第7話 失われた4号棟へ

 あれから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 雑木林内部の調査は、足場の不自由と想像以上の広さで難航していた。

 もはや精力的に調べてるのは遠乃だけ。雫は疲れているようだし、千夏は体調が悪いのかふらふらしていて、伊能さんは千夏の側で面倒臭そうにしている。

 そして、僕にも目に見える成果は何も得られていなかった。

 ……だが、この空間を支配している“あの違和感”は拭えないでいた。

 見えるものは何もないのに、見えないものの気配だけが強くなっていく。


「…………」


 どうすることもない葛藤を振り払おうと、動かした視線の先。

 ――真夜中のような暗がりで、明確に顕在する闇の塊があった。

 悠然と佇んでいて、微動だにしないというのに、生き物のようなそれ。

 奇妙だ、絶対に奇妙だ。おかしいなんてことは分かっている。

 だけど、危機感を覚える感情以上に、それは素晴らしいほど魅力的で。

 気づいた時には、僕の足は無意識のまま、流れるように向かっていた。


「……誠也、何してんの?」


 後ろから遠乃の声。思わず体が硬直する。

 だけど、それは刹那的なもので。すぐに足は動き出し始めていた。

 止めろ、止めてくれ。そう思っても、思考は使い物にならなかった。

 近づいていく内に、脳に靄がかかっていって何も考えられなくなる。


「――、――、――、――」


 誰かが後ろで繰り返し叫んでいるようだけど、どうでもよかった。

 ただ、ひたすら、足元の草木を掻き分けてあの闇へと向かっていく。

 理由は分からずに。脳を動かしたとして、分かるはずもないのに。

 そして、ついに闇に手が触れてしまった時。僕の意識は途切れていった。




 何故か、僕は夢のようなものを見ていた。

 思わず手元を見ると、毛深くごわごわとした何者かの手が見える。

 察するに、おそらく40代くらいの男性のものだろうか。

 辺りを見渡すと生活感がある部屋。広くはないし、散らかっている。

 どうやら僕は、とある家に住む、とある男性になってしまったらしい。

 普通に考えると不可解な現象であり夢だったが、何故か僕は受け入れていた。


「……はぁ」


 意図せず、口から重々しい溜め息が出てくる。

 男性は何かの衝動に駆られるように、手探りで腕を動かし始めた。

 片手にはライターがある。うっすらと部屋から煙の匂いがすることから、この男性が探しているものは煙草だと思われる。

 煙草なんて僕は吸わないし吸いたくないけど、この男性は吸うみたいだ。

 僕の意思と違う行動を取ったことから、夢の中でこの男性になったというよりは、この人が見ている光景を映像として感覚と一緒にに味わっているようだった。


「あった! ……ないのかよ、ちっ」


 やっとの思いで手に入れた箱の中身は空っぽ。

 男性は苛立ちで箱を床に叩きつけた後に鉛のような体を立ち上げた。

 ……こんなに体は重いものなのか?

 体型は中肉中背と一般的。物理的な障害は何もないのに。

 不自然な感覚に違和感を覚えているところ、男性は部屋を出ていった。

 玄関には無造作に置かれた靴に、汚れた鏡と不気味な人形が飾られている。

 この場と不釣り合いな人形も気になったが、僕の意識は鏡に向かっていた。


「…………」


 鏡に映る男性の顔を見て、最初に感じたものは恐怖。

 顔に入れ墨だとか、極端に醜形だったとか、そういうことではない。

 ――感情がない。というより、表情の筋肉が死に絶えている。

 目や鼻や口はちゃんとあるのに、まるでのっぺらぼうのように思えた。

 それに生理的な気味悪さを覚えていると、反対側の人形にも目が行った。

 深い黒髪に、独特の顔の造り、そして着物。いわゆる日本人形である。

 これも異様だった。だけど僕にはあの男性顔が印象に残りすぎていて。

 変わった趣味を持っている人なのか、くらいにしか思わなかった。


「……はぁ」


 鬱陶しそうに、大きく息を吐いて男性が扉を開けた。

 どうやらこの場所は集合住宅の一角で、外は通路になっている。

 通路の外を見ると、住宅の外の景色を見ることができた。

 遠方には高層ビルの1つもない、昔の日本を思わせる町並み。

 近くを見れば、機能的な集合住宅――ここが団地であることに気づく。

 ……この建物の配置は。間違いない、黒羽団地そのものだった。


『304号室の大内さん、まだ働き先を見つけてないんですって』

『嘘でしょう? 早く消えてほしいわよねぇ。何もできない無職が私たちの側にいるなんて、おちおち子どもたちを遊ばせられないわよ、まったく』

『早く死んでもらいたいわよねぇ。あっ、そうだ。大内さんのお宅に毒電波を流し込んでみるというのはどうかしら?』

『それが良いわ! あの屑を撃退しましょうよ、他の人も誘って!』


 僕の思考を遮るように、声が聞こえてくる。

 聞こえた方向を見ると、通路の途中で2人の女性が会話をしていた。

 誰か、おそらく男性への悪口だろう。この体が強張っているから分かった。

 しかし、その内容は支離滅裂。毒電波とか、馬鹿げている内容だった。

 ……冷静に考えて、本当にこの人たちがこんな会話をするわけがない。

 感覚ではわかっている。だけど声は確かに聞こえる。こちらを嘲笑するように。

 そして、客観的な視点から眺めている僕でさえ不安に感じるのだから……現実の主体として認識している男性には苦痛でしかないだろう。

 ひいぃ、と引きつった声を上げて男性はその場で足を竦ませていた。


『あいつ、また禁煙に失敗したのかよ。根性なし』

『生きてる価値ないよね。でも、こっちとしては都合が良いよね』

『スバラヤマーケットと近所のナイントゥエルブが販売する煙草には、あれを殺すための毒が埋められてるんだ』

『煙草を吸わせるんだ。そうすれば殺せる。殺せるんだ。わーい、わーい』


 今度は外の向こうから子どものような声が聞こえてきた。

 見下ろそうとした時に確認をしたが、この場所は四階。

 そもそもの話、距離的な意味で声が聞こえてくることはありえない。

 禁煙に失敗したと、この子どもたちが知っているのかも不明だ。

 ――だけど、聴覚は、脳の思考は明確にそれを捉えてしまっているのだ。

 感情鈍麻。幻聴。被害妄想、被毒妄想。思考伝播。

 雫が、精神医学の講義で学んだと言ってたな。……統合失調症の症状。

 そんなことを思い出していると、男性はその場から立ち去って部屋に戻る。

 強迫的な様子で鍵を数回開け閉めした後、一息ついたのか床に座り込んだ。

 

『アイツラを殺せ、アイツラはお前を狙っている』

『お前は政府のスパイに狙われている。殺られる前に殺るんだ』

『早くしろ、ニホン政府からの電波攻撃から身を守るんだ。早く、早く、早く』


 しかし、それはすぐに終わった。部屋の中でも聞こえた幻聴。

 命令口調のそれに思わず耳を塞いだものの、それは何の意味もなかった。

 声はただひたすらに聞こえてくる。これは幻聴だと、あり得ない話だと自分の脳みそに言い聞かせても、その全てが無駄に消えていった。


「あああああああああっ!!!!」


 奇声を発して大暴れする男性。

 玄関を荒らし、鏡を割った男性は人形の前で倒れ込み始めた。

 数秒の後に顔を上げ、人形に手を合わせる。まるで何かを祈るように。


「助けてくださいお願いします神林さまお願いします助けてお願いします神林さま助けて神林様お願いします助けて助けて神林様お願いします助けてお願いします助けて神林様助けて殺して助けて神林様助けてお願いします助けてお願いします」


 聞いてるだけで狂いそうな譫言を、念仏のように呟く。

 特定の単語を壊れたラジオのように繰り返していて、こちらまで狂いそうだと感じたと同時に気になることがあった。この男性が発した“神林”。

 呪いのゲーム事件で、ゲームが送られてきた封筒に書かれていた名前だ。

 ……何で、その名前が出てくるんだ。

 変な疑問に囚われた僕が、意識をさらに集中させたその時だった。


「俺を殺そうとする奴らを、ミンナノロイコロセェェェェッ!!!!」


 耳を貫くような絶叫、そして僕の意識はまたもや途切れていった。




「う、ううっ……?」


 目が覚める。僕今まで冷たい地面の床で寝ていたようだ。

 とりあえず立ち上がる。その際に自分の両手を確認してみた。

 うん、僕のものだ。自分の体と現実の世界に戻ってきたことの安堵感。

 落ち着くと、次に僕はどこに居るのか気になった。辺りを見渡すことに。


「…………」


 僕の周りは、濃い霧のような何かで包まれていた。

 離れた場所はまったく見えない。灰色混じりの白に包まれている。

 唯一見えたのは、無機質な、多くの人間が住むことが想定された建造物。

 それは……昨日と今日で飽きるほど見た、黒羽団地の棟だった。

 現実のものと比べると真新しい印象はあったが、構造は確かに一致している。

 次に空を見上げてみた。空は雲が一面に広がっていて、日差しはない。

 そして、団地棟の上の端に……”4”という数字が刻まれていた。


「……まさか、な」


 異界のような奇妙な空間。黒羽団地の団地棟と同じ構造の建物。

 そして、4番のマーク。あるはずのないマーク

 これらの事実が、僕の頭である結論を結びつけた。


 ――ここは、黒羽団地の4号棟なのか?


 その結論に血の気が引いた僕は、団地棟の入り口で何かを見つけた。

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