第8話 騎士が忠告しましょう(1)


 ドアをノックする。誰も出てこない。あたしはもう一度ノックする。出てこない。


「メニー?」


 勝手に扉を開ける。メニーが手鏡を持って自分を見つめていた。あたしは腰に手を当て、鼻息を外へ追い出す。


「メニー、パン屋に行くの。何か買ってくる?」

「………」

「メニー?」


(こいつ、自分に見惚れてあたしを無視してやがる…!)


 イラっとした気持ちを隠すために、にこりと笑う。


「メニーったら、お年頃なのね! いいわ! 猫のパンでも買ってきてあげる! 待ってて!」

「にゃー」


 ドロシーがメニーの部屋に入り、メニーの足元に歩いていった。


「にゃーあ」

「行ってくるわね! 愛してるわ! メニー!」


 そう言って、思いきり扉を閉めてやる。メニーは、手鏡を見るだけ。


 何も答えない。






(*'ω'*)






 11時。


 ミセス・スノー・ベーカリーに入る。今日も焼きたてのパンとバターの良い匂いが店内を充満していた。客は、一人もいない。厨房から従業員が出てきた。


(あ)


「どうも。いらっしゃいませ」

「あの」


 あたしは従業員に近づいた。


「ニクスいますか?」

「ああ、君かい? ニクスの友達ってのは」


 従業員が笑顔を浮かべ、手で扉を差す。


「丁度焼きあがったところさ。あっち。どうぞ、入って」

「ありがとうございます」


 差された方向に向かって進み、扉を開ける。中は厨房。従業員がせっせと働き、中央に置かれた長い台に、焼きたてのパンが置かれていた。

 台の前にはニクスと店の店長が立っていて、出来たてであろうパンを眺めていた。


「うん。素晴らしい。ニクスは優秀だな」

「本当ですか?」

「ニクス」


 売り場にいた従業員がひょこりと顔を覗かせて、ニクスを呼んだ。


「お友達が来ているよ」

「あ、テリー!」


 ニクスがぱっと目を見開いて、あたしに歩み寄った。


「良かった。今出来たんだ」

「その大きな山型食パンのこと?」

「そうだよ。さあ、来て」


 ニクスがあたしの手を握って引っ張り、台の前に連れて行く。そして、台の上にあった長い包丁を手に持った。


「ちょっと待っててね。テリー」


 ニクスが柔らかそうなパンを包丁で切る。一人分サイズがぽて、と落ちた。


「さあ、出来上がり」


 包丁を置いて、ニクスがパンをあたしに差し出した。


「食べて。テリー」

「毒はついてない?」

「ついてないよ。失礼だな」


 あ、でも、


「僕の愛はたくさん詰まってるよ。食べたらあら不思議。惚れ薬代わりになって、僕に心を奪われてしまうかもしれないから、気を付けて」

「何言ってるんだか。ジャムでもつける?」

「100ワドル払う前に、一口でもいいから食べてくれない?」

「ええ。いただくわ」


(さて)


 ニクスの作ったパン。


(ふん。店長と一緒に作ったからって、あたしの舌を舐めないでもらいたいわね)


 不味かった時用に、あたし、実はポケットに胃薬を仕込んでるのよ。


(さあ、いざ尋常に勝負!)


 はむ、と作り立てのパンを噛むと、小麦の味が口の中にわーーーーっと広がる。


(うっ…!)


 あたしの目が見開かれる。


(柔らかな白パン。噛めば噛むほど小麦の味が広がる濃厚かつ愉快なハーモニー…だと…!?)


 唇を舐める。


(………美味)


 驚愕の美味しさに、唾が溢れてくる。


(な、なんてこと…! このあたしの口が…止まらないなんて…!)


 はっ!


(ニクスが真剣な目で見てる!)


 はっ!


(従業員共からの真剣な眼差しを感じる!)


 はっ!


(このあたしが、こんなに早く、食べ終わってしまった…!!)


「ど、どう…?」


 ニクスが不安げに、あたしを見つめる。


「どうだった…? テリー…」

「………………」


 ニクス。


(ふん。なかなかやるじゃない)


 あたしはにこっと笑い、12歳のスイッチを入れた。


「ニクス、すっごく美味しい!」

「え、本当に?」

「ええ! もっと食べたいくらい!」

「や…やった!」


 ニクスが拳を握り締めると、従業員達もほっとしたように頬を緩ませ、仕事に戻った。


「ねえ、テリー、本当? 本当に美味しい?」

「とても美味しいわ。本当よ」

「良かったな。ニクス」


 店長がニクスの背中を叩いた。


「お前が頑張った勲章だ。そうだ。これからはニクスにもパンを作ってもらおう。給料もその分、上げてあげるよ」

「え、そ、そんな…」

「ニクス、お友達の美味しそうに食べる顔を見ただろう? お客さんは、美味しいパンを求めるものだ。ニクスになら、もっと色んな人を笑顔に出来るよ」

「でも、あの、足手まといになったりしたら…」

「大丈夫。ニクスが店に来てくれて、とても助かっているんだよ。これからも頑張ってくれるかい?」

「あ、あの、…はい。あの、頑張ります…」


 会話を聞いてた従業員たちがふふっと笑って、手を動かした。あたしでも分かるほど、空気がなごんでいた。ニクスがあたしに振り向く。


「テリー」

「良かったわね。ニクス」

「うん」


 ニクスが嬉しそうににやけて、俯いた。


「僕、これからもここで働けるみたい…」


 ニクスが顔を上げて、あたしに笑顔を浮かべた。


「これからは、テリーに美味しいパンを作れるね」


 ニクスはいなくなる。


「このお嬢さんだけじゃないさ。ニクス、お前のお父さんにも作れるぞ」

「ああ、そう。お父さんにも!」

「そうだ。これからずっと作れるぞ」

「僕、頑張ります!」


 覚悟を決めたニクスは、いなくなる。


「テリー、僕、頑張るよ」


 笑っているニクスはいなくなる。

 あたしはニクスに微笑んだ。


「このパン、買うわ。いくら?」


 言うと、ニクスが首を振る。


「いいよ、これはタダであげる! 試作品だし。店長さん、いいでしょう?」

「ああ、もちろんだ!」

「ほら、テリー。昨日のおもてなしのお礼。あげる!」

「それは駄目よ。ニクス」


 あたしは笑顔で断る。


「これは商品よ。ニクスの作った商品。あたし、ニクスのパンが欲しいわ」

「そんな、いいよ」

「お願い。買わせて」

「………」

「いくら?」

「……えっと」


 ニクスが、ちらっと、店長に目をやる。店長が微笑んで、肩をすくめさせた。


「この大きさだと、売り場で置いてるものの、十個分だな」


 それを聞いたニクスがあたしに振り向き、言いづらそうに口を開けた。


「1000ワドル…」

「あら、そんなものなのね。いいわ。いただく」

「………」

「なんて顔してるのよ。ニクスったら」


 申し訳なさそうなニクスの頬を撫でる。


「あたし、パンを食べたからあんたに惚れちゃったみたい。女は男に貢ぎたい生き物なの。貢がせてくれる?」

「…男?」


 店長が眉をひそめた。


「あ、テリー、あの、その事なんだけど……」

「冗談よ。惚れてないから。あたしとあんたは友達。ね、そのパン貰える?」

「あの、それはいいんだけど、あのね、僕…」

「1000ワドルね。袋に入れて。向こうで支払うから。それと、動物のパンも欲しいの」

「あ……」


 ニクスが何かを言いかけ、首を振って、頷いた。


「うん。わかった」

「お願いね」

「…ありがとう、テリー」

「なんでお礼を言うの? あたしはお客さんよ」

「ふふっ。そうだった。でも、ありがとう」


 ニクスが嬉しそうに頷く。


「本当にありがとう」

「袋、いるか?」


 従業員が袋を見せる。ニクスが頷いた。


「あ、いただきます!」


 ニクスが袋を取り、パンを袋に入れる。店長も横から手伝う。長い山型パンが、長い袋に入れられる。ニクスは楽しそうに笑う。嬉しそうに笑う。


 その笑顔は、間違いなく本物だ。


(じゃあ、なんで?)


 あたしの疑問は消えない。


(ニクスは、これからもここに居座ると言っている)


 店に受け入れられて、ニクスは嬉しそうにしていた。


(ここは、ニクスがいられる職場。空気)


 でも、ニクスはいなくなる。


(分からないけど)


 そんな気がする。


(でも)


 いなくならないかもしれない。


(でも)


 何なのだろう。この違和感は。つっかかるような、この感じ。


(まだ、再現は終わってない)


 約束は取り付けていない。


(ねえ、ニクス)



 何が、あったの?




「テリー、動物のパンだっけ? どれにする?」



 山型食パンが顔を覗かせる袋を抱えたニクスが、にかっと笑った。







(*'ω'*)




 店から出る頃には、既に客足が増え、店内が少し盛り上がっていた。あたしはパンの袋を抱えて、ミセス・スノー・ベーカリーから離れ、あたしは噴水の縁に座った。


(…お腹すいた)


 顔を覗かせるニクス特製山型食パン。膝に袋を置く。手袋を外して、パンをちぎった。そして、パンに噛みつく。


(はむ)


 もぐもぐ食べる。


(うん。まだ暖かい。美味)


 ぱくりと食べる。


(うん。柔らかい。美味)


 寒い外で食べても、ニクスのパンは暖かい。ジャムもチーズもウインナーも何もつけてないのに、このパンは、ものすごく暖かくて、どのパンよりも美味しく感じる。味が濃厚で、噛めば噛むほど小麦の味が口の中いっぱいに広がる感覚。


(過去は変わってる)

(ニクスはパン屋でなんて働いてなかった)

(サリアとベーコンチーズパンなんて、あたしは食べなかった)

(毎日、こうやってパン屋にも出かけてない)

(でも、別の用事で出かけてはいた)

(毎日、夜の21時。ニクスと会ってた)

(一日中、屋敷ではレッスンがあったから)

(作法のレッスン)

(ヴァイオリンのレッスン)

(お勉強)

(家庭教師が毎日入れ替わる)

(メニーが毎日怒られてて)

(メニーが毎日こき使われてて)

(アメリのことは嫌いで)

(ママのことも嫌いで)

(レッスンはどれもつまらなくて)

(パーティーでは嫉妬と喧嘩ばかりで)

(全部嫌になって)



「テリー」

「ニクス」



 その時間だけが、あたしの時間。



「ニクス」

「テリー」



 氷の上を、二人で回る。



「テリー」

「ニクス」



 たった二人だけの舞踏会。



「ふふっ」

「うふふふ!」



 笑い声の絶えないパーティー。



「テリー、雪だるまを作ろう」

「ニクス、かまくらを作ろう」

「素敵」

「素敵」

「あったかいね。テリー」

「あったかいわね。ニクス」



 ニクスとあたしは友達だった。

 ニクスは唯一のあたしの理解者だった。

 あたしはニクスの傍に居た。

 ニクスは事情を訊かなかった。

 あたしがいくら泣いても、いくら怒っても、いくら笑っても、ニクスはただ、あたしに笑顔を浮かべた。



「テリー」

「ニクス」



 手を繋いだ。



「明日は、良いものをもってきてあげる!」



 ニクスが言った。



「僕の宝物だよ!」



 二人だけの秘密だよ。



「明日もここで遊ぼう」



 ニクスが言った。



「約束だよ」



 あたしとニクスは友達だった。

 これ以上ないほど、信頼し合っていた。



「ニクス」

「ニクス」

「まだかな」



 あいつが、約束を破るまでは。



(許さない)


 あたしを傷つけた。


(許さない)


 全部ニクスが悪い。


(許さない)


 あの日、あたしは待ってた。

 こんなふうに、じっとしてた。

 こんなふうに、寒気に耐えて待ってた。

 ニクスが来てくれると信じて。

 ニクスを信じた。


 なのに、




 あいつは、




 二度と、現れなかった。






「はむ」





 はっと、我に返る。


 食べてもいないのに、パンが二口分なくなってた。


(え)


 驚いて、思わずぱちぱちと瞬きが繰り返される。


(…え?)


 しかし、その気配に気付く。あたしの隣にいる奴の気配に。


(…………)


 パンを勝手に食べた相手を頭の中で特定すると、視線をそっちに向けなくとも、どんどん眉間に皺が寄り、あたしの可愛いお顔が険しく歪んでいった。


「…………」

「うん、美味いね。これ、どこのパン?」


 口の中でパンを噛みながら、暖かそうなつば付き帽子を深く被ったキッドがあたしに尋ねる。隣に堂々と座るキッドを横目でぎろりと睨むと、キッドがあたしに顔を向け、にんまりと愉快げに微笑んだ。


「久しぶりだね。テリー」

「散れ!」

「あっはっはっはっは! 相変わらず俺には手厳しい!」

「人のパンを勝手に食べないでくれる!? 汚らわしい! 最悪よ! あんたの唾がついたじゃないのよ!」

「ふふっ! そりゃいい。間接キスだね!」


 ぱちんとウインクするキッドに、叫ぶ。


「くたばれ!」


 おえっ、と呟いてパンをキッドに渡すと、キッドが受け取り、それに噛みつく。むしゃむしゃとパンを頬張りながら、あたしを横目で見つめる。


「酷いなあ。せっかくこうして会いに来てあげたのに」


 あ、


「今日も髪結んでるんだ。素敵だよ。そのポニーテール」

「口説きは結構」


 じろっと、また睨む。


「何よ。地震の原因でもわかったの?」

「んー、その事なんだけどさー」


 キッドが口の中のパンを飲み込み、ちらりとあたしを、その艶やかな色っぽい瞳で見てくる。


「テリー、昨日の夜ってどこにいた?」

「はあ?」

「夜だよ。夜」

「昨晩?」

「そう。婚約者のことを考えて、眠れない夜の事さ」

「はっ」


 鼻で笑い、あたしはパンをちぎった。


「家にいて爆睡したわ」

「嘘つき」

「何が嘘よ。昨日の夜でしょ。家にいた」

「いけない子だね。テリー。婚約者に隠し事は駄目だよ」

「隠し事?」

「21時」


 あたしはパンを噛んだ。


「お嬢様が屋敷から抜け出して夜遊びなんて、趣味が良い」

「………」


(なんで知ってるのよ)


「お前さ」


 キッドが目を細めた。


「なんで震源地で遊んでるの?」

「………………震源地?」


 横に顔を向けると、キッドがにこにこと、あたしに体を向けていた。


「観測されてるのはあそこだ。お前が俺の知らない誰かと遊んでた、あの場所」


 あーあ。


「夜の密会。浮気をされて、俺は傷ついてるよ。テリー」


 わざとらしく、胸に手をやる。


「そう、俺は傷ついてるよ。それはそれは、深くもろく、俺のハートは氷のガラスだからね」

「さっきから何言ってるの? 探偵ごっこがしたいならバーにでも行って」

「だからさあ、俺は愛するお前に注意したいわけだよ」

「注意?」

「誰から教えてもらったの? あの場所」

「……何言ってるのか……」


 わからない、と言う前に、あたしの声をキッドが遮った。


「ニクス・サルジュ・ネージュ?」


 ―――じっと、キッドを睨む。黙って、ただ、睨むだけ。しかし、キッドはにんまりと笑っているだけ。


「正解?」

「………………」

「ねえ、テリー? あの子はお友達?」

「………………」

「それとも、恋人? 片想い?」

「………………」

「ふふっ」


 キッドがあたしを睨む。


「何とか言えば?」


 あたしもキッドを睨む。


「勝手に人の詮索しないでくれる? 気持ち悪い。ストーカーと同じじゃない」

「ストーカーじゃないよ。婚約者だ」

「へーえ。婚約者なら、何してもいいわけ?」

「リトルルビィの家にも一緒に行ったんだって?」

「あの子が言ったの?」

「リトルルビィじゃない部下からの報告」

「ああ、そう。でしょうね」

「テリー、ニクスのことについて訊きたいんだ」

「それ誰?」

「ちょっと。テリー、何言ってるの? お前と遊んでた相手のことを忘れた?」

「あ、噴水に雪が積もってる!」


 12歳発動。あたしはスイッチを押して、噴水に振り向いた。


「まあ、素敵。ロマンチックぅ!」

「テリー」

「やだぁ。このお兄ちゃん、人を詮索してきて気持ち悪い。あたし、もう帰ろうかな。このままじゃ、せっかく買ったパンがお兄ちゃんに全部食べられちゃう」

「テリー、誤魔化さないでくれる?」

「話しかけないで。一般人。あたしを誰だと思ってるの。テリー様よ」

「はいはい。テリー。ちょっと俺とデートしようよ。話がしたいんだ」

「あたし、もう帰る」


 立ち上がり、パンの袋を抱えようとした瞬間、


 地面が揺れた。


「っ」


 かなり、大きく。


「ひゃっ」


 広場を歩いていた人々が一気に倒れる。体のバランスが保たなくなる。あたしも例外ではない。凍った噴水に倒れそうになったのを、キッドが素早く腕であたしを抱え、そのまま引っ張り、あたしを胸に閉じ込めた。


「うぷっ」

「静かに」


 キッドがあたしを抱きしめる腕に力を入れた。地面が揺れる。キッドに締め付けられる体が痛い。強く強く抱きしめられる。何があっても絶対に離さないように。人々の悲鳴が聞こえる。木が揺れる。雪山が崩れる。人が雪に転んだ。雪が木の枝から降ってくる。つららが降って、近くにいた人が逃げた。つららが雪に刺さる。しかし、まだ揺れる。それでも揺れる。


(地面が揺れてる)


 ―――― 巨人は、どこかに隠れてますよ。


 サリアの言葉を思い出す。


(巨人…)


 ―――もし本当に巨人がいたとして、以前のミス・クロシェの時の事件同様、犯人の巨人にニクスが何かされてた、とかっていうのは、無いのかな?


 ドロシーの言葉を思い出す。


(いるわけないじゃない…)


 じゃあ、ニクスには何があった?

 なんであの時、約束を守らなかった?


 ―――もしもそんな巨人に見つかれば、気が付く前に、踏み殺されてしまいますよ?


(馬鹿な話)


 サリアとドロシーの言葉が混ぜこぜになる中、あたしは過去を考える。

 あの時のことを。


(思い出せ)


 何があった。


(地震はあったか?)


 地震は確かにあった。


(揺れてた)

(約束の場所に向かう途中、)

(こんな風に大きく揺れてた)


 あたし、転んだのよ。雪の上で。


「痛い」


 でも、ニクスがいると思ったから。


「大変。ニクス、大丈夫かしら」


 でも、ニクスはいなかった。


(何があった?)


 ニクスを待つ間、雪玉を百個作った。でも飽きて、あたしはスケートに戻った。


「るんるーん」


 そしたら、氷の上で見つけたのだ。ニクスの鞄と、木箱と、転がった石。石はどこの地面にでも転がっているような、なんてことない汚い石だった。木箱は見た覚えがないが、鞄はニクスのものだった。


 だから、ニクスがもう来ているんだと思って、あたしは待った。


(ニクスは来なかった)


 いや、でも、鞄はあった。


(来なかった?)


 本当に来なかったのか?


(地震)

(巨人)

(夜)

(約束)

(鞄)

(ニクス)


 違和感が消えない。


(ニクスは)




 本当に、来てなかったの?







 ――――地震が収まった。




「じいや、なんかあった?」


 キッドの声が聞こえて見上げると、キッドが小型の機械を手に持ち、声を向けていた。付き人であるビリーの声が、機械から出てくる。


『いいえ』

「了解。何かあったら報告を」

『御意』


 キッドが機械をコートのポケットにしまい、あたしを、また更にぎゅっと抱きしめた。


「むごっ…!」


 あたしはキッドの胸を押した。


「ひはい! ちゅぶれるにゃない!」


(痛い! 潰れるじゃない!)


「テリー、大丈夫? 痛い所、ない?」

「痛いってば! 離して! 苦しい!」

「俺の愛はそれくらい深いって事さ」

「ふざけてる場合!? 気持ち悪い! 離せ!」

「くくっ。なんだろう。お前、なんか今日暖かくない? …俺にお熱でも出たか?」

「たわけ! ほざけ! くたばれ!!」


 睨むと、キッドが笑い、耳元で囁いた。


「中毒者」


 ぴたりと、止まる。


「中毒者の可能性があるんだよ。ニクス」


 その言葉で、あたしは大人しくなる。キッドは微笑み、あたしの顔を覗き込んだ。


「だから、もう近づいちゃ駄目」

「…………」

「ね?」

「…………」

「テリー、返事は?」


 キッドは微笑む。優しく、あたしの頭をなでる。

 キッドは微笑む。優しく、あたしに忠告する。

 キッドは微笑む。優しく、あたしに警告する。


 その言葉は、酷く乱暴だ。


 あたしはにこりと笑って、返事を返す。


「嫌」


 キッドの目が、どんどん冷たくなっていくのが分かった。


「テリー?」

「身に覚えがないわ」


 中毒者。

 ニクスが中毒者である可能性。


「あたし、そんな人知らない」


 あたしとニクスは友達だった。唯一信頼できる相手だった。キッドが入る隙間などない。


「誰、それ」


 これは、あたしとニクスの問題だ。


「キッド」





 入ってこないで。





「中毒者なら、あんたに任せるわ。この地震も中毒者のせい? じゃあこのパンが美味しいのも全部、中毒者のせい?」

「テリー」

「あたし、難しいこと分からないの。もう家に帰って休むわ」

「もう、テリー」


 キッドがあたしを宥めるように、気持ち悪いくらいの猫撫で声を出す。


「俺はテリーを気に入ってるんだよ。失くしたくないんだ。お前は俺の婚約者。たった一つの希望。愛してるよ。テリー」


 空っぽの言葉を吐いて、あたしの髪を一束引き寄せ、キスをする。


「こんな事で、喧嘩したくない」


 その目は冷たい。


「言う事聞いてよ。テリー」


 あたしの目を覗き込んでくる。


「きっと天からのお声で、お婆様も言われるさ。テリーちゃん。可愛いテリーよ。どうかニクスから離れなさいって」


 それとも、


「もう既に、離れちゃいけないよ、って言われてたりする?」


 くくっと、笑う。


「なんで?」


 キッドは笑ってない。


「なんでお前がニクスといるの?」


 キッドに疑問が浮かぶ。


「もしかして、お前も中毒者?」


 いや、


「それは無い」


 だって、


「お前は異常に過剰に飴を舐めて無いし、知らない人に声もかけられて無い」


 ああ、でも、唯一、


「パン屋でナンパしてたな。お前」


 ニクスに友達になりたいと言っていたね。


「ねえ? どうしてあいつなの?」


 キッドは笑う。


「お前、友達は貴族がいいんじゃないの?」


 一般庶民なんか、貧乏人なんか、興味ないだろ?


「あ、まさか、ボランティア? ああ、テリー。素敵だ。本当に素敵。お前はボランティアでニクスと友達になったんだね。じゃあ、もう関係と断ち切れるわけだ」


 あたしの顔を覗いたキッドが、おどけた。


「嫌か? ああ、嫌そうな顔。言葉にしなくても分かるよ。お前は思った事が顔に出るから」


 キッドは詮索する。


「どうしてこうも、お前は事件に巻き込まれやすいんだろうね?」


 誘拐事件も、

 通り魔事件も、

 今回の件も、


「必ずお前がいる」


 くくっと、また笑う。


「不思議だね? テリー」

「何よ」


 キッドを睨む。


「あたしが犯人とでも言いたいの?」


 キッドは否定する。


「そんなこと言ってないよ。誰もね。お前を疑ったことは一度もない」

「今、疑ったじゃない。嘘つき」

「冗談さ。俺がお前を疑った事は一度も無い。愛した事は何度もあるけど」

「…嘘つき」

「へえ、嘘つきか」


 じゃあ、こうしよう。


「ボディーガードの騎士として、お前を守るための忠告」

「結構よ」

「テリー?」


 ずいっと、キッドが顔を近づかせる。


「今、何が起きてるか、助言は来てないの?」

「……まだ、何も来てない」

「そう」

「何よ」

「ふふっ」

「何か、起きてるの?」

「うん」

「………」

「でも、お前が知らないって事は、お前の家は無事なんだろうさ。だから伝える必要は無い」

「不公平じゃない? あたしの事は何から何まで知っておいて、自分は隠し事?」

「隠してないよ。お前が知る必要が無いと判断しただけだ。それとも、何? お前、俺の事が知りたいの? だったら、いいよ。答えてあげる。何から答える?」

「結構よ。お前の事なんて知りたくない」


 胸を押す。


「いい加減に離してよ」

「待って。テリー。そう怒らないで」


 キッドの手があたしの腰から離れない。


「ねえ、またニクスと遊ぶの?」

「関係無いでしょ」

「関係あるよ」

「関係無いでしょ」

「だって、お前は俺の婚約者だよ? 将来のお嫁さんに何かあったら、俺泣いちゃうよ」

「泣けるものなら泣けばいいわ」

「テリー」

「あんたが泣く時は、あたしに利用価値が無くなった時でしょ」

「互いにそうだろ」

「もう黙って。口が動けば動くほどお前は胡散臭いのよ」

「胡散臭くて結構。お前を守るためだ」

「嘘つき」

「何とでも」

「何も知らないくせに」

「何を知らないって?」

「いいから離して」

「嫌だね」

「離して」

「駄目」

「キッド!」

「離さないよ。お前がニクスに二度と近づかないって言うまで、離すもんか」


 ぐっとキッドが腕に力を入れた。あたしの腰の骨がきしむ。


「ん」

「痛い?」


 キッドが笑う。


「もっと痛くする?」


 キッドを睨みつける。キッドはあたしに笑うだけ。


「ああ、可愛いおめめだ。綺麗だよ。テリー」


 骨がきしむ。


「この骨を折ったら、お前はベッドで大人しくなる?」


 もうニクスに会わなくなる?


「や…」


 胸を押すが、びくともしない。


「やめ…」

「いいよ。ニクスに会うのをやめてくれるなら」

「…この…」

「愛してるよ。テリー。お前の睨んでくる目って最高にいいよ」


 さらに、力がこめられる。


「…っ」

「テリー、無理は良くない」


 本当に折っちゃうよ?


「テリー」

「………」

「テリー」


 キッドがあたしを睨んだ。


「答えて」


 あたしは大きく、息を吸って、その方向に叫んだ。


「ニクス! 駄目!! こっちに来ないで!」


 キッドがあたしの視線の方向に振り向いた。その隙を見計らって、キッドの胸を思いきり突き飛ばす。


「うわっ」

「この!」


 倒れたキッドの背中を踏みつけた。


「クソガキが!」

「いだっ!」


 キッドが起き上がる前に、あたしは全速力で走り出す。


「テリー!」


 後ろからキッドの叫び声が聞こえる。その足音は早い。


(くそ)


 捕まったら最後。


(あいつのせいで腰が痛いわ。どうしてくれるのよ!)


 振り向かずに走る。建物の陰に入って隠れる。キッドが横を走っていく。その後ろを走ると見つかる。あたしは走る。キッドが追いかける。壁を曲がって走った先にキッドが姿を現した。あたしは慌てて足を止めて、後ろに振り返って走る。道路に出る。走る馬車の間を通って走る。キッドが追いかけてくる。


「失礼! どうも!」


 キッドがひょうひょうと抜けて走ってくる。あたしは人の間に潜る。キッドも潜る。あたしは抜け出して噴水を走る。キッドが反対方向から走ってくる。あたしは振り返って後ろに走る。キッドが反対方向から走ってくる。あたしはキッドを睨み、キッドは笑い、あたしが先に走り、建物の狭い間に入った。キッドは入れない。間を進んで抜ける。少し広い裏路地。キッドの足音が聞こえた。あたしはまた広場に戻る。抜けたら、分かっていたようにキッドが追いかけてきた。


「しつこい!」

「愛してるからね!」

「くたばれ!」

「結構!」


 あたしは走る。また建物の隙間に逃げる。裏道を走る。建物の裏で店を開いている花屋の前を通る。


「よお! お嬢ちゃん!」

「どうも!」

「よお! キッド!」

「どうも!」


 あたしは積もった雪の中に隠れる。キッドが前を通る。あたしはすぐに抜け出す。走る。裏路地に隠れる。しかし、また前からキッドが走ってくる。あたしはまた走る。

 隠れても、逃げても、キッドが追いかけてくる。その足音が聞こえて走って、また走って、また見つかって、また走る。


(切りがない!)


 あたしは足を滑らせて、前に走ろうとした道を横に曲がる。


「ドロシー! 手伝って!」


 叫ぶと、横から手が伸びる。


「っ」


 ぐいっと裏路地に引っ張られる。

 その道に、キッドがやってきた。はあ、と息を吐き、汗を拭い、ゆっくりと歩き出した。


「テリー、出ておいで」


 キッドの声は優しい。


「もう、テリーってば、鬼ごっこがそんなに好き?」


 おどけて笑うキッドが追いかけてくる。


「我が愛しの姫。ほら、怖くないよ。出ておいで。何もしないから」


 キッドの口角が下がった。


「お前にはね」


 走っていく。足音が消えていく。





 ―――ドロシーが、あたしをぎゅっと抱えて、その様子を空から見ていた。



「……………」


 ゆっくりと、あたしに視線を向ける。


「何があったの?」

「鬼から逃げてたのよ」


 あたしはドロシーの肩に腕を絡め、走っていくキッドの背中を見つめる。細い道を進んで、辺りを見回して、また走る。あたしが行きそうな道を確実に選んでいる。


(ドロシーがいなかったら、逃げられなかった)


 舌打ちをして、そのまま、城下町を眺めた。


「あいつ、ニクスの事を嗅ぎまわってた。あたしの事もよ」

「ん? ニクスと君を? どうして?」

「中毒者の可能性があるって」

「………。中毒者、ね…」

「キッドが言ってた。あたしとニクスの遊び場所。あそこが震源地だって」

「震源地?」

「ニクスはあたしと震源地で遊んでた。雪の国と呼んで、雪の城があって、雪の王様がいるって」


 あのお城に入ったら駄目だよ。


「ニクスは城に入るなって言ってた。王様がいるから」

「でも、何も無かったんだろ?」

「そうよ。何もなかった。あったのは古ぼけた鏡だけ」

「キッドにその事は?」

「言ってない」

「テリー、協力してもらえば?」

「ドロシー、これはあたしとニクスの問題よ。どうしてキッドに頼らないといけないの?」

「中毒者って、つまりは、あの吸血鬼と同じって事だろう?」

「リトルルビィはもう中毒者じゃないわ」

「テリー、ニクスがそうだったとしたら、いなくなった理由も納得がいく。君が話していた、あの、呪いの飴とやらを舐めて、呪われるんだ。ニクスは呪われて」


 ドロシーが固唾を呑んだ。


「…呪われて、命が、誰もいない所で、尽きて、そして、いなくなる」


 そして、


「約束を守らなかった」


 テリーの前に、


「二度と、現れなかった」


 あたしは眉をひそめた。


「ニクスが死んだって言うの?」


 鼻で笑う。


「馬鹿馬鹿しい。あいつはいなくなったのよ。事件は何も無かった。死体も無かった。ニクスは死んでない。あたしとの約束を、すっぽかしていなくなっただけよ!」

「テリー、断言は出来ない。ニクスは中毒者かもしれないし、そうじゃないかもしれない。何か事件に巻き込まれたのかも。そして、亡くなった。その後、ニクスの死体は誰にも見つからなかったのかもしれない」

「だから、ニクスは死んでないってば!」

「テリー、落ち着いて。何をそんなにムキになってるんだ」

「……ムキになんか、なってない」


 あたしは静かに呼吸する。


「そうじゃなくて」


 違和感だらけ。謎だらけ。合点がいかない。調べても、調べても、あたしはますますわからなくなるだけ。


「今日、ニクスにパンをもらったの」

「嬉しそうだった」

「見てて憎たらしくなるほど嬉しそうに笑ってた」

「この先も、ずっとパン屋で働くそうよ」

「あたしに美味しいパンを焼くんですって」


 顔を殴ってやりたかった。


「だったら、なんで約束を破ったの」

「なんで来なかったの」

「なんでいなくなったの」

「ニクスに何があったって言うのよ」

「あたしは、探してたのに」


 ニクスの手掛かりは、一切無かった。


「これはあたしの問題なの。あたしとニクスの問題」


 キッドは関係ない。


「あたしが真実を確かめる。自分の力でね」


 平気よ。


「あんたに貰った魔法もある。あたしは死なないわ」

「……テリー、悪いけど、今回はキッドの言ってる事が正しいと思うよ。もし、ニクスが危険人物だった場合、君が無事に屋敷に帰ってくる保証はない。心配してくれてるんだよ。信頼出来るかどうかは別として、とても優しい子じゃないか。ニクスがただの子供じゃない可能性が出てきた今、ニクスと会うのは非常に危険だ」

「…だったら、再現するわよ」


 眉が吊り上がる。


「再現して、約束を取り付けるわ」


 会話を、やり取りを、関係を、再現して、


 もう一度、


「約束をするわ」


 ニクスに何があったのか、あたしが確かめる。


(ニクス)



 今夜も会いましょう。楽しく、遊びましょう。







「…で?」


 ドロシーが城下町を見下ろした。


「どこで下りる?」

「…まだキッドがあたしを探してる。このまま家まで送っていきなさい」

「ねえ、ぽかぽかテリーちゃん、君、なんか忘れ物してない?」


 ―――――あ。


「……パン」

「…いいかい。これは貸しだからね。金平糖、二袋分だ」


 ドロシーが、手を開いた。瞬きをすると、何も無かった手の中には、パンの袋が握られていた。



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