第11話 ― 打たれる杭と紺色

 飯塚光汰いいづかこうたは、中学校に上がるまでは剣道に対してそれほど興味があったわけではない。単に兄がサッカーなら自分はそれ以外の何かで頑張りたいという、ちょっとした対抗心で選んだだけだった。


 その割には技術を習得するまでが早かったのはつまり、自惚れを承知で言うならば多少の才能があったのだろうと彼は考えている。その事は彼にとってただの事実でこそあったが、断じて他の部員を見下す理由にはならないし、同時に自分が鍛錬を怠る理由にもならなかった。


 単に自分は人より少し物覚えが早いだけ。それは個人差のレベルで、決して他者の努力を無視していいような「差」じゃない。

 もちろん、そんな考えを他者に聞かせれば「上から目線だ」とあっという間に反感を買う。その程度の事は中学生でも知っている常識で、だからこそ彼は決して他人にそんな態度は見せなかったし、極力「才能」という言葉そのものを口に出さないように過ごしていた。

 ところが本人がどれだけ避けていようとも、波風を立てないよう気をつけていても、周囲にとってはそうもいかなかったらしい。


 ――お前、チョーシ乗ってるだろ。


 部内で最初にそんな言葉をかけてきたのは、自分より一つ上の先輩だった。細長い輪郭に切れ込みのような目が蛇を連想させる顔で、声を掛けられるよりずっと前から「あの先輩ちょっと怖いなぁ」などと思って意図的に避けていた節がある相手だ。

 何の前触れもなく、剣道の練習中に背後からいきなりそんな言葉をかけられて返答に戸惑ったその間も、その先輩曰く「チョーシ乗ってる」行動だったらしい。ほんの一瞬の間でしかなかったのに目の角度が吊り上がって、舌打ちの音が聞こえた。


 やっぱりこの先輩怖いな。そう思った光汰はとっさに視線で顧問の姿を探した。剣道部の練習中なので必ず近くにいるはずだ、と思っていた顧問はこんなタイミングに限って席を外していた。

 トイレにでも立ったのか。よりにもよって何故今、とその時は思っていたが、思い返せばあれは逆で、顧問がその場を離れたタイミングだったからこそ声を掛けられたのだ。


 ――一年の間じゃチヤホヤされてるのが気分いいのかよ。自分才能マンですからーって感じ? さぞ俺たち先輩の事なんて舐めてるんだろうな。


 とんでもない言いがかりだ。光汰は決してそんな風に思った事などないし、一年生の間でチヤホヤされた記憶など一切ない。慌ててそう弁明したものの耳を傾けてはもらえず、強く胸を突き飛ばされて背中から倒れてしまった。


 ――出る杭は打たれるってよく言うじゃん? チョーシ乗ってる後輩は俺がちゃんと教育してやらなくちゃなあ。


 そう言って先輩が竹刀を振り上げた丁度その辺りで、場を離れていた顧問が戻ってきていなければどうなっていたかは想像する気にもならない光汰だった。

 それでも、大人しくしていればさすがにもう大丈夫だろうとその時は楽観的にとらえていた。先輩に怒られたのも、無意識にどこか生意気な態度を取ってしまっていたのかもしれないと、今まで以上に他者への接し方や態度に注意しようと決めて臨んだ翌日から全てが始まった。


 真面目に竹刀を振っていると背後からひそひそ声が聞こえる。休憩中に水を飲んでいると昨日とは別の先輩に背後からぶつかられる。荷物が置いた場所から時折消えて、物陰に転がされているのを見つけた辺りでそれがイジメなのだと確信した。


 そこまでやられて黙っているほど大人しい性格ではない光汰はすぐに顧問に相談した。返ってきたのは「お前は気にし過ぎだ」の一言だけ。

 昨日確かに竹刀を振り上げた先輩が自分の前に立っているのを顧問も見たはずじゃないか、と思ったがあれは「もうあいつも謝りにきたんだから許してやれ」とのことだった。無論光汰の所にその先輩は謝罪になど来ていない。

 当事者ではなく顧問に一言詫びただけのそれで、先輩の行動は禊が済んだことになっているらしい。


 そこから食い下がろうとしたところで、顧問の視線が露骨に面倒くさいものを見る目になったので光汰はそれ以上の抗議を諦めた。この顧問はきっと目の前で自分が殴られても、どれだけの証拠を並べても、きっと謝罪一つが自分にあればそれで話を畳むのだろう。

 だとしたら食い下がるだけ自分の方が不利だ。顧問にとっては「厄介ごとを持ち込む面倒な奴」は先輩ではなく被害者の光汰なのだから。


 それからは、どのイジメも全て精神修行の一環だと無視することにした。背後からの雑音も先輩からの嫌がらせも意識からシャットアウトし、荷物は隠されることを前提にして貴重品は極力持ち歩かなくなった。同級生は既に先輩一同からの指示を受けていて、敵とまではいかずとも味方ではなかった。


 そんな折にやって来たのが、学内での練習試合だ。部員が先輩も後輩も関係なくくじ引きをして、トーナメント形式で試合を行うそれは、光汰にとっては反逆の狼煙に近かった。

 様々な嫌がらせを受けながらも光汰は折れなかったのだ。そして「いつか先輩たちの鼻をあかしてやる」と内心ではこっそり息巻いていた。この練習試合で自分が最後まで勝ち残れば、それは嫌がらせをしてきた先輩達を堂々と見返せるチャンスだ。負けてたまるかと燃えた光汰は持ちうる全ての時間を練習に費やした。

 両親も兄も、練習量が増えた事を事情は知らないままに応援してくれた。いじめについて家族には最後まで話せずじまいだった。教師への抗議はできたが、家族への泣き言は妙にプライドが邪魔をしたのだ。


 迎えた練習試合。土曜日のことだった。

 学校そのものは休みでも、練習試合前のウォーミングアップはできるようにしようと普段より少し早めに登校して、剣道場に着いて――そこには既に先輩が五人待ち構えていた。


 ――才能マンも随分早く来たなぁ。丁度いいや、試合前だけとちょっと手合わせしろよ。先輩が直々に鍛えてやるから。


 蛇顔の先輩を中心に、にやにやと笑う五人組は既に防具をつけ、竹刀を手に持って光汰を取り囲んでいた。拒否権などあるはずもない。かすかに奮える手で防具をつけて、竹刀を持つと、以外にも試合自体は一対一で正々堂々としたものだった。


 なんだ先輩達もそこまで酷くはないのかも、という考えが持てたのはその試合で蛇顔の先輩相手に一本を取った直後までだった。


 ――じゃあ次俺な。その次は俺。じゃあその次に俺行くわ。


 一本取った後、先輩はその場を離れて、次の先輩が入ってくる。戸惑いながらも再度打ち合い、どうにかまた一本を取ると、今度は三人目の先輩が挑んでくる。光汰の方も交代したい、という頼みは無視された。視界の端では最初に負けた蛇顔の先輩が離れたところで水を飲み、休憩している。五人全員との試合が終わった後どうなるのかは容易に想像できた。

 三人目までは一本を取れた。四人目で初めて負けて、これで退けるかと思ったらやはり五人目に挑まれた。これもあっさり負けて、案の定一人目が戻ってきて、また同じことの繰り返し。休憩を許されない光汰と違って先輩五人はゆったりとローテーションを組んでいるので実質疲れ知らずだ。


 そんな「試合前の手合わせ」は結局三巡目以降は数えておらず、ようやく解放されたかと思えばもう試合の十分前。解放の理由はそこで顧問が来たからだ。

 疲労困憊し、精神もすっかり摩耗した光汰は試合で一勝もできず、先輩達の嘲笑を背に浴びながら、涙だけは流すまいと耐えて帰宅し、ついに心が折れた。


 実を言えばその次の月曜日から部活には一度も行っていない。何度か別の部活や趣味を見つけられないかと、放課後にあれこれ探してみて、結局見つからずに帰ることを繰り返した。

 それも全て探しつくして、結局放課後は真っすぐ帰るようになったのだった。

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