第18話 10月13日(3)

 30分後。三月の兎喫茶。



 静かな店内。珈琲の匂いが心地好さを覚える中、カウンターの中でサガンが呆れたようにため息をついた。


「運が良かったな。ニコラ」


 俺があそこの道を通り過ぎて、良かったな。


「アリスにきつく言っとけ。友達の前で気絶するなって。ったく。お前らのせいで今日もうちは赤字だ」

「ほんっっっとに助かりましたーーーーーー!!!」


 あたしは店の団扇をぱたぱた扇いで、うっとりするアリスの熱を冷ます。

 サガンが偶然通りかかりあたし達を見つけていなければ、あたしは地面に倒れてうっとりしたアリスを引きずって、どこか休めれる場所を探さないといけなかったのだ。


(助かった……! 本気で助かった!)


 顔を覗き込んで、顔の赤いアリスの肩を揺らしてみる。


「アリス、大丈夫?」

「はあ……! はあ……! 胸の高鳴りが止まらない……!」


(……キッドのせいだ。全部あいつのせいよ。よくもあたしの友達のアリスにキスをしてくれたわね……!)


 アリスの頭を撫でる。


「アリス、具合悪くない?」

「だ、大丈夫……! ああ、胸の高鳴りがすごい!」

「大変! サガンさん! アリスが胸の高鳴りがすごいって!!」

「一発殴っておけ」

「アリス! しっかりして! ああ、可哀想に!!」

「はあ……」


 サガンが呆れたため息をついた。


「ニコラ、なんか頼むんだろうな?」

「珈琲」

「甘めか?」

「はい」

「アリスは?」

「アリス、何か飲む?」

「き、キッド様を……じゅるり」

「サガンさん! 大変! アリスがキッド菌に襲われて、キッド中毒になっちゃった!! ああ、可哀想に!!」

「オレンジジュースにしておこう……」


 サガンが静かに飲み物を作り始めた。あたしはアリスの手をぎゅっと握り締める。


(アリスの目を覚まさないといけないわ。何か、何か気を紛らわせられるもの……)


 ああ、駄目だわ。周りを見ても、キッドグッズしかない!!


(この!)


 キッドグッズを一発蹴飛ばす。


(お前のせいよ! 全部お前のせいよ!)


 周りを見る。何か気を紛らわせられるものはないかしら。きょろり。


(……あ)


 あたしはそれを見て立ち上がる。


(そうだ。あれがあった)


 団扇を置き、とことこ壁に向かって歩き、アリスがいつもやっているように、手作りヴァイオリンを持つ。またとことこ歩いて、寝転がるアリスの傍に戻った。


「アリス」


 ヴァイオリンを構える。


「これ見て」

「んあ?」


 情けない声をあげて、真っ赤な顔のアリスがあたしを見上げる。あたしはにこりと微笑む。


「アリス、ヴァイオリン聴きたくない?」

「き……キッド殿下……ばんざい……」


(キッド菌に侵されてるわ。大変。あたしがアリスを助けるのよ!)


 あたしの目がきらりと光り、腕を引いた。


 ぎーーーこーーー!


「ぎゃっっ!」


 アリスがびっくーー! と体を跳ねさせ、耳を押さえた。


「やめてよ! こんな幸せな時に、なんて音なの!」

「アリス、目を覚ました!?」

「はっ! 私は一体何を……」

「ああ、良かった!!」


 あたしはアリスを抱きしめる。


「あたしやったのよ! アリスを助け出したのよ! やっぱりキッドじゃなくて、あたしがアリスの救世主なんだわ!」

「あらあら。ニコラがデレてるわ。よしよし」


 むぎゅっと抱きしめられたアリスがあたしの頭を撫でた。


「ねえ、どうして私達ここにいるの?」

「アリスが倒れてるのを見て、サガンさんが運んでくれたのよ」

「サガンさん! どうもありがとう!」


 サガンが片手を上げた。そしてオレンジを絞る作業に戻る。アリスがゆっくりと起き上がった。


「アリス、大丈夫?」

「平気平気」

「全てがキッド殿下に見える現象になってない? 大丈夫?」

「大丈夫よ。ニコラ! キッド様は一人だけだわ!」


 アリスが両手を握り締めた。


「ああ、かっこよかった……。うっとりしちゃったわ……」


 ぽー。


(ああ、アリスがまたキッドの妄想に侵されそう! あたしは友達のアリスを見捨てたりしない! アリスの気を紛らわすのよ!)


「アリス」


 呼べば、アリスが振り向く。あたしはヴァイオリンを構えた。


「何か弾いてあげる。何がいい?」

「うふふ。弾けるの?」


 アリスが小馬鹿にしたように笑った。


「そうね。じゃあ可愛いのをお願い」

「可愛いのね」


(……これ、ちゃんとした音は出るのかしら?)


 弓を動かして、確認してみる。


 でーえーえふーげーあー。


(……所詮は楽器もどきね)


 でも確かに、本物に近い音は出ている。


(これならいけそう)


 あたしはふっと息を吸って、


(こうだっけ?)


 弓と指を動かした。



 子猫踏んじゃった 子猫踏んじゃった

 子猫踏んづけちゃったら 逆立つよ

 子猫踏んじゃった 子猫踏んじゃった

 子猫はびっくり 仰天 驚いた

 ごめんね 子猫ちゃん 踏んじゃった

 親猫 びっくり 子猫ひっかいた

 猫は にゃんにゃん なーなー 猫かぶる

 可愛い猫ちゃん 猫撫で声で鳴く

 子猫 ごめんね ごめんね 子猫

 わざとじゃないの 許してね

 子猫 ごめんね ごめんね 子猫

 お昼寝邪魔してごめんね 猫ちゃん



 ぱちくりと、アリスとサガンが瞬きした。


(ん?)


 目を見開いたアリスが、手を上げた。


「わっ!」


 アリスがあたしに拍手した。


「すごい!」


 アリスが感動の眼差しをあたしに向けた。


「ニコラ、弾けるの!?」

「……ちょっとだけね。そんなすごいことでもないわ」


 肩をすくめて、元の位置にヴァイオリンを戻す。それからアリスの正面の席に座り直した。


「ねえ、ニコラ、他に何が弾けるの? 聴きたいわ」

「そんなことより」


 あたしは話題を逸らした。


「アリス、体調はどう?」

「もう平気よ」

「なら良かった。もうちょっとここで休憩してから行きましょう」

「ねえ、ニコラ、ヴァイオリン……」

「持っていけ」


 サガンがカウンターに珈琲とオレンジジュースを置いた。アリスが立つ。


「私が運ぶわ。ニコラは座ってて!」


 アリスがサガンを見た。


「これ、サービス?」

「なわけあるか。払え」

「ケチ!」


 サガンがフライパンを持ってアリスに構えた。アリスが慌てて席に戻ってきてあたしを盾に応戦する。アリスがサガンに向かって指を差した。


「ニコラ! 必殺技! 石になる!」

「しない。出来ない」

「大変よ! サガンさん! ニコラが石になれないって!」

「……早く持っていけ」

「はーい」


 サガンがフライパンを置いてため息。アリスがオレンジジュースと珈琲を運ぶ。最後にミルクと砂糖を持ってくる。


「はい。どうぞ、ニコラ」

「ありがとう」


 アリスがあたしを見下ろし、……ふと、怪訝な顔をした。


「……思ったんだけど、ニコラ」

「ん?」


 アリスが席に座り、声をひそめた。


「ニコラの家って、貧乏なの?」

「え?」

「あの……」


 アリスが眉をへこませた。


「失礼なこと言ってたらごめんね。その、ニコラって、いつも男の子みたいな服装してるでしょ。今日はニコラの初めての女の子の服が見れるのかなって、わくわくしてたんだけど……」

「あたし、パンツしか持ってないのよ」


(そろそろドレスが恋しい。……スノウ様のお言葉に甘えて買ってもらえば良かった)


 苦く笑えば、その顔を見たアリスの頭にぽこんとひらめき星が落ちてきた。何かを思いついたアリスがにこっ! と笑って、あたしの手を握った。


「ニコラ、やっぱり私の家おいで。これから。ちょっとだけでいいから」

「……別に、行くのは構わないけど……」

「決まり! これ飲んだら行きましょう?」


 アリスが不敵な笑みを浮かべて、オレンジジュースをこくりと飲んだ。



(*'ω'*)



 30分後。西区域。



 アリスの腕にはキッドのグッズが入った手提げバッグ。もう片方は、あたしと手を繋ぐ。手を揺らして、笑顔のアリスと足並みを揃えて、一緒に道を歩いていく。まるで小さな子供みたい。いいのよ。それが当たり前なのよ。あたし達はまだ子供だから、手を繋いでもいいのよ。アリスならそう言いそう。だからあたしと手を繋ぐ。


 花が揺れる。草が揺れる。木が揺れる。アリスが笑顔で歌う。


 ジャック、ジャック、切り裂きジャック

 切り裂きジャックを知ってるかい?

 ジャックはお菓子がだぁいすき!

 ハロウィンの夜に現れる。

 ジャックは恐怖がだぁいすき!

 子供に悪夢を植え付ける!

 回避は出来るよ! よく聞いて。

 ジャックを探せ。見つけ出せ。

 ジャックは皆にこう言うよ。

 お菓子をくれなきゃイタズラするぞ!

 ジャックは皆にこう言うよ。

 トリック! オア! トリート!

 皆でジャックを怖がろう。

 お菓子があれば、助かるよ。

 皆でジャックを怖がろう。

 お菓子が無ければ、死ぬだけさ。

 ジャック、ジャック、切り裂きジャック

 切り裂きジャックを知ってるかい?

 ジャック、ジャック、切り裂きジャック

 切り裂きジャックを知ってるかい?


「あはは!」


 アリスが笑う。あたしの手を引っ張って笑う。あたしと一緒に歩いて笑う。あたしの隣で笑う。何がおかしいのか分からないけど笑う。自分でも分かっていないことがおかしいと笑う。いかれたように笑う。楽しそうに笑う。笑いながら道を進む。進んで、進んで、進んで、歌って、奏でて、とことことことこ。二人でその道を進んでいけば、一軒の帽子屋にたどり着く。


 エターナル・ティー・パーティー。


 永遠のお茶会。


 あたしはその帽子屋を眺める。ショーウィンドウにはテーブル、ティーカップ。椅子の上に、シルクハット。どこかの庭のようなレイアウトに、じっと眺めていると、隣でアリスが笑った。


「そこでずっと眺めてる気?」

「変わってる作りだと思って」

「ようこそ。ニコラ!」


 アリスがドレスをつまんで、お辞儀する。


「終わらないお茶会へ」


 アリスがニッと笑い、扉を開けた。


「どうぞ。入って」


 アリスに促され、あたしがその中へ入っていく。店の中のレイアウトもやはり風変りだ。台に帽子が置かれて並んでいるところまでは普通の店と変わらないが、まるでどこかの庭でお茶会でもやっているような景色だった。

 様々な形の椅子が置かれ、その椅子にも値札のついた帽子が置かれていたり、飾られていたり、売り物ではなさそうな帽子が売り物だったり、入ってみると、異世界に来たような不思議な店内。


 その中で、窓際に帽子を飾っている一人の美しい女性がいた。その身に似合うドレスを着て、帽子の配置を決めている。ふと、こちらに気付いて、あたしを見る。


「あら?」


 そして、あたしの後ろから入ってきたアリスを見て、女性が女神のように微笑んだ。


「お帰り。アリス」

「ただいま。姉さん」

「……」


 思わず、声が出た。


「え?」


 漏れた声をアリスが聞き逃さなかった。ぎろりと睨まれる。


「ニコラ、私ね、人の心が読めるのよ。……今、姉さんのこと美人だと思ったでしょ。んで……似てないって思ったでしょ……」

「……義姉?」

「姉よ! 姉!! れっきとした血の繋がった姉よ!!」


 アリスがぷんすか怒り出すと、アリスの姉がくすくす笑う。


「アリス、お友達?」

「前に話したバイト先の新人さん! ニコラよ! ニコラ、こちらは私の自慢の姉さんの……」

「カトレアよ」


 カトレアがにこりと微笑む。相当な美人だ。あたしはお辞儀をした。


「初めまして。ニコラと申します」

「姉さん、紅茶入れて! ニコラと飲みたいの!」

「はいはい。これが終わったらね」


 ふふっと笑うカトレアは、どこかの富豪の娘と言われても不思議ではないほど魅力的だ。



 ――私ってね、劣等感の塊なの。どうしてだと思う? 

 ――それはね、完璧な姉さんがいるからよ。

 ――すごいのよ。あの人。人から愛される天才なの。姉さんが笑えば、皆が笑顔になる。姉さんが喋れば、皆が笑う。姉さん本当にすごいの。



 アリスが言っていた。



 ――嫌い。でも好き。



 アリスが言っていた。



 ――私はおまけ。



 出来の悪い妹で、誰にも相手にされない。



「アリス」


 手を握り締める。アリスがあたしに振り向いた。


「あたし、アリスと紅茶が飲みたいわ」


 アリスがきょとんとした。


「嫌だ。ニコラお腹空いてたの? 言ってくれたら良かったのに。安心して。クッキーもつけてあげるわ」

「アリス、帰ってきたのかい?」


 シルクハットからアフロのように髪の毛が溢れ漏れている男性が、作業部屋からひょこっと顔を覗かせる。アリスが微笑み、あたしの肩を叩いた。


「父さん、友達を連れてきたの! ニコラよ!」

「……ニコラです」


 挨拶をすると、アリスの父親が身を乗り出して、優しそうに微笑んだ。


「おお、これはこれは、よく来てくれたね。ニコラ。アリスの父のマッドだ。ここでは、誰でもお茶会をして楽しむ帽子屋を目指している。お茶会に来た気分で、どうかくつろいでくれ」

「ね? 言ったでしょ? うちはお茶を飲みながら帽子が選べるって」


 アリスが誇らしげに微笑んで、あたしの手を引っ張った。


「私の部屋を紹介してあげる! ニコラ! こっちよ!」


 アリスがあたしを連れて店の奥に入っていく。横に階段があり、そこを一段ずつ上り、二階へ行く。一本の廊下に繋がり、二番目の部屋の扉に、アリスが手を伸ばした。


「これが私の作業部屋よ。ニコラ!」


 にやりと微笑んで、扉を開ける。


「っ」


 あたしは目を見開いた。


(こ、この部屋は……)


 アリスの部屋を見る。机があって、ベッドがあって、棚があって、クローゼットがあって、ただ、他と違うのが、床。


「汚い!!!!」


 あたしは一歩下がった。


「足の踏み場がないじゃない!!」


 女の子の部屋とは思えない。


「服散乱しすぎ! 靴下によるそこら辺のぽい捨て! タオルの嵐! 食べ終わったお菓子の袋達! ぬいぐるみ達の森! 兎の集い! ここにも時計! あっちにも時計! こっちにも時計! リボンの大群! 枕と思いきやクッション! 食べかけのクッキー! 本はあっちらこっちらえっさほいさ! 遊んだ後のトランプ未処理の絵! 天井には……」


 キッドの写真。


 あたしは部屋に入ろうとするアリスの手を引っ張って、そののんびりした顔を睨んだ。


「アリス! 何よ! これ!」

「私、掃除苦手なのよねー。大丈夫。大股で歩けばいけるから」

「うるせえ!!」


 あたしは叫んだ。


「ゴミ袋を持ってきなさい!!」


 あたしは拳を握った。


「箒と塵取りと水の入ったバケツとデッキブラシと雑巾とゴミ袋を今すぐに持ってきなさい! 今すぐ!!」

「ええ……」

「早く!!」


 五分後、アリスが道具を全て揃えて持ってくる。


 あたしは部屋の窓を開けて、

 あたしは箒と塵取りでゴミを片づけ、

 あたしはお洋服を重ね集めて、

 あたしは水を床にばらまいて、デッキブラシで磨きまくる。


「うらうらうらうらうらうらうらうら!!!」

「おおおおおおおおおお!!!」


 アリスの目が輝いていく。


「ニコラすごい! ニコラすごい! デッキブラシの神!!」

「この馬鹿! 自分の住む部屋の掃除くらいしないと看守がお仕置きに来るわよ! 鞭打ちってね、すごく痛いのよ! 同じ階に住む奴が汚したら最後! 責任転嫁であたしのせいにされるんだから、ちゃんとしろ! 新人!!」

「何の話? 何の話? それ何の話? 新人って何?」

「うらうらうらうらうらうらうらうら!!!!」


 床とベッドの下に潜んでいた芋虫がのろのろと逃げて、騒ぎに気付いた眠そうな目の可愛い鼠がととと、と逃げ出す。机の中に隠れていたトカゲが部屋から廊下へ逃げ出し、アリスの部屋の窓から鳥が鳴きながら飛んでいく。

 気が付くと、アリスの部屋が素晴らしく美しく綺麗になっていた。


「ふう」


 汗を拭う自分が美しく感じる。


(久しぶりに、いい汗かいた気がする)


 アリスが目を丸くさせて、自分の変わった部屋を見回す。


「ええええええ!? 私の部屋って、こんなに広かったの!?」


 アリスが笑顔でくるりんと回る。


「すごい! 一回転出来る!」

「さて、服をしまうわよ。ここでいい?」

「あ、そこは……」


 腕を伸ばしたあたしに、アリスが言いかける。


「え?」


 アリスに振り向きながらクローゼットの扉を開けると、中から物があたしに向かって全部雪崩込んできた。どさささーーー! と残っていた服とベルトとリボンと紐と下着とキッドコレクションがあたしに襲い掛かる。


「ぎゃああああ!!」

「あーあ」


 アリスが惨劇に見舞われたあたしを見下ろす。あたしはアリスの物達の下敷きになったまま、面白そうにあたしを見下ろすアリスを、ぎろりと睨む。


「アーーーーリーーーースーーーー……」

「あはははははははは!! ニコラ! 大丈夫!? きゃははははは!!」

「ぐぬぬぬぬ……!!」


 ブチッ。

 あたしの何かがキレた。


「うらあ!」

「うおっ!?」


 アリスの物達をあたしの覇気で弾き飛ばし、あたしが起き上がる。アリスが真剣な表情で、ごくりと固唾を飲んだ。


「は、覇気で……物を飛ばした、だと……? こいつ、まさか……超スーパーサ……」

「ゴミ袋ぉ!!!!」


 そう叫んで三十分後、分別したゴミ袋がまとめられ、クローゼットに綺麗に整頓された洋服達を見て、アリスが感動の声をあげた。


「すごーい!」


 目をきらきらと輝かせて、綺麗になった部屋とクローゼットの中を見て、ベッドに顔を埋めて床に座り込むあたしに振り向く。


「ねえねえ! ニコラ! どんなお洋服があるか見えるわ! どれにハンガーがかかってるか見えるわ!」

「そうよ……アリス……。整理整頓はね……大事なのよ……でないと……看守が……鞭を持って……来るのよ……」

「かんしゅ? 誰それ?」


 アリスがあたしの頭に触れる。ちらっと見ると、アリスがリボンを持っていた。


「頭に乗ってたわよ。ふふっ!」

「……ねえ、アリス。この部屋、リボンとかベルトとか紐がやたら多くない? コレクションでもして集めてるわけ?」


 服よりも多いリボンやベルトに疑問を抱いて訊くと、アリスが笑った。


「リボンもベルトも沢山あった方が色々遊べるじゃない! ほら、このリボンなんてどう? 可愛いでしょう?」

「可愛いけど……」

「ニコラにあげようか?」

「似合う服がないからいい」

「そっか。残念」


 アリスがじいっとリボンを見つめる。あたしはアリスの机を見る。


「それと、何そのノートの山。そんなに勉強してるの?」


 山のように積まれたノート。端には『Alice』と名前がきちんと書かれているノート達。ゴミ袋に入れようとしたら、アリスに全力で捨てないでと言われて止められた。アリスがノートを一冊手に取り、あたしに微笑んだ。


「むふふ! 見たい? ニコラ」

「ん?」

「いいわ。見せてあげる! ニコラだから特別よ?」


 アリスがウインクして、あたしの隣に座り込み、ノートを広げた。それを見て、あたしは目を見開く。


(うん?)


 見たことのないデザインの帽子の絵が描かれていた。


(……何これ)


 まるで魔法のような絵。一ページ開くと、また帽子の絵が描かれている。一ページ開くと、また帽子の絵が描かれている。見たことある形の帽子も、見たことない変な形の帽子も、舞踏会で使えそうな素敵なヘッドドレスも、繊細に細かく雑に乱暴に丁寧に慎重に、絵に描かれていた。


「これ、アリスが描いたの?」

「そうよ」


 アリスがにこっと微笑む。


「可愛いでしょ。私の帽子」


 どこを開いても、帽子の絵。

 机には、同じノートが山のように積み重なっている。

 あたしはちらっと、掃除したベッドの下を覗く。

 ベッドの下にしまわれた箱の全てに、同じノートが重ねて入れていたはずだ。服を入れるはずのクローゼットの下の空いたスペースには、ノートが入った箱が置かれていたはずだ。

 部屋の隅には同じ箱が重ねて置かれている。

 ノート。ノート。ノート。ノート。


 全部、帽子の絵のノート。


「学校の教科書とノートは?」

「学校で使うものは、全部学校のロッカーに入れてるわ。だって、持って帰るの面倒くさいんだもん。重たいし」


 アリスが笑いながら肩をすくめた。あたしは箱に指を差す。


「あの箱にもノートが入ってるの?」

「うん!」

「あっちの箱にも?」

「うん!」

「あれにも?」

「うん!」

「全部、同じもの?」

「うん! 全部、私が趣味で思いついて描いた、帽子のデザインノート! ……えへへっ!」


 照れ臭そうに、アリスが頭を掻いて、またノートを開く。


「ほら、このヘッドドレスなんて素敵じゃない? 我ながら気に入ってるの」

「絵、上手いのね」

「帽子だけよ」


 アリスがどこか嬉しそうに、ノートを見る。


「ふとした時からずっと描いててね。いつか止まるんだろうなって思ってたんだけど、今もこうやってずっと描いてるの。普通は、暇な時って友達と遊んだりするでしょう? その時間も、私は部屋に引きこもって、ずっと絵を描いてるの」

「帽子の絵を?」

「うん」

「ずっと?」

「ずーーーっと」


 アリスがくすくす笑う。


「朝に目が覚めて、日が暮れて、夜になって寝るまで、ずっと描いてるの」

「それは嘘よ」

「それが嘘じゃないんだな」


 微笑むアリスに、あたしは顔をしかめた。


「だって、トイレはどうするの?」

「忘れるの」

「ご飯は?」

「忘れるの」

「眠気は?」

「忘れるの」

「お父様とお姉様は?」

「忘れるの」

「そんなわけない」

「そんなわけがあるのよ」

「……本気で言ってる?」


 あたしが訊くと、アリスが頷く。


「しょうがないでしょ? そういう体質なんだから」


 アリスが笑う。


「好きなことになると、周りが見えなくなるくらい、時間を忘れるくらい、何時間でも集中しちゃうの。逆にね、途中で区切っちゃったり、学校に行く時間とかに邪魔されちゃうと、イライラしたり、むしゃくしゃしたり、すごく気持ち悪くなって、具合が悪くなっちゃうの。だから、試験があったりすると、勉強しないといけないでしょう? 帽子は描かないって思って過ごすでしょう?」

「そういう時に限ってすごく不思議なんだけど、すごくいい帽子の絵が思いつくのよ。これがまた素敵なデザインでね。さっき見せたヘッドドレスもその時期」

「何ページも何ページも、何十ページ分も、帽子の絵を思いつくの」

「何もしてない時に」

「授業中に」

「アルバイト中に」

「毎日、どこかで、急に思いつくの」

「思いついたら最後。睡眠することも忘れるくらいずっと描いてる。手が痛くなるくらい、ずっと」

「気が付いたら朝になってて、手がものすごく痛くて、トイレにめちゃくちゃ行きたくなって、お腹がやばいくらい空いてる」

「変でしょう?」

「そのせいかしら。忘れ物も多いの」

「遅刻も多いの」

「お菓子屋は朝だから何とか行けるけど、でも毎日すごく眠いわ」

「今夜こそはやめよう。今夜こそは寝ようって思うんだけど、頭が言うこと聞いてくれないの」

「それを拒もうとしたら、体を具合悪くしてくるの」

「だったら従うしかないじゃない」

「ニコラが帰ったら、多分また描くんじゃないかな」

「ねえ、どう思う? ニコラ」

「私のこと、変だと思う?」


 ――ふふっ。


「あはははははははは!」


 アリスが笑う。おかしそうに笑う。楽しそうに笑う。アリスは、いかれたように笑っている。あたしはページを開いた。


「変じゃないわ。誰だって、そういうのあるわよ」

「ふふっ。そうかな」

「アリスの個性だわ」


 アリスが微笑んだ。


「……個性」


 アリスがリボンを掴んだ。


「これ可愛い」

「ん、どれ?」


 アリスがリボンを離して、あたしの開くノートのページに目を向けた。


「これ」

「ああ、それね」

「可愛い」

「こっちなんてどう? ニコラに似合いそう」

「素敵」


 心からそう思う。


「……欲しいわ。これ」

「……そう思う?」

「思う」


 頷いて、アリスに顔を上げる。


「アリスがデザインした帽子は売り場にないの?」

「……あのね」


 アリスが気まずそうに俯いた。


「まだ作れないの」


 アリスがノートに描かれた帽子を眺めた。


「形が複雑すぎて、父さんが無理だって」


 アリスがページをめくった。


「でも、可愛いと思うのよね」


 あ、これ可愛い。あたしの目に留まった帽子は、ノートに閉じ込められている。


「正直、まだ技術が足りなくて、私も作れないの。絵を描くことならいくらでも出来るんだけど、作ることに関しては、私は向いてないみたい。寸法も上手く測れなくて、結局失敗して終わるの。だから、まだ作れない。父さんに頼んでも、デザインがめちゃくちゃすぎて無理の一点張り」


 アリスの目が、切なそうに薄くなる。帽子の絵をじっと見つめる。


「形に出来たら、絶対に可愛いのに」


 ドレスを描いた子は認められて、私は認められない。形に出来ないから、ただの落書きで終わってしまう。そんな無意味なこと、やめてしまえたらいいのに。


「でも、描かないと気持ち悪くなるのよ」

「頭の中が、提案とひらめきでもやもやして」

「頭の中で、提案とひらめきがくるくる回って、息を止めるの。また息を吐けば、そのことが頭から離れられなくなる」

「私の頭が誰も提案してない帽子で埋め尽くされて」

「どうしようもなくなって」

「絵に描くの」

「描いたら頭から吐き出されるから」

「気持ち悪くなったら、そうしてる」

「そしたら、やっと私は解放される」


 夜遅くに突然思いつくこともあれば、

 早朝に突然思いつこともあれば、

 休日はそのせいで一日が終わる。

 一日中ひらめいてひらめいて進んで進んで頭が整理しきれなくてひたすら絵に描いて、気持ち悪くならないように、脳からひらめきを吐き出して吐き出して吐き出して吐き出して吐き出して吐き出して、


「完成」


 アリスがノートのページをめくった。斬新な帽子の絵が描かれている。


「私ね、今、帽子を作ってくれる会社を探してるの。私のデザインした帽子を作ってくれて、それをうちの店で売るのよ」

「それがアリスの夢?」

「うん!」


 アリスが元気に頷いた。


「それで死ぬまで、私は帽子の絵を描き続けるの!」


 これが私の絶対幸福。アリスがにやりとした。


「ねえ、ニコラ、私、嘘は人並みにつくけど、なるべく約束は守ろうとするのよ。ニコラの帽子は、私が絶対にデザインして、いいものを作ってあげるわ」

「ええ。ぜひそうして」


 これ、欲しい。


「ねえ、アリス。あたしは純粋にすごいと思うわ。あたしはこんなこと出来ないもの」

「別にすごくないわよ。絵を描いてるだけだもん。……そうだ。ニコラ、一緒に何か描いてみようよ」

「あたし、絵は苦手なの」

「うふふ。いいじゃない。どうせ全部落書きなんだから、ニコラの落書きが増えたところで困りはしないわ!」


 そこでアリスが気が付いた。


「ところで紅茶まだかしら」


 アリスが立った。


「ニコラ、ここにいて」

「ん」

「姉さん!」


 アリスが大声をあげる。


「紅茶まだー!?」


 アリスが扉に歩き出す。


(……すごい)


 その帽子の絵は、見れば見るほど、奇抜で、見たことのないデザインで、それでいて、魅力的な帽子達に、あたしですらも目を奪われる。


(これが落書き?)


 嘘でしょう?


(だって、これが売り物なら、あたしは常連になるほど通いつめて買ってるわ)


 なんて素敵な帽子達。絵にとどめられた姿。


(他にどんな帽子が……)


 ぱらりと、次のページをめくってみる。すると、


(えっ)


 あたしはその絵を見て、目を見開く。一ページだけの、秘密の一枚。見てはいけない、そのページを見てしまったようだ。


(……え?)


 それと同時に、アリスが扉を開けた。


「あ!」


 アリスが声をあげる。


「ダイアン兄さん!」

「やあ、アリス」

「っ」


 あたしはノートを閉じた。


「……え? ……部屋が綺麗になってる……だと……?」


 ダイアンに戦慄が走る。慌てて下に向かって大声を出した。


「大変だ! カトレア! 竜巻が来るぞ!!」

「ちょっと、どういう意味よ!」


 ダイアンがくすっと笑い、部屋の中にいるあたしと目を合わせる。


「やあ。こんにちは、ニコラちゃん」

「こんにちは。ダイアンさん」

「アリスの部屋、綺麗になる前、見た?」

「……あたしが掃除したんです」

「だと思った! こら! アリス! 友達になんてことをさせるんだ!」

「違うもん! 私だって掃除出来るもん! 違うもん!!」


 アリスが否定すると、ダイアンが笑い、アリスの頭を撫でて、もう片方の手に乗せたトレイをアリスに渡した。


「これはカトレアから。落ち着いた頃にニコラちゃんと美味しく飲みなさいってさ」

「あ、ミルクティー! やったぁ!」

「カトレア手作りクッキー付き。一枚もらっていい?」

「どうぞ」

「ありがとう」


 ダイアンがクッキーを一枚食べた。


「というわけだ。俺は届けたよ」

「ありがとう。ダイアン兄さん」

「楽しんで」


 ダイアンが微笑み、アリスの部屋の扉を閉めた。アリスが机にトレイを置く。


「ニコラ、姉さんのクッキー美味しいのよ。一緒に食べましょう!」

「そう。楽しみ」


 ところで、


「ねえ、アリス」

「うん?」

「つかぬことを訊いてもいい?」

「うん。何?」


 アリスがカップの用意をする。


「答えたくないなら、答えなくていいわ」

「あら、何かしら? 心理テスト?」

「アリスって」


 あたしは訊く。


「キッド様が、好きなのよね」

「だぁいすき!」


 へにゃりとアリスの頬が緩む。


「じゃあ」


 あたしは訊く。


「ダイアンさんのことは?」


 アリスが振り向いた。

 あたしが見てたノートを見て、ちらっとあたしを見て、くすっと笑って、……答えた。


「片思い」


 アリスがトレイをカーペットの上に置いて、ティーカップにミルクティーを入れた。


「ニコラに話したことあるでしょう? 私、彼氏はいないけど、好きな人ならいるのよって」


 アリスがティーカップをソーサーに置いて、あたしに差し出した。


「砂糖は?」


 アリスに訊かれて、あたしは砂糖を入れる。スプーンでかき混ぜる。


「一目惚れだったの。姉さんが家に連れてきた時に、すぐに好きになって。それからずっと」


 ……。


「……三年くらいかしら。兄さんは私を妹のように可愛がってくれるから、それならそれでいいやって。だからね、私、他の男の子には興味無いの。……ダイアン兄さんだけ」


 でもね、ニコラ、


「私はなんだかんだ言っても、結局姉さんが大好きなの」

「大嫌いな時もあるけど、父さんのことも、姉さんのことも大好き」

「二人のこと、心から愛してる」

「だから、傷つけようとは思わない」

「私さえ、何も言わなければ、誰も気付かない」

「胸が苦しくなっても、私一人が泣けば誰も気付かない」

「言葉にしなければ、誰も気付かない」

「私、それで幸せよ」

「姉さんが幸せになってくれたら、私はそれでいい」

「それも幸せの一つだし、私は私で、また好きな人が見つかるかもしれない」

「でも、そんなすぐには諦められないのよ」

「期待して、違って、期待して、勘違い」

「恋ってその繰り返し」

「だから面白いのよ」

「私はそれでいい」



「どうせ結婚なんて出来ないんだから」




 アリスの言葉を、あたしは顔をしかめた。


「アリスだって、結婚出来るわよ」

「だって、結婚しちゃうと子供が欲しくなるでしょう?」

「子供?」

「うん」


 アリスが頷く。


「だから、結婚出来ないの」


 あたしは眉をひそめた。


「アリス、子宮の病気なの?」

「健康だって言ってるでしょ」


 アリスがミルクティーを飲んだ。


「はあ。美味しい……」


 アリスが頬を緩ませる。


「好きな人がいると、その人の子供が欲しくなる。女の本能よ」

「……ならいいじゃない。子供くらい作れば?」

「ニコラってば、簡単に言ってくれるわね」


 アリスがまた笑った。


「結婚出来ないっていうか……私の場合、好きな人を作っちゃいけない……に、なるのかしら?」

「……なんで?」

「だって、赤ちゃん産みたいって思っちゃうじゃない」

「産めばいいじゃない」

「駄目よ」


 アリスが笑う。


「迷惑かけちゃうじゃない」


 アリスが笑う。


「子供が、困るかもしれないじゃない」


 アリスが笑う。


「だって」

「私は」

「ちょっとだけ」

「少しだけ」

「ちょびっと」

「すごく」

「かなりの」

「人間としての」


「 欠 陥 が 」



 アリスが、あたしを見つめる。

 あたしは、アリスを見つめる。

 アリスは微笑んでいる。

 あたしはそこでようやく気付いた。


 笑ってない。




 この子、目が笑ってない。




「ニコラ」


 アリスがティーカップを差し出した。


「乾杯しましょう!」


 アリスが笑顔を浮かべる。


「何でもない平和な休日に」


 アリスがティーカップを持つ腕を上げた。


「乾杯!」


 びしゃっ、と、アリスのティーカップからミルクティーが零れて、アリスのドレスにかかった。アリスの顔が青ざめる。


「あぎゃあああああ!! 大変!! 私のドレスに大ダメージが!! ああああ! ドレスが!! 姉さんに怒られる!! ニコラ! どうしよう!!」


(……?)


 普段のアリスに戻った。


(……?)


 アリスが喚いている。


(……?)


 今、アリスが、冷たい目をあたしに向けていた。


(アリス?)


 あたし、何か言っちゃった?


「アリス、怒ってる?」

「困ってる!!」


 アリスがドレスをつまみながら、立ち上がった。


「ニ、ニコラはここにいて!」


 アリスが大声を出した。


「ねえさーーーーん!! ドレスがーーーー!!」

「うるさいわよ! アリス!」

「ひえええええん!!」


 涙目のアリスがばたばたと部屋から出て行った。部屋には、ぽかんとしたあたしだけが残された。



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