第8話 ― 3

 気がつけば、部室の窓から見える景色はすっかり暗くなっていた。

 スマートフォンで確認する時刻は普段であればとっくに帰宅しているような遅い時間である。それに気づいた辺りで誰からとはなしに「今日はそろそろ帰ろうか」という流れになり、その日は四人で一緒に部室を出た。


「あ、すいません」


 部室棟のある区画を抜け、大学の正門前まで来た辺りで口を開いたのは赤尾だった。雑談でそれなりに盛り上がっていた三人の先輩が揃って自分の方を見る中、赤尾は自分の鞄を開けて中に手を突っ込んでいた。


「どしたの赤尾くん、忘れ物?」

「そうみたいです、ちょっと、バスの定期券を」


 部室か、と尋ねてきたのは茶原だ。赤尾は精一杯困った表情を作ってそれに頷いた。この大学の立地上、通学する学生のほとんどは自宅から電車に乗って大学最寄りの駅まで来て、そこから大学前までくるバスに乗っている。帰りも当然バスと電車だ。

 そして最寄り駅までは徒歩なら三十分はかかる。帰れない距離ではないが、少々面倒くさい事は間違いない。そのことは茶原も理解しているから表情は苦笑いだ。


「バスも最終便ってわけじゃないから一本見送るくらいなら問題ないな、取りに戻るか?」

「いや、でも先輩達全員待たすわけにも」

「いいって、どうせこの時間から帰って急ぎの用事があるわけでもねーし。だいたい部室の鍵、お前開けれないだろ」


 文芸部の部室の鍵はスペアを合わせても三つだけ。橙山と茶原、桃宮がそれぞれ所持してはいるが、今年入部したばかりの赤尾のぶんまでは鍵の数そのものが足りていない。部室に入るなら誰かの付き添いは必須である。

 茶原のその言葉に残る二人も頷いて、その場で引き返そうと向きを変えてくれた。こんな時間帯でも嫌な顔一つせずに付き添ってくれる先輩達には感謝するほかない所だが。


 ――すんません、先輩達。内心でそう詫びてから赤尾は三人の動きを手で遮って止める。実のところ茶原の申し出も三人全員が引き返そうとしてくれることも赤尾には読めていた。赤尾が忘れたことになっているバスの定期券はちゃんと鞄の中の定位置にある。


「全員来てもらうのはさすがに俺の方が申し訳ないですよ……誰か一人来てもらえれば」

「あ、じゃああたし行こうか」


 手を上げて申し出てくれたのは桃宮だ。これも予想通り。

 茶原はたとえバス停までの短い距離でも夜道を女性だけで歩かせることを良しとしないため、この誘い方であれば赤尾の方について来ることは考えられない。橙山のほうは名指しで頼めば特に躊躇いもせずに同行してくれるだろうが、どうも学年が二つ離れているせいか赤尾に対して強く踏み込めないことも多いらしい、と赤尾は見立てている。無茶な絡み方をしてくるときは確実に酒を入れてからなのがその証拠だ。

 このタイミングでこの申し出をすれば、桃宮だけを確実に釣りだせる。赤尾の狙いは見事に的中した。


 じゃあ気を付けて帰れよ、と言い残して先に帰った茶原達を見送り、赤尾と桃宮の二人で部室への道を歩き始める。ほんの十歩もいかないうちに桃宮が赤尾の名を呼んだ。


「で、どしたのよ赤尾くん。何か相談?」


 お見通しかと苦笑いしながら、赤尾の胸中は驚き半分、予想通りだという気持ち半分だ。勘の鋭い部長なので部室に着くまでに見抜かれるだろうなとは思っていた。


「竹沢から連絡がありました。仲直りの話をする前に、かなり気になる話を教えてくれましたよ。先輩、交換条件とか成立してないでしょ、お見合いの件。啖呵切ったかどうかはともかく、向こうがそれに対して折れたっていうのは嘘だ」


 そう言いながら携帯を取り出し、桃宮に画面を見せる。書いてある内容を見て桃宮の表情はみるみるうちに曇っていき、最終的には呆れてるんだか拗ねているんだか微妙な表情へと落ち着いた。


「……どこからこんな情報持ってくるのよ、君の親友は」

「俺が知りたいですよ」


 その辺りも含めて明日の昼にまた顔を合わせて話すつもりだ。もちろん謝罪も。

 竹沢からのメッセージには、桃宮が行くことになっているお見合いについての話が書かれていた。

 持つコネを動員して一条が見つけたという相手とは既に桃宮の関わっていない所で勝手に話が進んでおり、用意された場も出来レースに近いらしい。そこにはもう桃宮自身の拒否権が介入する余地はなく、お見合いに顔を出した時点で合意として扱われる可能性が非常に高いという。

 後は行くだけでいいの、と一条は桃宮に言っていた。本当に言葉通り、後は行くだけで話が成立してしまう段階に来ているということらしかった。


「こんな無茶苦茶がまかり通ること自体が俺からすれば意味わかりませんけどね。もし本当だとしたら先輩、部室で言ってたような話は根本から無意味ってことになりますよ」


 ここまでがメッセージに添えらえていた竹沢の情報。ここからは赤尾の予想だ。


「先輩、この事全部分かってて、それなのに部室で嘘ついたでしょう」


 やけに覇気のない声、疲れきった乾いた笑い方、普段のキャラにそぐわないしおらしい態度。普段と違う妙な部分には、それ相応の理由があるものだ。案の定桃宮は赤尾の指摘を否定することはせず、黙って視線を横へ逃がした。それが返答だった。

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