第8話 ― 5

 敬語を使うことすらしない赤尾の言葉に、しかし桃宮は自分の発言を撤回する気は無いようだった。他の文芸部員に矛先を向けられて、困らせたくなければ従えと言われた言葉は桃宮の中でよほど大きいらしい。


「赤尾くんはそう言ってくれるけどさ、同じ立場になっても同じ事言える? 文芸部員のあたしたち……だと、ちょっとあたしの方が自信ないから、例の友達。竹沢君の名前出されて、言う事聞かないとこいつ一人の人生くらいなら滅茶苦茶にできるぞって言われてさ。じゃあ悪いけど俺の我儘のために迷惑被ってくれってなる?」

「それは……」


 返答はすぐにできなかった。もしそれが本当に可能な脅しであるというなら、赤尾だって大人しく従うしかないのかもしれない。竹沢以外でもだ。桃宮は自分だと自信がないなどと言うが、さすがに赤尾だってもう文芸部の部員を他人とは呼べない。例えば部員の三人を指して同じことを言われ、自分が一つ我慢するだけで全部丸く収まるなら。


「それにほら、あたしヒーローに憧れてるし? 自分の自由と友達を天秤に乗っけて、自分を取るようじゃヒーロー志望として失格でしょ」

「それは物語の中でしか通用しないだろ! ヒーロー志望がどうとか言うなら、そこで言いなりになってそんな笑い方してる今のあんたこそ失格だ!」


 反射的に大きな声が出た。

 これがヒーローものの物語なら、そこで自分を犠牲にして仲間を助ける話はある。でもそのあと必ずヒーローは自分が助けた仲間たちに助けられて自由を取り戻すのだ。それはおとぎ話だからこそ通用するお約束で、ご都合主義で、桃宮はそんなご都合主義の世界の住人ではない。

 それで助けられた側が喜ぶならまだいいが、生憎赤尾は自分を脅しの材料にされて桃宮が折れたから自分が助かったなどと喜べるほど落ちぶれたつもりはない。茶原も、橙山もそうだろう。誰も喜ばない誰も救われない、ただそれで丸く収まるからというだけの自己犠牲を、弱々しく笑って受け入れる。

 その笑顔は「諦め」と呼ばれる感情のものだ。


 反抗することを諦めている。すれば友人に被害が及ぶから。

 助かることを諦めている。従えば逃げ道がないのは見えているから。

 真実を部室で話すことを諦めている。話せば助けを求めるのと同義だから。

 助けを求めることを諦めている。求めても無駄だから。


 そして諦めている人間に、ヒーローを夢見る資格など無いのだ。助けてもらうことを諦めてヒーローを嫌った赤尾は、それをよく知っている。


「……うん。そうだね、ヒーロー失格だよ」


 怒鳴った赤尾に、しかしやはり桃宮の表情は変わらなかった。きつい物言いで焚き付けられてくれればという目論見が赤尾の頭の片隅にはあっただけに、肯定されて言葉が詰まってしまう。

 そうして言葉を言えずにいると、やがてこちらに背を向けた桃宮が、そのまま校門の方へと歩き出した。固まったままの赤尾を置いて数歩進み、ああそうだ、と足を止めた格好のまま赤尾の方を振り返る。


「赤尾くんが入部した時の勝負、あったでしょ」


 何を言われるか、直感で理解した。――やめろ、言うな。

 ここで勝敗をつけないでくれよ。


「結局赤尾くんに、言わせようと思ってた言葉は言わせられなかったのよね、あたし。それでいてヒーロー失格になっちゃったわけで。これってさ、やっぱりあたしの負けってことになるかな?」


 ――じゃあ、あたしは言わなきゃいけないことがあるよね。

 諦めの表情のまま、ぽつりと。

 その「言わなきゃいけないこと」を突き付けた時に八歳だったころの自分と重ねていたはずの姿はそこになく、桃宮の姿は今のヒーロー嫌いになった赤尾と少しだけ重なって見えていた。


「正義の、ヒーローなんて、別に――」

「それ以上喋るなっ!」


 さっきよりさらに大きな声が出て、さすがに声量で気圧されたのか桃宮の身が一瞬竦む。その一瞬を見逃さずに、赤尾はその場から駆け出した。少し先に立っていた桃宮を一瞬で抜き去り、校門を抜けて、そのままバス停を素通りして走り抜ける。

 バス停で立ち止まれば、すぐに桃宮が追ってきて続きの言葉を言うに違いなかった。そうなるくらいなら、徒歩では少し厳しい駅までの距離を走り抜けてでも。


 ああ自分はその言葉を聞きたくないのだ、と今更だが理解した。

 勝負しろと啖呵を切って、現実を見せてやるなどと言って、結局自分からそれらの行動は取っていない。取る気がなかったのだと自分の事を、走りながら他人事のように気付く。

 大学生にもなって未だに諦めずにヒーローを夢見るあの部長に、今の自分は負けたかったのだ。全力で挑んで、負けて、やっぱりヒーローはすごいなぁ、最高だなぁと言わせてほしかったのだ。もう一度ヒーローはいると信じさせてほしかったのだ。

 大好きだったヒーローを諦めて、嫌いになって、否定する。自分のようになってほしくなどなかったから、続きを聞かずに済むよう赤尾は逃げ出した。


 結局どれくらい時間がかかったのかはわからないが、駅に着くまで赤尾は走り続けた。その間の気分は最悪だった。電車に乗って帰宅するまでの間もずっと。

 そこそこの長距離を走り続けたからか、帰ってからの睡眠で例の夢を見ずに済んだことだけが、赤尾にとっては救いだった。

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