麦の秋

里内和也

麦の秋

『このスタジオには窓があるんですが、とてもきれいに月や星が見えてます。秋はまだ少し先ですが、それでもお月見したくなるような空ですね。みなさんが住んでおられる地域はいかがでしょうか』

 ポータブルラジオから流れる女性パーソナリティの声は、静かだが、芯を感じさせる。昼間、何か嫌な出来事があったとしても、聴いているうちに心のささくれが消えせそうな包容力を持っていた。

 自宅のベランダから空を見上げると、電波の向こう側同様、こちらも月や星が皓々こうこうと輝いている。単に晴れているというだけでなく、空気が澄んでいるのだろう。

 その夜空に、地響じひびきにも似た音とともに、色鮮やかな光が広がった。花火大会の始まりだ。打ち上げが行われている方角からは、人々の喧噪けんそうもかすかに伝わってくる。

 最初の一発を皮切りにして、次々と光と音の花が咲き乱れる。今が夜なのか昼間なのか、わからなくなりそうなまばゆさだった。

 ラジオはトークから曲へ移り、しっとりしたメロディのジャズが流れている。花火のにぎやかさとは少々不釣り合いなはずなのに、俺には妙にしっくり来た。

 グラスに注いできた麦茶を一口飲むと、冷たさとほのかな甘みが口中に残った。本音を言えば、同じ麦なら酒のほうが好みだが、アルコールを受け付けない友人に合わせて、毎年お茶のほうを用意し続けた。「こっちは気にしなくていいから、ビールでも焼酎でも好きな物を飲めばいいのに」と、何度となく言われたが、どうにも自分だけ酔う気にはなれなかった。

 さして広くもないベランダでの花火見物が恒例こうれいになったのは、何気ない愚痴ぐちがきっかけだった。「花火は見たいけれど、人ごみを我慢しなけりゃいけないと思うと気が乗らない」と言われ、花火ならうちのベランダからよく見えるぞと教えたら、あっという間に話がまとまってしまった。

 こうやって麦茶を飲むのも、何度目になるだろう。合わせる相手はもういないのに、結局今年も、酒を買う気にはなれなかった。

 ラジオは曲が終わり、再びトークに入った。

『夏の楽しみといえば、花火もその一つですね。その花火に、目を楽しませるのとはまた別の意味があるのをご存知でしょうか』

 タイムリーな話題に、思わず耳をそばだてた。見て楽しむ以外に、何があるんだろうか。

『それは、死者の魂をしずめること。昔、飢饉ききん疫病えきびょうでたくさんの死者が出た時に、花火を打ち上げてその慰霊いれいをしたそうです。花火がよく行われる時期が、死者がこの世に帰ってくるというお盆と重なるのも、ひょっとすると関係しているのかもしれません』

 夜空という大舞台では、むことなく光の演出が続いている。

「魂を鎮める」――穏やかな心であの世へ旅立ってくれと祈る、ということだろうか。これだけ盛大な光と音なら、あの世への旅路たびじにもしっかり届きそうだ。

 麦茶をもう一口飲むと、その奥にほのかな苦みを感じた。元をたどれば酒と同じ物でできているのだと、改めて気づいた。

 宗教や信仰とはあまり縁のない人生を送ってきたけれど、今夜ばかりは、祈る気持ちが自然とわいてきた。

 こっちは気にしなくていいから、迷わずに旅路を歩めと、ただただ祈り続けた。

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麦の秋 里内和也 @kazuyasatouchi

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