セーラが首を振った。


「セーラ、正直に言え」


 クレアが背もたれにもたれながらセーラを見た。


「あたくしが怖いか?」

「……」


 セーラが頷いたのを見て、あたしが訊いた。


「どうして?」

「……悪霊が、憑いてるから……」

「セーラ、それは嘘よ。クレアはね、悪霊なんて憑いてないのよ」

「……でも、みんな怖がってる。クレアお姉様のそばにいると、悪霊が呪ってくるって……。……それに、すごく気分屋で、怒らせたら、銃で撃たれるから、近づかないようにって、お母様が……」

「ほらね、日ごろの行いよ」

「あたくし、親族には銃を向けない」

「どうだか」

「向けないってば」

「わからないわよ。いらついたらさっきみたいに怒鳴ってくるかも」

「お前はばかか。子供相手に誰が怒鳴るものか」


 クレアがセーラの頭に触れると、セーラがぎゅっ! と縮こまった。


「セーラ、以前、ヴァイオリンを弾かせようとした時のことを気にしているのか? あれは、本当に純粋に、お前の弾くヴァイオリンが聴きたかっただけなんだ」


 セーラがあたしにしがみつく。


「リオンの誕生会の日、あたくしは舞台の裏にいたものでな。お前達の素敵な演奏をちゃんと聴くことが出来なかったから」

「……」


 セーラがクレアに顔を向けた。青い目と緑の目がはっきりと合う。


「あたくしの噂が、お前達を怖がらせてしまったらしい。ごめんね」

「……う、うちころしたり、しませんか……?」

「女神に誓おう。それはない」

「……」

「敬語も使わなくていい。従妹同士じゃない」

「……」


 セーラがこくりと頷いたのを見て、クレアがやわらかく微笑んだ。


「これからはもっと仲良くしてくれる?」

「……ころさない、なら……」

「殺しなどしない。大切な従妹だもの」

「……」


 セーラがちらっとあたしを見た。あたしはこくりと頷いた。セーラがクレアを見た。


「はい」

「これからもよろしくね。セーラ」

「……はい」


 クレアとセーラが握手した。しかし、セーラがすぐに離し、またあたしにしがみついた。


「ロザリー、しばらく部屋にいて。命令よ」

「専属メイドはどうしたの?」

「いいから、いて」

「セーラ、せっかくだからクレアに字を教えてもらったら? クリスマスカードの書き方も」

「……」


 セーラに睨まれた。なんてこと言うのよって目だ。


「クレア、セーラに優しく教えてくれない?」

「もちろん。セーラが良いなら」

「……」


 セーラがあたしにしがみつく。


「セーラ、今までクレアを避けてたんでしょう?」

「でも」

「今までの距離を縮められる、良い機会じゃない」

「……ロザリーも側にいて」


手を握られる。


「いいでしょう?」

「先生は二人もいらないんじゃない?」


従姉妹同士、水入らずの時間も必要だと思うし。


(……あたしは、馬小屋に行こうかしらね)


「セーラ、あたしね、用事があって……」

「用事って何?」

「あー、その、まだ仕事がのこって……」

「ここにいて」

「あたし……」

「何よ! いいじゃない! いてくれないと騒ぐわよ!」


 クレアがにやりと笑った。


「流石あたくしの従妹だ。ほれ、どうするんだ。ロザリーちゃん」

「どうするのよ!」

「あたくしの従妹が騒ぐぞ」

「騒ぐわよ!」

「どうするんだ?」

「どうするの!?」

「ああ、これは大変だ」

「騒ぐわよ!」


(……なんであたしが怒られてるの?)


「……はいはい。わかった。いる。いればいいんでしょう?」

「うん!!!!!!」

「クレア、セーラに字を教えてあげて。優しくよ」

「セーラ、お姉様とお勉強しよう。ペンと紙を持ってこい」


 セーラが頷き、立ち上がって机に走っていった。あたしとクレアが顔を見合わせて、クレアがにこりと笑って、あたしはため息をついた。



(*'ω'*)



 ――ソファーで眠るセーラの頭を撫でてから、部屋から静かに出ていく。しばらくしたら専属メイドが来ることだろう。廊下を歩きながら、クレアに振り向いた。


「ねえ、クレア。キッドの癖って知ってる?」


 クレアの目がぴくりと動いた。


「何?」

「教えてあげるわ。その代わり、馬小屋まで案内してくれない?」

「馬小屋だと? 行ってどうするんだ?」

「リオンの乗ってた馬がいる馬小屋ってどこ?」

「……」

「会いたいのよ。でも、その馬小屋の場所がわからないから」


 願いを叶えてくれるんでしょう?


「キッドの癖、教えてあげるから案内して」

「……あいつ、癖なんてあるのか?」

「寝癖がね、とにかくすごいのよ。寝たら絶対につくの。もう冗談かと思うくらいよ。キッドをからかいたいのなら、キッドの寝起きに突入することね。絶対に髪の毛に寝癖がついてるから」

「……」

「どう?」

「……たまにはお前の情報も使えるようだ」


 クレアが後ろに振り向いた。


「ついてこい。案内してやる」


(よし、きた)


 あたしはにやりとして、クレアの後ろについていく。クレアについていくままに歩いていけば、馬小屋にたどりついた。質のいい馬を扱っており、みんな綺麗だ。あたしの家のやつよりも綺麗だわ。馬小屋の前にいた兵士が敬礼した。クレアが兵士達に声をかける。


「ご苦労」


(リオンの乗ってたやつは……)


「こいつだ」


 クレアが止まった。あたしも止まる。立派な馬が繋がれたまま、ぼーっとしている。


「これはこれは、クレア姫様」


 馬の飼育係がぺこりとお辞儀した。


「ルートに御用ですか?」

「ああ」

「乗馬はお控えいただけますか? 足に怪我をしておりますので」


 あたしとクレアがルートの足を見た。包帯が巻かれている。


「散歩程度でしたら大丈夫ですよ。でも、あまり無理をさせないでください。戻ってきてから、少し様子が変で」

「変とはどういうことだ?」

「……なんと申しましょうか。……何かに怯えているような、そんな仕草をするのです」

「なるほど」


 クレアがチラッとあたしを見た。


「どうする? ルートと散歩するか?」

「ええ。少しだけ」

「ルート」


 クレアがにこりと笑った。


「一緒に歩こう」


 ルートがクレアの顔を舐めた。飼育係がぞっとした。クレア姫様の顔を舐めるなんて! ルートが殺されてしまう!


「うふふふ!!」


 クレアがけたけた笑う。


「くすぐったい!」


 飼育係が胸を撫で下ろした。


「よしよし、庭でにんじんをやる。だからそんなに舐めるな。うふふふ!」


 笑うクレアがルートの紐を掴み、外へ出す。馬小屋から出て、あたしを見る。


「ロザリー、どこに行く?」

「こっち」


 あたしはその方向に歩いていく。ルートがついていく。風に吹かれてルートは少し気持ち良さそうだ。あたしは進んでいく。クレアがルートを撫でながら歩く。あたしは進んでいく。使用人達が宮殿を掃除している。あたしは進んでいく。


 ――ルートが建物を見て、ぴたりと止まった。


「どうした? ルート」


 クレアが不思議そうな目で止まったルートを見る。


「お腹が空いたの?」


 ルートは戻ろうとした。クレアが撫でる。


「ルート」


 下水道に繋がる建物を見た途端、ルートが小屋に戻ろうとした。


「ルート、にんじんは?」


 あたしが差し出すと、ルートが無視して歩き出す。動物は正直者だ。


「……」


 歩きながらクレアを見る。


「クレア、やっぱり下水道に何かいる気がする」

「……ふむ」

「今までと同じよ。いるはずなのに、調べても何も出てこない。クレア、キッドならこういう時、どうしたと思う?」

「囮を使うとか?」

「そうよ。知り合い全員を囮に使うのよ。それを踏まえて、頭の中で作戦を百パターンくらい考えた上で、実行しやがるのよ」


 草が揺れる。ルートは小屋に向かって進んでいく。


「ロザリー、この後の仕事を全てキャンセルしろ」

「え?」

「二人で下水道に遊びに行こう」


 クレアがルートを撫でた。


「あたくしと行けば、何か見つかるかもしれない」


 ルートは振り返らず、まっすぐ小屋に向かって歩き続ける。



(*'ω'*)



 マールス宮殿の廊下にやってくる。クレアがペタペタと壁に触れる。


「おい、こいつ何も反応しないぞ」

「そりゃそうよ」

「よし、三週しよう」


 二人で柱部分を三週する。十二回目で壁が音を鳴らした。クレアが触れると、壁の開け閉めが出来た。


「よし、行くぞ。ロザリー」

「本当にここから行くの?」

「ここまでして何を言っているのかしら。ほら、早く来い」

「はー……」


 クレアと手を繋いで、壁の向こうへ飛び込んだ。まるですべり台のようになったそこに尻をこすらせて滑っていくと、下水道に到着した。


 綺麗に着地しやがったクレアがランプをつけた。


「ロザリー、いつまで尻もちをついているつもりだ」

「うるさいわね……」


 あたしは腰を上げ、辺りを見渡した。


「ここ、右に行ったのよ。それで、とにかく階段があるところを目指そうってなって」

「左は?」

「左は行ってない」

「せっかくだ。行ってない道も辿ってみよう」


 レインブーツを履いたクレアが歩き出す。クレアが髪の毛を結んでパンツを履いたら、キッドを思い出す。雰囲気が似てるのね。双子だし。あたしとクレアがランプの灯りを頼りに歩いていくと、広大な下水道が続いていた。ああ、なんて臭いかしら。鼻がひん曲がりそう。花を持ってきたら、花だってひん曲がるに違いないわ。上に戻ったらお風呂に入らなきゃ。


「泥水が続いているだけか」


 クレアが下水を観察する。足元にはゴキブリとねずみが走っている。


(……ねずみがいる……)


 ……あのねずみ、話しかけれそう。こっちを見て、止まってるわ。あたし達を観察してる。聞き慣れた言葉で話せば、相手してくれるかも。


「……クレア」

「ん?」

「その、ちょっとだけ、そっちを向いて、耳をふさいでてくれない?」

「何をする気だ? まさか、お前、ここであたくしを強姦しようとでもいうのか?」

「ばか。そんなわけないでしょ。すぐに終わるから。向こう向いてて」

「……ああ。そういうことか」


 クレアがうなずき、くるりと回って耳をふさいだ。


「花を摘みに行きたかったのなら、そう言え。はい。見てないから早く終わらせろ」


(違うっつーの)


 あたしは地面に香水をかけた。


「ちゅー」


(ねえ、いい匂い嗅ぎたくない? これ、香水って言うのよ。あんた達、知ってるでしょ)


 ねずみがじっとあたしを見た。


「ちゅー!」


(あたし、テリーって言うの! よろしくね!)


 ねずみが鼻をすんすんさせて近づいてきた。


「ちゅー! ちゅちゅっ!」


(ねえ、この匂いが強くする場所なんて知らないかしら? あたしね、そこに行きたいのよ)


「ちゅー!」


(あなたを攻撃なんてしないから、知ってるなら案内してくれない?)


 ねずみが鼻を地面にこすらせ、香水の匂いを嗅いだ。くんくんしている。ね。いい匂いでしょう?


「……」


 背中に視線を感じる。


「……」


 振り返ると、クレアが険しい顔であたしを見ていた。


「……」


 クレアがあたしに近づき、そっと額に触れた。熱はない。


「……」


 クレアの手が離れ、あたしを優しく抱きしめた。


「よしよし。恐怖のあまり、お前はおかしくなってしまったんだな。大丈夫。怖くないよ。怖くないよ。大丈夫だよ。よしよし」

「うるさい。お黙り。頭を撫でるな。邪魔よ。退いて」


 クレアの腕から抜け出すと、ねずみが鳴いた。ちゅちゅっ。


「っ」


 ねずみが走っていく。


「クレア、追いかけるわよ」

「ねずみをか?」

「いいから早く!」

「ねえ、お前ねずみと話せるの? ねえ」


 クレアとねずみを追いかける。ねずみが素早く走っていく。あたし達も走り、泥水を弾かせる。ねずみが通路を走り、封鎖されたフェンスの中に入っていった。


「あっ」


 クレアに振り向くと、クレアがマシンガンを構えた。あたしはそろそろと避けた。マシンガンが撃たれた。封鎖されていたフェンスに穴が空いた。


「あとで修理させよう」

「……怒られたら、あたしも一緒に謝るわ」


 あたしが先に入り、中に進んでいく。ねずみが待っていた。あたし達が近づくと、逃げるように走っていく。ちゅちゅっ。


 水の流れる音がひたすら耳に響く中、あたしとクレアが先に進むと、行き止まりが待っていた。


(あっ)


 ねずみが行き止まりの壁にくっつき、するすると壁の前で動き回る。


「……」


 クレアが壁にぺたりと触れた。何も無い。ただの壁だ。


「……」


 クレアが銃を構えた。撃つが、やはりただの厚い壁だ。銃弾は壁にめり込んでいる。


「……」


 クレアが動き回るねずみを見つめる。


「変だな」


 クレアが壁を睨む。


「ここ、なんか変だ」

「変って?」

「変な違和感を感じる。この壁、仕掛けでもあるんじゃないか?」


 クレアが蹴ってみる。しかし何も起きない。


「クレア、ここってどの位置なのかしら」


 クレアがGPSを見た。残念ながら電波は届かない。


「くそ。キッドの奴め。使えん道具だ。帰ってきたらクレームを入れてやる」


 クレアが辺りを見回す。


「任せろ。出口の位置さえわかればそこから逆算出来る」

「……出口までが辛いと思うわよ。ここ、結構広いから」

「上を目指せばいいのだな? よし、来た道を戻るぞ。ロザリー」

「ええ」


 あたしが返事をした途端、あたし達の影がとても大きくなった。クレアとあたしがきょとんとして、後ろを振り向いた。


 そこには、体がトカゲ。頭は人間の男。シワだらけの顔の、とても大きなトカゲ男が、あたし達を見下ろしていた。


「……」


 あたしの顔が青くなる。

 足が動かない。

 頭が男?

 何これ。

 トカゲなの?

 トカゲが変異してしまったの?

 どうして男の頭がついているの?

 しわだらけの顔は特定ができない。

 トカゲ男が足を動かした。

 巨大な足があたしに向かって下ろされる。

 下りてくるのが見えるけど、逃げられない。

 あたしの足が動かない。

 このままじゃ、あたし、ぺちゃんこに潰されちゃうわ。

 でも動かないのよ。

 どうしよう。

 足が動かない。

 トカゲ男の足が近づく。

 どうしよう。

 誰か、


 あたしを、


 誰でもいい。


 誰か、







 誰か、あたしを助けて。









 ――クレアがあたしを突き飛ばした。


「っ」


 トカゲ男の足の下から抜け出し、一緒に地面に転がる。


「あだっ!」


 あたしが悲鳴をあげた時点で、クレアが受け身を取って立ち上がった。青い髪の毛がひるがえる。あたしの手を引っ張り、無理やり立たせた。


「ひっ」

「あたくしの後ろにいろ」


 クレアが銃を構えた。


「命あるもの、必ず弱点がある。立派な見た目だが、中を掘り返せば意外と小さいかもしれない。ロザリー」


 クレアが声をあたしに向けた。


「あたくしから離れるな」

「……言われなくとも」

「よろしい」


 クレアがにやりとした。


「かかってこい! トカゲ男!」


 トカゲ男が足を鳴らして近づいてくる。クレアが頭を狙って撃ってみた。銃弾がめり込んだ。そして、中へと入った。


「なるほど。弾を吸収してしまうのか」


 クレアが足を撃った。トカゲ男の足から血が噴き出るが、すぐに傷口が再生された。


「なるほど。回復してしまうのか」


 クレアが尻尾に狙いを定めた。トカゲ男が気付いたのか、尻尾を振り回してきた。クレアがあたしの手を掴み、地面に引っ張った。また地面に体が転がる。あたしの顔すれすれを尻尾が通り過ぎた。ぞっと顔を青くさせると、クレアに再び手を引っ張られ、立たされる。トカゲ男が尻尾を避けたあたし達に振り向き、大きな口を開き、頭を突っ込ませ、噛みつこうとしてきた。


「ひえっ!」


 悲鳴をあげると、クレアがあたしを引っ張って走り出す。トカゲ男の口から避けた。クレアが銃を構えて、トカゲ男の頭をめがけて撃った。しかし、トカゲ男がすぐに顔を上げて、銃弾は頭をかすめただけだった。


「チッ」


 クレアの足が滑り止まる。


「頭から赤い血が出る。体からも赤い血が出る。ということは血が流れている。血が流れているなら、命があるものだ。無敵であることはない」


 クレアは考えた。きっとあのトカゲ男にも苦手なものがあるはずだ。それにしてもなんてしわしわな顔つきなのだろう。そうだわ。いいことを思いついたわ。クレアがベルトのポケットから別の銃弾を取り出し、銃の中に入れた。再び構える。トカゲ男が突進してくる。クレアが構わず撃った。撃った途端、男の頭の周りに赤い煙が広がった。クレアがにやりとする。


「赤い花の銃弾はいかがかな?」


 トカゲ男が悲鳴をあげた。ぶんぶんと頭を振り、壁に突進した。


「く、クレア!」


 クレアが構えた。


「なるほど」


 クレアが狙いを定めた。


「そこか」


 クレアがトカゲ男の頭の後ろをめがけて、撃った。その瞬間、とんでもない量の血が噴水のように吹き出た。あたしとクレアが上からトカゲ男の血を被った。トカゲ男がまた悲鳴をあげた。クレアがもう一度撃った。血が吹き出る。弱いところがわかれば、クレアは外さない。クレアの髪の毛が魔力によってゆらゆらと揺れ、トカゲ男の頭をめがけて撃ちまくる。


 ばきゅんばきゅんばきゅんばきゅんばきゅんばきゅんばきゅんばきゅん。


 まるで恋のキューピッドが恋する少年少女の胸に銃を撃ちかますように。


 ばきゅんばきゅんばきゅんばきゅんばきゅんばきゅんばきゅんばきゅん。


 トカゲ男が悲鳴をあげる。そして、急いで下水へ逃げていく。


「させるか」


 クレアが走り出し、銃を撃った。その瞬間、トカゲ男の目がきらんと光った。まるで、太陽の光のように。


「っ」


 クレアが直視し、トカゲ男が銃弾を吸収し、クレアの目が一瞬怯んだ隙に、トカゲ男は下水の狭い穴へするすると入っていき、その姿を消した。クレアが片目を押さえ、また銃を構える頃には、もうトカゲ男はいない。ものの数秒の出来事であった。


「……逃がしたか」


 クレアが銃を下ろした。


「くそ。目がひりひりする。急に光りだしたぞ」

「クレア、見せて」


 クレアの手を押さえて目をのぞき込む。少し充血している。


「……あたしの顔は見える?」

「見えるけど、……太陽の光を直接見た気分だ。ちかちかする。……くそ。あたくしとしたことが……」

「……」


 あたしはトカゲ男が入っていった穴を見る。とても小さな穴だ。あたしの手を突っ込ませたら、入る程度だ。なのに、あの巨体で、ここに入っていった。


「……あのトカゲ人間、大きさが変わるのかしら」

「変身でもするんじゃないか? そしてかよわい乙女を狙うんだ。ああ、なんて下劣なトカゲだ」

「……かよわいね……」


 クレアに振り向く。


「中毒者がいたことは確認できたわ。一度上に戻りましょう。あんたの目も気になるし」

「そうだな。引き続きここの調査も必要そうだが……」


 クレアが歩き出した。


「あれは、ただの兵士では相手にならん」

「どうする気?」

「作戦を立てよう。ああ、目がひりひりする。あのトカゲ、体の中にランプでも仕込んでいたに違いない」


 クレアとあたしが、鍵付きのエレベーターに向かって歩いていく。あれに乗ればあっという間に上にたどり着ける。フェンスの中から出ていき、あたしたちはエレベーターのある方向へと、進んでいった。







 ねずみが壁を見つめる。


 向こうから良い匂いがする。


 しかし、壁が厚すぎて行くことはできない。


 だから、ねずみは諦めた。



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