§0

ビギニング・ザ・ヒーロー

番外編 猫を探してヒーロー部

 私立T大学には文芸部がない。

 茶原凛太朗ちゃはら りんたろうがそれを知ったのは入学してすぐだった。

 がっかりしたかと言えばそれはもう全力でがっかりしたが、同時に「あっても入部しなかっただろうな」とも自信をもって言えたので立ち直りは早かった。自分の図体と体格で文学青年であるというのは、周囲にとって理解より不審な目を向けられる理由にしかならない。

 茶原がこの年の四月に私立T大学へ入学してから今日で二カ月。他にもいくつか抱えた秘密のうち、周囲にどれをカミングアウトしてもよいものかと悩みながら、結局一つも明かせずにそれだけの期間が過ぎていた。


 文学青年であるという以外にももう一つ重大な隠し事がある。動物、特に子猫やハムスターのような小動物に目がない事だ。ほとんど病的とまで言われるその嗜好を知っているのは、一学年上にいる小学校以来の顔馴染みだけだ。

 大学付近では動物に決して近寄らず、近くで動物関係の話題があっても顔には出さない。だが顔には出さないだけで動物好きが治る見込みはもちろんない。


『迷子の猫を探しています。見かけた方はご連絡ください!』


 事務局前のメッセージボードに一枚だけ張り付けられたその張り紙は、茶原が足を止めるには十分な理由だった。


 シンプルだが大きなフォントを用いたその一文の下には探している猫の写真が二枚印刷されている。丸い目と大きな三角形の耳が特徴的な白い猫。その横に書かれた補足情報では年齢は三歳、性別は雌であるらしい。猫好き基準で茶原の所感を付け加えるなら、猫の中ではかなりほっそりとして整った顔立ちの部類だろう。

 その美人――もとい美猫の顔を見た時、茶原の記憶の隅で何か引っかかったような気がした。なんだろう、どこかでこの顔を見たことがあるような。どこだったか。


「うちの近所……ではないし、大学の近くでは猫は見てないし」


 小声でぶつぶつと呟きながら自身の記憶を辿っていく茶原だったが、今一つ確信に至る情報は出てこない。腕組みをして、首を傾げて、そして周囲の視線に気がついた。

 平日の大学で、しかも昼休みの学校事務局前だ。学校に提出する書類の関係で数名の生徒は常に出入りしているし、そうでなくとも位置的にはエントランスのすぐ近くなので学生の通行も多い。道行く学生のうちおおよそ半数くらいは、通りがけに自分の方へ視線を向けていた。その目に映っているのは少なくとも友好的な色合いではない。


 ――完全に不審者扱いだぜ、俺。そう自分の脳内で警鐘が鳴って慌てて咳払いをし、腕組みを解く。咳払いはわざとらしく、大きく、ただし誰にも視線は合わせずに。

 狙い通り、その咳払いの音が合図だったかのように近くを通りがかっていた人の何人かは歩くペースを速めて立ち去って行った。中には露骨に走って逃げる者もいる。蜘蛛の子を散らすようにというのはこういうことを言うのだろうか。気分の良いものではないが、おかげで周囲からの刺すような視線は随分減った。


 深いため息が口からこぼれそうになるのはどうにか寸前で抑え込んだ。

 二メートル到達まであと十センチに迫る身長も、同年代の他の男と比較しても倍近くある太さの腕や胸筋も、別にコンプレックスではないが少々度を越えている自覚くらいはある。そこに生来の目つきの悪さが加わればそれだけで世間からは「怖い」という感情をぶつける的の出来上がりだ。

 そのことに慣れてはいるし理解もしているが、だからといって決して傷付かないわけではなかった。


 ともあれこのままここに立っていればまた通りすがりの学生からどんな視線を向けられるか分かったものではない。軽く引っかかったはずの記憶を掴めず立ち去ることを張り紙に向かって内心で詫び、茶原がその場から離れようと踵を返した時だった。


 とん、と軽い何かが自分の腰辺りにぶつかったような感触がした後、


「んぎゃあ⁉」


 そんな悲鳴がすぐ背後から上がった。

 ――なんだ今のは、人か。それにしては小さすぎる。ほとんど無抵抗だったぞ、軽く触れた程度の。

 そんな疑問は慌てて振り返るとすぐさま解決した。その場で尻餅をついているのは、耳より低い位置で髪の毛を二つ括りにした童顔の、非常に小柄な少女だったのである。


 とにかく小さい。身長は茶原の胸元よりも低いのではなかろうか。どう見ても自分と同年代には見えない。

 外見の説得力重視で考えるならばキャンパス見学に来た高校生か、もしくは在学生の妹。平日のこんな時間に何故いるのかは納得のいく理屈が浮かんでこないので、信じがたい事だがこの小ささでも自分と同じ大学生なのかもしれない。

 目の前のそんな状況に茶原が困惑していたら、尻餅をついていた少女の目が鬼のように吊り上がった。


「痛いでしょ、もう! どこに目を付けてるのよ!」

「え、ああ……すまん。ちょっと、見えなくて」

「あーそう、見上げるほど背のたっかーいアンタからは、あたしみたいなのは小さすぎて視界にも映らないってわけね?」

「いやいや、言ってない言ってない」


 茶原としては素直に詫びたつもりだったのだが、その一言が何故だか少女の逆鱗に触れる言葉だったらしい。返ってきた言葉は直前と比べて三割増しで刺々しい。声のトーンも低くなっていて、外見の割にはドスが効いている。

 これは面倒くさいのに捕まったかな――などと茶原は胸の内で悪態をついた。このちびっ子が一度許せないと判断した相手には騒がしく敵意をぶつけてくる人種だとしたら、正面から相手をするだけ労力の無駄にしかなるまい。


「……悪かった、そんなつもりは一切ないから安心してくれ。気を悪くしたならそれも謝る、ごめん。申し訳ないけど、俺はもう行くから」


 まだ不機嫌そうな顔をした少女に割り込ませないよう立て続けに謝罪を重ねて、言うだけ言った直後に茶原はその場で踵を返した。少女の返答など待たずに背を向け、その場から数歩離れて、


「え、あ、ちょっと待ってよ」


 そんな言葉と共に後ろから服の裾を引っ張られた。


「あの猫の張り紙。あれ見てたんでしょ? 何か心当たりでもありそうな感じだったけど、もしかして見たことあるの?」


 その言葉に思わず振り返る。言葉の内容もそうだが声の調子もかなり必死で真剣そのものだ。


「お前、あの張り紙した飼い主か?」

「ううん、違うけど探してる」

「何でそんな事を」

「その張り紙の人が困ってたからに決まってるじゃない」


 ――何を言っているんだこのちびっ子は。

 返ってきたのはさも当然とでもいうような口調で、それが茶原には以外だった。まだ自分の服の裾を掴んだままのその少女の目をまじまじと見つめる。くりっとしたその瞳は見つめると一瞬怯んだように揺れて、それから真っすぐに見つめ返してきた。


「まだ名前言ってなかったよね。あたし桃宮。一回生の桃宮胡桃ももみや くるみだよ。お願い、心当たりがあるなら話聞かせてほしいの」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る