第2話 10月17日(4)


 17時30分。中央図書館前。



 トナトナトーナートーナー。


「到着です!」


 御者が馬を止める。


「お代は結構!」

「ラッキー!」


 レオが乗合馬車を下りる。そして振り向き、あたしに手を差し出す。


「さ、ニコラも」

「結構」


 手を無視して、自分で下りる。


「ひひーん!」


 誰も乗せてない乗合馬車が走っていく。それを見送り、レオとあたしが広場に体を向けた。


「ふむ」


 レオが帽子を深く被り直し、頷く。目の前には大きな図書館が見える。


「よし、ニコラ、行くぞ。本を探すんだ」

「どこのコーナーかしら」

「オカルトコーナーじゃないかな。ホラーとか、言い伝えとか。そういう類だろ」


 レオがあたしを見て、微笑む。


「さあ、行こう!」

「行きましょう」

「ジャック探索へ!」

「いざ!」

「「出陣!!」」


 レオとあたしが一歩を踏み込んだ、その瞬間、


「結構です!!!!」


 大きな、少女の悲鳴に近い声が聞こえ、レオが振り向く。


「ん」


 あたしも振り向く。


「……あ」


 一人の少女が、二人の少年に囲まれている。レオが眉をひそめた。


「どうやら、やることが出来たみたいだ」


 レオがあたしに視線を向ける。


「ニコラ、助けに行くよ」

「あんたが行って」


 あたしはレオの背中を押した。


「え?」

「行って」

「何言ってるんだ。君も来て」

「あたし」


 呟く。


「いない方がいいと思う」

「え?」


 その少女を見て、レオの背中を押す。


「行って。多分大丈夫よ。好感度上げてきなさい」

「好感度ってなんだよ。君も来るんだ」

「なんで」

「泣いてる女の子を慰めるのは、同じ女の子の使命だろ」

「大丈夫よ」

「いいから来るんだ。僕が行って余計泣かれたらどうするんだよ」

「いいから行ってよ」

「大丈夫。一緒に行こう」


 レオに腕を掴まれ、引っ張られる。


「ちょっと、レオ」

「いいから」


 いいわけない。見ても何も面白くない。


(憎さが増すだけ)


 胸のもやもやが増すだけ。


(あたし、ここから見てたいのよ)


 困ってる少女の泣き顔を見ていたいのよ。


(お前がその子を助けるところを、なんで間近で見なきゃいけないの?)


 何も面白くない。


「こら、君達、何やってるんだ」


 レオが手を離してあたしを傍に置く。そのまま俯き気味で声を張り上げると、少女を囲んでいた少年達がレオとあたしに振り向く。


「うん? なんだ? お前」

「関係ない奴は引っ込んでろでやんす!」


 長身の14歳くらいの少年と、背の低い少年が再び少女に振り向く。


「さあ、行こう。レディ。俺と共に」

「……本当に迷惑です……」

「兄貴、もう一押しでやんす!」

「君は貴族だったな! ヘンリー家を知っているか! 俺はあそこの家の人と、仲が良いんだ!」

「……顔は知ってます」

「よし! じゃあお茶でも飲もう! 大丈夫、俺の奢りだ!」

「離してください……」

「行こう! さあ!」

「……離してっ……」

「こら」


 レオの声が低くなり、少年の手首を掴んだ。少年が顔を上げる。レオを睨んだ。


「なんだ? お兄さん」

「怖がってる。無理強いは良くないな」

「アドバイスありがとう。しかし、一緒に時間を過ごせば愛が見えてくるはずだ。さあ、行こう! 美しく、たくましい俺と一緒に!」

「っ」


 少女が歯を食いしばり、その場で固まる。レオがそれを見て、少年の胸を突き飛ばす。


「おわっ!」


 少年がよろけた。


「兄貴!」

「なんだ。やろうってのか?」


 少年が喧嘩腰に手を鳴らすと、レオが少年を睨み、怒鳴った。


「馬鹿野郎!」

「「っ」」


 レオの気迫に、二人が黙った。


「レディを怖がらせて、何が愛が見えてくるだ! 笑わせるな!」


 レオが少女の前に立ち、大きな壁になった。


「男ならレディを怖がらせるな! 乱暴じゃない方法でレディが誘いに乗ってくれる技を身に付けてくるまで、この子には近づくな。好きなら出直してこい!!」

「あ、兄貴!」

「……くそっ! お前、この……」


 少年達がレオを睨むと、レオの青い目がぎらりと光る。


「「ひい!」」


 二人で悲鳴をあげて、走っていく。


「今日はこの辺にしてやる!」

「待つでやんす! 兄貴ー!」


 ばたばたと逃げていく二人の背中を見送り、レオが少女に振り向いた。


「大丈夫? 可憐なレディ」

「あの……ありがとうございました」


 少女が顔を上げた。レオが少女を見た。少女がレオを見た。お互いの目が合った。


 ――メニーとリオンが、出会った。


「……」


 見た瞬間、メニーが黙った。


「ん?」


 レオがきょとんと首を傾げた。


「どうかした?」


 メニーに優しく微笑んだ。


「僕の顔に何かついてる?」


 メニーが黙る。


「それとも、気分でも悪い?」


 メニーが黙る。


「大丈夫?」


 メニーの口が開いた。


「消えて」


 ――きょとんとした。


「うん?」

「消えて」


 メニーが低い声で言った。


「私の前から消えて」


 レオが、きょとんとする。

 あたしもきょとんとする。

 レオが、きょとーんとする。

 あたしも、きょとーんとする。

 レオがメニーを見て、あたしを見て、メニーを見て――きょとんとした。


「え?」

「メニー?」


 思わずあたしが声を出すと、メニーがはっとあたしに振り向いた。


「……お姉ちゃん……?」


 あたしの姿を確認する。


「お姉ちゃん……」


 あたしの顔を見て、だんだん表情が崩れていく。


「うえっ……」


 メニーの表情がぐちゃりと歪んで、


「ふえええええええん!!」


 一気に泣きだして、あたしに駆けてきた。


「テリーお姉ちゃん!!」

「わっ、と……」


 あたしに飛びついてきて、それを抱き止めると、メニーが泣き叫ぶ。


「いやあああああああああああああああああああ!!」

「メニー? ちょ、どうしたの?」

「あの人っ」


 メニーがレオに指を差し、全身全霊百万馬力誠心誠意全精力ありったけの力で、叫んだ。


「いやあああああああああああああああ!!!」


 がーーーーーーーーん!!


 レオが顔を青ざめ白目を剥いた。メニーはあたしの胸で泣き続ける。


「ええええええん!! ふええええ! えええええええん!!」

「メニー、大丈夫よ。ねえ、どうしたの。メニー」

「ええええええええええん!! うわああああああああん!! あああああああん!!」


 あまりの大きな泣き声に、今まで見たことない泣き方に、あたしでさえ目を見開き、メニーを抱きしめ、背中を撫でる。レオは白目のまま黙っている。硬直している。一人、寒い秋風に吹かれている。


「ちょっと、大丈夫? ねえ、メニーってば」

「ふええええええんっ……! ええええええん……! えええええええん!」

「……」


 レオは一人黙る。あたしはメニーの背中をぽんぽん撫でた。


「大丈夫よ。メニー。落ち着きなさい」

「んんんんんんんんっ……! っ! んんんんんん…!!」

「パニックになってるのよ。よしよし。大丈夫よ。ほら、あそこにいるのは、ただのハンサムな王子様」


 メニーがレオに振り向く。

 またメニーとレオの目が合う。

 メニーを見たレオが、何故かきょとんとした。

 メニーがまたあたしに顔を寄せて、叫んだ。


「いやああああああああああああああああああああ!!」

「……」


 レオがどんどん項垂れていく。あたしはメニーの頭を撫でながらレオを見る。


「……レオ」

「……」

「妹のメニーよ」

「妹!?」


 レオががばっ!と 顔を上げて、あたしを見た。


「君、妹がいたの!?」

「メニーよ。一緒に歌ってた」

「この子か!」

「怪盗パストリルに誘拐された」

「この子か!!」

「メニー、レオよ」


 促すと、メニーがあたしに抱き着いたまま、ぶんぶん! と首を振った。


「……今は挨拶出来ないって」

「……」


 レオがメニーを見て、あたしを見た。


「……妹?」

「義妹。血は繋がってない」

「……」


 レオが顔をしかめて、メニーの泣きわめく姿を見下ろす。


「……」


 レオが顔を上げて、またあたしを見た。


「……ニコラ、残念だけど、……今日はここまでにしよう」

「……そうね。その方がいいかも」

「……あー……」


 レオが唸りながら鞄から何か取り出す。持ち出したのは、ミックスマックスのストラップだ。


(……それはやめた方がいいんじゃ……)


「メニー?」


 レオがミックスマックスのストラップを手に乗せて、メニーにそっと差し出した。


「これは挨拶代わりに。可愛いだろ? ここ掘れワンワンっていう犬のキャラクターなんだ」

「……」


 メニーが横目で見て、手を伸ばした。


「気に入ってくれた?」


 メニーがストラップを掴んで、無言のまま、乱暴に、図書館の近くの池に大きくぶん投げた。


「あ」

「あああああああああああああああああああああああ!!」


 あたしが声をあげ、レオが悲鳴をあげて、池に走っていく。


「メニー! 君! このっ! ニコラ! 人の親切をよくも! 姉妹揃って! くそ! 僕のミックスマックスが!!」


 レオが慌てて池に飛び込んだ。


「うおおおおおお! 僕のミックスマックスー!!」


(いや、今のはあんたが悪いわよ)

(泣いてるレディに、ミックスマックスのストラップは駄目だって)


 呆れてため息を吐くと、びくっ、とメニーが体を揺らした。


「……メニー、大丈夫?」


 返事はせず、体を強張らせたまま、無言を貫く。全くあたしから離れない。


「転んだ?」

「……」

「怪我は?」

「……」

「……場所を変えましょう。馬車は?」

「……」

「ソフィア、今日いるかしら」


 メニーを引っ張って図書館へ歩くと、後ろからざわめく声が聞こえた。


「きゃ! ねえ、あれ、リオン様じゃなくって!?」

「あら! リオン様だわ!」

「おい! リオン様だぞ!」

「本当だ! リオン様だ!」

「うおおおおおおお! ミックスマックスーーー!」

「きゃー! リオン様だわ! かっこいい!」

「華麗に池を泳いでいらっしゃるわ!」

「ああ、なんて素敵なの!」

「ああ、男の俺まで見惚れてしまう!」

「なんてハンサムなんだ!」

「どこだ!? 僕のミックスマックス! あれ、夏季イベントの限定品なんだぞ! 畜生!」

「リオン様! きゃー! リオン様!!」

「ぐうううう!」


 リオンが池を泳ぐ。


「畜生……! 姉妹揃って」


 リオンが苦い顔をした。




「人を睨みやがって」




 リオンが池の深くに沈んだ音を背に、図書館へ入る。受付カウンターではソフィアが少しずつ図書館を閉める準備を進めていた。早歩きで歩いてきたあたしを見て、引っ張られて俯くメニーを見て、くすすと笑った。


「おや、喧嘩でもしたの? 図書館は18時まで。それと、お静かに」

「ちょっと座るだけよ」

「どうぞ」


 ソフィアが人が少ない席に手を差した。そっちへ向かい、メニーを座らせる。隣にあたしも座り、体を向き合わせて、未だにぐすぐすと泣くメニーの目にハンカチを押し付けた。


「ほら、全部出しなさい」

「んんっ……ふぅ……」


(泣き方まで綺麗なんて、いちいちむかつく奴……!)


 ハンカチをくるんと回し、次はメニーの鼻に押し付ける。


「ちーんして」


 チーン! とメニーが力む。


「もう一回」


 チーン! とメニーが力む。

 ハンカチをくるんと回して、メニーの鼻に押し付ける。


「もう一回」


 チーン! とメニーが力む。


「ラスト」


 チーン! とメニーが力む。

 鼻水だらけのハンカチを畳み、ポケットにしまう。しかし、メニーの涙は少し収まった。


「……」

「大丈夫?」


 メニーが首を振る。


「怖かった?」


 メニーが頷く。


「断ったのにしつこかったの?」


 メニーが頷く。


「そう」


 メニーの手を握り、頭を撫でた。


「今日は馬車で帰りなさい。また捕まえてあげるから」


 メニーがあたしの手を離さない。ぎゅっと握ってくる。


「メニー、屋敷に帰りなさい。もうそろそろ暗くなるから」


 メニーがじっと、うるんだ瞳であたしを見つめてくる。


「……や、やだ……」

「え?」

「……帰りたくない……」


(……は?)


「メニー」


 にこりと優しく微笑み、メニーの頭を優しく撫でる。


「帰らないと、皆、心配するわよ。あたしみたいになりたくないでしょう?」

「……きょ、今日だけ……帰りたくない……」

「どういうこと?」

「……お姉ちゃんといたい……」

「……」


 あたしは黙る。

 メニーがあたしの手を握る。

 その手を睨む。


(うっとおしい)


 その手を睨む。


(気持ち悪い)


 その存在を睨む。


(不快なのよ)


 その泣き顔も、涙も、全部、不快で不快で、堪らない。


「メニー、帰りましょう?」

「やだ……」

「メニー」


 その瞬間、メニーの腕が伸びた。体が前に倒れた。


(え)


 あたしに抱き着いた。


(っ)


 驚いて、あたしの声が出なくなる。メニーが言葉を絞り出すように言った。


「お姉ちゃんの傍にいたい……!」

「……」


 抱きついてくるその体温が憎い。

 ぐすぐす泣くその音が憎い。


「……」


 甘えれば何でも許されると無意識でやっているその行動が、憎い。

 憎くて憎くて、仕方ない。


「……」


 あたしの手が震える。


(ドロシー)


 あたしは頭でドロシーを呼ぶ。


(迎えに来て)


 あんたの親友が泣いてる。


(早く迎えに来い)


 魔法でこいつを屋敷まで帰せ。

 あたしから離れさせろ。


(うざい)

(気持ち悪い)

(うっとおしい)

(恨めしい)

(憎い)

(憎い)

(憎い)

(憎い)


「……」

「……」

「……」

「……」

「……」


 ――……。


 あたしの声が出ない。

 憎しみのあまり、声帯が黙り込む。


 ああ、ドロシー、早くして。早く。早くして。

 このままじゃ、あたし、このままメニーを、この手で、このまま白い首を握って、絞めて、このまま、このまま、



 本気で、こいつを殺してしまう。







 それでも、







 ドロシーは、来ない。誰も来ない。誰もあたしを助けてはくれない。




「……」




 あたしは大きく深呼吸した。一回。二回。三回。大きく深呼吸して、メニーの体を離した。メニーがあたしを抱きしめる手を力ませる。


「メニー」


 メニーの泣き顔を覗き込み、その目を見る。精いっぱいの笑顔と、優しい声を出す。


「ちょっと待ってて」

「……」

「待ってて。すぐに戻るから」

「……」

「ね?」

「……」


 メニーの手があたしを離す。あたしは立ち上がり、てくてく歩いてカウンターに向かう。ソフィアがあたしを見上げた。


「ソフィア、電話貸して」

「ん」


 ソフィアがカウンターの中にある部屋の扉を開ける。


「中の使っていいよ」

「いいの?」

「本当は駄目だけど、今は私しかいないから」

「……ちょっと借りるわ」

「これで一つ貸しね。ニコラちゃん」


 くすす、と笑ったのを無視して部屋の中へ入る。いくつか事務用の机が並べられており、一台だけ黒電話が置かれていた。受話器を持ち、番号に指をかけて、回して、戻って、回して、戻って、繰り返し、電話をかける。しばらく音が鳴り、相手が受話器を取った。


『はい』

「ニコラ」


 名乗ると、電話の相手がきょとんとした声を出した。


『うん? どうした?』

「じいじ、ちょっと問題が……」

『どこで犯罪を犯した』

「……犯してない……」


 疑いはさておき、本題を。


「メニーがちょっとトラブルにあって」

『ほう』

「今、傍にいるの」

『なるほど』

「馬車捕まえるって言ったんだけど……」

『……ふむ』

「……」


 あたしは優しいお姉ちゃん。


「その、……連れてっちゃ駄目? 一晩でいいの」


 ――悪いが、それはいかん。家の情報が洩れる可能性もあるからのう。

 ――そうよね。分かったわ。じいじ。


『……ふむ。メニー殿ならこちらの事情も分かっているだろう。口は堅い方かい?』

「えー? どうかしらー? ……結構緩かったかもしれない」

『まあ、いざという時は引っ越せばいい』


 じいじが優しい声を出した。


『連れておいで』


 ……。


「……。……、……。……ありがとう。……今から帰る」

『暗くなってきている。夜道に気をつけてのう』

「ええ」


 ……。


「……ありがとう。じいじ」


 受話器を置く。


(……断ってくれて良かったのに)


 なんて優しい声だったのかしら。

 今だけ、悪魔の声に聞こえたわ。


(……)


 もう一度受話器を持ち、番号に指をかけて、回して、戻って、回して、戻って、繰り返し、電話をかける。しばらく音が鳴り、相手が受話器を取った。


『はい、ベックスでございます』

「テリー」

『おっ……! お嬢様!?』


 ギルエドが一瞬声を強張らせ、固唾をごくりと呑んだ。


『何でしょうか。ちなみに、期間はまだ残っております』

「そのことじゃなくて、メニーがちょっとトラブルに巻き込まれたのよ」

『何ですって? トラブル?』

「そう。でね?」


 あたしは優しいお姉ちゃん。


「あたし、メニーが心配で。だから、一晩だけ宿泊先にメニーを泊めちゃ駄目?」


 ――いけません。迎えを寄こします。

 ――何よ。ギルエドったらケチね。でも仕方ないわね。


「募る話もあるのー。ねー? おねがぁーい!」

『……そうですね』


 ギルエドの優しい声が聞こえた。


『テリーお嬢様もいらっしゃることでしょうし、今夜くらいなら構いません』


 ……。


「……ああ、そう」


 ……。


「……ママは?」

『私が言っておきます』

「貴族がはしたないって怒られない?」

『一晩くらい、いい勉強だと仰るでしょう』

「……そう」


 あたしは受話器をぎゅっと握る。


「……ありがとう」

『メニーお嬢様は、それはそれは、前からテリーお嬢様になついていらっしゃいますからね。姉妹水入らず、久しぶりに、ゆっくりとお話をされてください』


 ――この役立たず。


「ええ。ありがとう。そうする」

『明日の朝に迎えの馬車を行かせます』

「……なら、9時半くらいに噴水前がいい」

『かしこまりました』

「……」

『……テリーお嬢様』


 ――やはり、お嬢様の邪魔になるのは良くありません。今夜迎えを行かせましょう。


「ん? 何? ギルエド」


 ギルエドの声にほんのわずかな希望が芽生えたが、聞こえたのは心配そうな声。


『お元気ですか? お腹を壊しておりませんか? 過呼吸は発作しておりませんか? ちゃんと睡眠はされておりますか? 虐められておりませんか?』


 あたしは顔をしかめた。ため息を吐く。


「……追い出したのはそっちでしょう? 元気よ。元気」

『はあ。……さようですか……』


 ほっとしたような息が、受話器から聞こえた。


『それでは、明日お迎えにあがります』

「……ええ。お願い」

『失礼いたします』


 希望もへったくれもなかった。受話器を置く。親指の爪を噛む。


(……クソ……)


 誰も止めない。誰も断らない。


(……最悪……)


 床を見下ろす。机の上にあったはずのペンが落ちている。


(最悪)


 指が口から離れ、あたしの足がペンを踏む。


(最悪)


 何度も踏む。


(畜生)


 何度も踏む。


(畜生!!)


 ペンが折れた。


「……」


 折れたペンを無視して、静かに息を吐いて、部屋から出る。扉を開けると、ソフィアがあたしに振り向いた。


「もういいの?」

「ええ。用は済んだ」

「そう」


 ソフィアが微笑む。


「20日、たっぷりと倍にして返してね」

「……出かけるだけよ」

「そうそう。二人でね」


 にんまりとするソフィアを背に、またメニーの元へ戻る。メニーがまだ小さくしゃっくりをしている。再び向かいあった隣の椅子に座り、優しいお姉ちゃんの顔でメニーの顔を覗く。


「メニー、一緒に帰りましょう。一晩だけなら、あたしの宿泊先も許してくれるって」

「……」

「その代わり、屋敷みたいな大きな風呂場も贅沢なご飯も無いわよ。いい?」

「……ん」


 メニーがこくりと頷く。


「行く……」

「……狭い所よ? 大丈夫?」

「行く……」


 メニーが立って、あたしの手を握った。


「……」

「……そう」


 頭の中で舌打ちをする。外では笑顔を浮かべる。


「なら、行きましょう」


 あたしも立ち、一緒に歩き出す。カウンターを通り抜ける際にソフィアに振り向いた。


「ソフィア、面倒かけたわ」

「じゃあね。二人とも」


 にこにこと大人特有の余裕な笑みを浮かべて、あたしとメニーに手を振る。メニーは振り向かない。俯いて、あたしの手を握り、あたしと手を繋いで、一緒に歩く。小さく、しゃっくりをしながら、また泣き出しそうな目で、俯く。

 あたしは振り向かない。まっすぐ道を歩く。メニーを引っ張る。


 やっぱり帰ると言わないか、そんなことを考えながら、忌々しい手を引っ張る。




 あたし達が外に戻る頃、レオは既にいなかった。




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